第五章 仮面
夜の帳が王宮を包み、白い回廊には淡い月光が射していた。その静謐の中を、ジンリェンとイレーネが並んで歩いていた。最後の会食も滞りなく終わり、彼女を部屋まで送り届ける帰路である。ふたりの足音だけが静かに響く回廊に、やがてイレーネの口が開いた。
「……昼間、フーリェン様から少しだけ……ルージュ様のことを伺いましたの」
ジンリェンは隣を歩く彼女を一瞥し、わずかに首を傾げる。ルージュの“正体”を彼女が知らない以上、その言葉はある意味で危うい。だが、彼女の声音に敵意はなかった。
「弟さんの目から見ても、ルージュ様はとても聡明で、優しい方なのだと……だから、私……」
その先の言葉を彼女は飲み込んだ。ただ、ほんの少しだけ速まった呼吸が、彼女の胸中を物語っていた。ジンリェンはそれには触れず、黙って歩を進めた。やがてふたりは、イレーネに与えられた客間の前へとたどり着く。
「では、今宵もお疲れさまでした。ごゆっくりお休みください」
ジンリェンは深く礼をし、その場を離れようと踵を返した――その瞬間だった。
「……お待ちになって」
思いのほか強い力で、腕を引かれた。
振り向くと、イレーネの瞳が真っ直ぐにジンリェンを見つめていた。そのまま引かれるようにして彼女の部屋へと足を踏み入れてしまったジンリェンは、すぐさま距離を取って立ち止まった。
「申し訳ありませんが……護衛が令嬢の部屋に入るなど、あってはならないことです。ご容赦を」
「……困るのです」
イレーネの声が、ジンリェンの言葉を遮った。それは、張り詰めた音ではなく、どこか哀しげな、そして正直な声音だった。
「私はまだ、諦めきれていないのです」
ジンリェンの表情が、僅かに揺れた。
「たとえ、“恋人”がいらっしゃっても。たとえ、“その方”がとても素敵な人だとしても……今、このまま、背を向けて終わらせることなんて、できません」
その言葉には、駆け引きの影も、策略の匂いもなかった。ただ一人の少女が、心を剥き出しにして放った、まっすぐな告白だった。ジンリェンは沈黙したまま、しばらく視線を落とし、何かを噛みしめるように目を伏せた。部屋の中に漂う静寂が、月光の冷たさと溶け合うように満ちていく。
やがて、彼は口を開いた。
「……お気持ちだけ、受け取ります」
それ以上の言葉はなかった。ただ、護衛としての節度を忘れぬように、彼は距離を保ち背を向ける。
「ですが……この部屋に長くいるわけにはいきません。どうか、おやすみください」
ジンリェンの言葉に、イレーネは動かなかった。
むしろ――彼の言葉を無視するように、一歩踏み出す。
「……私、ジンリェン様のことが好きです」
その声は震えていなかった。迷いもない。まっすぐに伸ばされた白い腕が、再びジンリェンの腕を引き寄せる。そしてそのまま、己の胸元を、彼の腕に押し当てた。艶を帯びたイレーネの瞳が、すぐ間近からジンリェンを見上げる。熱を孕んだ吐息が、そっと肌をなぞるように落ちた。
「私では、だめなのですか……?」
その言葉が零れた瞬間、ジンリェンの表情が――変わった。困り顔の仮面が剥がれ、その奥に潜んでいたものが露わになる。
驚き、ではなかった。
怒り、でもない。
恐怖――だった。
彼は、何かを思い出したように目を見開き、ひときわ深く息を呑む。そして、反射的にイレーネの身体を引きはがした。力強く、無遠慮なまでに。
「あっ……」
腕を振り解かれ、よろけたイレーネが小さく息を呑む。その目には戸惑いと動揺が宿っている。ジンリェンもまた、動きを止めた。自分がしたことに気づき、唇を噛む。
「……申し訳ございません」
声は掠れていた。それだけを残し、彼は逃げるように踵を返す。
ぱたり――と扉が閉まり、静寂が戻る。
イレーネはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。視線は、閉ざされた扉ではなく、その手前の床に落ちている。そこに残るぬくもりに触れることもできず、ただ静かに唇を噛んだ。