第五章 恐怖
夜の回廊を、ジンリェンは足早に進んでいた。隊服の裾が風に揺れ、固く締めた軍靴が石畳を打つ音だけが、やけに大きく響く。胸の奥がざわついていた。何に怯えているのか、自分でも分からなかった。ただ、イレーネのあの目――熱と執念を宿した視線が、焼きつくように脳裏から離れなかった。
恋慕でも好意でもない。あの目は、もっと別の感情――欲望と、占有の色を帯びていた。
心臓が、喉元で荒く脈打つ。呼吸は乱れ、まるで何者かに追われているかのように足が勝手に早まる。
「……どこか……」
無意識に、口から漏れる声。どこか、誰にも見つからない場所――音も光もない、暗闇を求めて、夜の城内をさまよう。
そんなときだった。
「ジン!」
息を切らせて駆けてくる人影が、暗がりの先から現れた。夜に映える白色の隊服の裾を翻し、栗色の髪を揺らしながら走ってくるのは、ルージュに変化したフーリェンだった。だがその姿が視界に入った瞬間、ジンリェンの足が止まり、わずかに後ずさる。
「……っ!」
瞳が、大きく見開かれる。血のように赤い瞳――それが、まるでイレーネのそれと重なって見えた。咄嗟に、身体が距離を取る。ジンリェンの背が、壁にぶつかる。
「ジン……!? どうしたの、僕だよ…!」
慌ててルージュ――否、フーリェンがその腕を掴んだ。そのぬくもりに、ジンリェンはぴくりと肩を震わせた。その動揺の大きさに、フーリェンの心がざわつく。何かにおびえる兄の姿に、即座にフーリェンは能力を解いた。波紋のように柔らかな栗色の髪が霧のようにほどけていく。そこに現れたのは、いつもの白狐。琥珀の瞳が微かに焦りを滲ませながら、じっと兄の顔を覗き込んだ。
「……ジン、見て。フーリェンだよ」
優しく、囁くように。その声に、ジンリェンの瞳が揺れる。重ねられた手を、そっと握り返しながら、彼はようやく息を吐いた。
「……ああ……分かってる…………」
かすれた声が、喉の奥から漏れる。その表情には、未だ残る怯えが色濃く刻まれていた。胸の奥の高鳴りはまだ収まらず、心臓の鼓動が脳裏にまで響いてくる。
そんな兄の様子を、フーリェンは黙って見つめていた。しばしの沈黙ののち、そっと手を伸ばす。冷たい夜の空気の中で、フーリェンの指先はどこまでも温かかった。両手が、ゆっくりとジンリェンの顔を包み込む。手のひらに触れた兄の頬はわずかに熱を帯びていた。フーリェンは優しく兄の髪に指を通す。その動作はとても静かで、まるで壊れ物に触れるようだった。
やがて手は、白い狐の耳へと滑っていく。その柔らかく尖った毛先を、そっと撫でるように指がなぞった。
「……っ」
ジンリェンの身体がびくりと揺れた。しかしそれは拒絶ではなかった。その温もりに身を預けるように、彼はただその場に立ち尽くす。
「……ジン、かがんで」
フーリェンがぽつりと、低く告げた。
ジンは少し戸惑ったように瞬きをしたが、言われるままに、静かに膝を緩めて目線を下げる。次の瞬間――フーリェンの顔が、すうっと近づいてきた。
「……!」
思わず、ジンリェンは目をぎゅっと瞑る。次の瞬間、温かく、柔らかなぬくもりが、そっとジンの額を包む。フーリェンの額が、そっと自分のそれに重なっていた。
ふわりと、兄弟の間に静けさが降りる。
ただそのまま、しばらく時間が止まったようだった。
互いの呼吸の音だけが微かに混ざり合い、夜の回廊にかすかに溶けていく。ジンリェンの肩から、じわじわと強張りが解けていくのを、フーリェンは静かに感じ取っていた。
そして、ぽつりと、小さな声。
「……もう、大丈夫」
ジンリェンの声が、そっと夜の空気に溶けていった。
⋆⋆
夜の回廊から場所を移し、ふたりはいつもの訓練場の端にいた。昼間は兵士たちの声で騒がしい訓練場も、夜になれば人の気配はなくなり、風が草を揺らす音が夜の静寂をいっそう引き立てていた。
ふたりは、背中を寄せるようにして並んで座っていた。灯りも届かぬ訓練場の片隅。遠目には、仲睦まじい兄弟が語らっているだけの光景だ。
だが、近づけば――その空気は、どこか微かに、張り詰めていた。重苦しさとも、痛みともつかない、沈黙の重圧。夜の静けさと溶け合いながら、二人を覆っている。
ジンリェンは膝を抱え、ぼそりと呟いた。
「……やってしまった」
その声は、誰に向けたものでもなかった。ただ、己の胸の奥に向けた懺悔のように。フーリェンはそれに返す言葉を探さず、目を伏せたまま、静かに耳を傾けた。兄が何を言わんとしているか――いや、何を背負ってきたか。弟のフーリェンには、分かっている。
