第六章 薬の噂と西の隣国
あの騒動から、まだ一週間も経っていない。
ジンリェンの縁談騒動。突如として持ち込まれたタニス伯爵家からの縁談に、王宮中が一時ざわついたのは、つい先日のことだった。令嬢イレーネが潔く身を引いたことで表向きは収束を見たが、実のところ、あの数日間で生まれた波紋は未だ完全には消えていない。
事実、兵士たちの一部には未だ噂話を引きずる者もおり、特に“ルージュ”なる女性の正体については憶測が飛び交っていた。けれども、当の本人たち――ジンリェンとフーリェンは、何事もなかったようにそれぞれの役目へと戻っている。
そして現在。王宮の中央棟、重厚な扉の奥にある円卓の間では、ふたたび新たな議題が動き始めようとしていた。
磨かれた円卓を囲むようにして座っているのは、三人の王子とその直属護衛たち。しかし、その円卓には一角、空席があった。そこは本来、第二王子セオドアとその護衛であるシュアンランの席である。両名は現在、東の境界地域である第七隔離区域――第七地区の再調査のため、王宮を離れていた。
「――さて、では本題に入ろう」
アルフォンスの一声で、会議の幕が切られる。卓上にはいくつかの報告書が並べられており、そのうちの一枚に、彼は視線を落とした。
「数日後、西の隣国・リヴェラ王国との定期交易が予定されている。例年通り、医薬品と一部の技術交換が主な内容だが……今年は、いささか警戒を強めねばならないな」
その一言に、ユリウスが少し怯えたように眉を下げる。ルカもまた、思案を含んだ視線を卓へと向けた。
「警戒の理由は、タニス伯爵からの報告に?」
「ああ。リヴェラでは現在、“新薬”の研究開発が進められているらしい」
その言葉に、フーリェンの耳がわずかに動く。けれど彼は静かに耳を傾けただけで、何も言わずにアルフォンスに視線を向ける。
「それだけなら医術国らしい話だが――問題は、その効能だ」
アルフォンスは指先で書面を叩く。
「“筋力増強”“痛覚の遮断”“感情の制御”といった、明らかに軍事転用を想定した内容が記されている。しかもこれが王立医学機関ではなく、民間研究所で開発されているとあれば、国家主導とは言い切れず、余計に厄介だ」
「つまり、制御不能な技術が密かに育っている可能性があるわけ……ですね」
ユリウスが呟き、隣のランシーが低く唸る。
「リヴェラといえば、中立と医療支援を掲げる国ですよね。もし、その裏で他国に戦力を提供していれば……話は変わってくる」
「実際、オルカの異形化計画の資料に、“リヴェラ”の文字があった。……そうだなフーリェン」
アルフォンスに話しを振られたフーリェンは、視線を一度下げて記憶を手繰るように数カ月前のあの実験場での一幕を思い出す。
「……はい、確かに」
静寂が円卓に広がる。ルカが、少し悩むように言葉を選ぶ。
「表向きは友好国。それゆえに、こちらの出方は慎重にしなければいけない、ということですね」
「そうだ」
アルフォンスが頷く。
「交易自体は通常通り行う。だが、その中で現地の動向を探る者が必要だ」
その瞬間、全員の視線が自然と一点に集まった。
「偵察は、お前の性分だな。今回の交易には、医務官のユキが同行する。彼女の補佐として、情報を掴んで来い」
その指名に、フーリェンはすぐに姿勢を正し、頷き返す。
「……御意」
その声は穏やかで、けれど何処か芯を持っていた。数ヶ月ぶりの任務。しかも、それは表向きは“交易補佐”の名を借りた偵察任務である。
脳裏を過るのは、過去の潜入任務で見た光景。人でありながら人ではないものへと変じていく者たち。いろいろなものを混ぜられて、“感情”や“理性”をも切り離されてゆく、あの凍りつくような現場。
あの記憶は、消えない。
「フー」
ルカがふいに言葉をかけた。どこか兄のような声音で、やさしく、けれどまっすぐに。
「今回は正式な護衛の任も兼ねることになる。…深追いはしないでいいから」
「……はい」
短く答えた声は、かすかに揺れていた。
会議の空気は、そこから少しだけ和らぐ。だが、円卓に集う誰もがわかっていた。これは、単なる“交易”ではない。リヴェラ王国――医学に特化した西の国の内側で、何かが静かに蠢いている。それを見逃せば、次に巻き込まれるのはこの国、フェルディナかもしれない。
会議の終わりと共に、分厚い扉が閉ざされる。
そしてその日――リヴェラ王国との交易に向けた準備が、静かに始まったのだった。