ジンリェンの目に宿る“恐怖”――
イレーネの手が伸びたその瞬間に走った“拒絶”は、あまりにも深く、あまりにも古い痛みに起因していた。
奴隷として飼われていた頃。その頃のジンリェンは、美しい容姿を“武器”ではなく“呪い”として背負わされていた。男であることなど関係ない。ただ美しければ、それだけで価値があった。容姿だけを求められ、人格を無視され、心を削られた日々。性の対象として、消費されることに抗う術もなく、ただ目を伏せていた。
フーリェンは、兄の背に戦や訓練で得た傷ではない、数々の“痕”が刻まれているのを知っている。無数の手が触れ、笑い、貪ったその痕跡を、弟として決して忘れることはなかった。
「たかだか数日……それくらいなら、乗り切れると思ってたんだ」
ジンリェンの声はかすれていた。空を見上げることもできず、ただ頭を膝に押しつけるようにして俯いている。
「……油断してた。あんな目で見られて、……咄嗟に、手が出そうになった」
フーリェンはゆっくりと、兄の手に自分の手を重ねた。言葉ではなく、その手のぬくもりで、答えを返す。
「……俺は、護衛なのに」
ジンリェンのその声に、フーリェンはかすかに首を振った。護衛である前に――兄である前に――ジンリェンというひとりの獣人が、そこにいる。
「……ジンは…、兄さんは、頑張ってるよ」
フーリェンの声は低く、けれど確かな温度を持っていた。その言葉に、ジンリェンはふっと顔を伏せた。
それが涙を隠すためなのか、ただの沈黙なのかは、フーリェンにも分からなかった。
だが、今このときだけは――何も言わず、ただ隣にいることだけが、弟としてできるすべてだった。
⋆⋆
訓練場の片隅、静けさに包まれた夜の空気の中――
その重苦しい沈黙に、一つの影が差し込んだ。
砂を踏むわずかな足音。鋭い気配はない。けれど、確かな存在感を持って、その人物は静かに近づいてくる。夜にも関わらず、彼の姿はどこか柔らかく、静けさのなかに安堵をもたらす。その優しい光のような気配に、フーリェンがはっと目を見開く。
「……ルカ様」
声を掛ける間もなく、ルカはそのまま二人のもとへ歩み寄り、膝を折ってしゃがみ込んだ。訓練場の土が礼服の裾を汚していくのも気に留めず、まっすぐに彼は二人を見つめる。
「……大丈夫、フー」
フーリェンが慌てて兄を立ち上がらせようとした手を、ルカは優しく、けれど確かな力で静止した。
「どうしたんだい、ジンリェン」
その言葉に、ジンリェンがようやくゆっくりと顔を上げた。月明かりに照らされたその目は赤く、感情の波がまだ完全には収まっていない。けれど、ルカの穏やかなまなざしに触れた瞬間、ジンリェンの肩から少しだけ力が抜けた。
「……ごめんなさい。僕……失敗しました」
その呟きは、まるで過ちを告白する子どものようだった。
「イレーネ様に……部屋へ引き入れられて……。拒絶しようとして、……逃げるように……」
言葉はうまく紡げず、時折つっかえながら、それでもジンリェンは口に出した。
「……情けない護衛で、ごめんなさい」
そう言って俯くジンリェンに、ルカは何も言わず、ただそっとその肩に手を添えた。その手は、暖かかった。優しさと、信頼と――決して見下すことのない、まっすぐなぬくもりだった。
「ジンリェン」
ルカは、穏やかな声で呼んだ。
「君が情けないなんて、思ったことは一度もないよ。……君は、たくさんのものを背負って、今ここにいる」
言葉は短く、けれど力強かった。
「護衛である前に、一人の人間だ。過去も傷も、すべてが君の一部なら……その君を信じると決めた私や、アルフォンス兄上は、すべてを受け止めるつもりだよ」
そのままルカは静かに、ジンリェンの肩をぽん、と一度叩いた。
「君たちを見付けた”あの日”から、私はずっと、君たちの見方だ」
ジンリェンの喉が、きゅう、と鳴った。何かが堰を切りそうになるのを、彼はぎりぎりで飲み込んだ。
「……ありがとう、ございます」
絞り出したその声に、ルカはにこりと笑った。
その横で、フーリェンもまた、目を伏せたまま拳を握っていた。兄の苦しみ。王子の優しさ。――そして、自分の無力感。
けれど、いま自分にできるのは、そばにいることだけだ。それがきっと、兄の支えになると信じて。
夜の訓練場は、依然として静かだった。
けれどその静けさはもう、ただの沈黙ではなかった。
優しさと、痛みと、繋がりと――確かな絆を孕んだ、静けさだった。