第五章 予感
部屋の窓はうっすらと開かれ、夕暮れの風が薄いカーテンを静かに揺らしていた。日の落ちかけた空は、茜から群青へと色を変えつつあり、壁にかけられた絵画の影を、ゆっくりと長くしていく。その静寂の中、部屋の一角に置かれた長椅子には、白狐の姿をした青年――フーリェンが、軽く背を預けて座っていた。普段よりもやや肩を落とし、尾もぴたりと床に沿わせたまま。王宮の一日を“恋人役”として過ごした疲れが、その姿から滲んでいる。
その隣に腰掛けていたのは、シュアンランだった。
彼の部屋――フーリェンと同じく余計な装飾の少ない質実な空間には、恋仲の二人という甘い雰囲気はどこにもなく、どちらかといえば友のような穏やかな空気が流れていた。
「……どうだった?」
沈黙を破って、シュアンランが問いかけた。言葉少ななその声音に、わずかな興味が滲んでいる。フーリェンはしばらく何も言わず、指先で尾の先を軽く巻き取るようにして、ゆるく首を傾げた。
「……一途で、良い人だとは思ったよ」
「ほう?」
「それに、頭の回転も早い。礼儀も心得てるし、感情も見せ方も……丁寧」
ふ、と吐息のように言葉を零す。その声音に、いつもの皮肉や投げやりな響きはなかった。
「じゃあ……お前は惹かれたか?」
軽く揶揄するような調子でシュアンランが言うと、フーリェンは眉ひとつ動かさぬまま、静かにそちらを見やった。
「それはない」
即答だった。だがその後、ほんのわずかに言葉を詰まらせ、視線を外す。
「ただ……なんとなく、うまく言えないけど……気になるところがあるというか、少しだけ、違和感が残ってる」
「違和感?」
「別に悪い意味じゃない…何ていうか……」
言いながら、フーリェンはしばし言葉を探すように黙った。そしてやがて、小さく首を振る。
「……やっぱり、うまく言えない。ただ、あの人、すごく努力してるんだと思う。何かを……ものすごく、手に入れたがってる感じがした」
その言葉に、シュアンランの目がわずかに細められた。
「……なるほどね」
その返答にフーリェンは答えず、ただ静かに尾を揺らした。その揺れの緩やかさと裏腹に、どこか胸の奥で張り詰めた糸が、微かに震えていた。部屋に漂う静寂を破ったのは、椅子がわずかに軋む音だった。
長椅子の肘掛けに片肘を乗せていたシュアンランが、ふと視線を机の上へと移す。そこには、広げられたままの一枚の地図――王都とその外縁部を示した詳細な地図が置かれていた。何気なく、といった風を装いながらも、シュアンの瞳はある一点を捉えていた。そして、言葉を選ぶようにわずかな沈黙ののち、口を開く。
「……第七地区に、もう一度行ってくる」
その一言に、長椅子に凭れていたフーリェンの耳がぴくりと動いた。
「セオドア様の命だ。今回はアドルフと、それからユエも連れていく。……少しの間、戻れそうにない」
「急だね」
そう言ったフーリェンの声には、驚きはあったものの、動揺や不安は感じられなかった。むしろその反応は、“そういうこともある”と飲み込んでいる者のそれだった。
「今は目立った動きもないし、王都も落ち着いている。偵察には、ちょうどいい」
机の上の地図を指先でなぞりながら、シュアンランが静かに続ける。彼の視線の先には、第七地区と、その背後に広がる迷路のような路地が描かれていた。
フーリェンは僅かに首を傾げながらも、彼の言葉の裏を読み取るようにその横顔を見つめる。
「……ジンには?」
「言わない。今は、余計な心配をかけるべきじゃない」
その言葉には、明確な意図と優しさがあった。ジンリェンを知る者なら、それが最善だと分かっているからこその判断。フーリェンはその意図を汲み、すっと表情を引き締める。
「……分かった」
それだけを返すと、止まっていた尾をまた静かに揺らした。言葉はそれ以上なかったが、彼らの間に流れる沈黙は、互いへの信頼と覚悟に裏打ちされたものだった。やがてシュアンランは再び地図に目を戻し、フーリェンは深く息を吐いて、窓の外に視線をやった。
暮れゆく空の色が、夜の気配を孕みはじめていた。
そしてそれは、また新たな動きの幕開けを告げているようにも思えた。
沈黙を破るように立ち上がり、机に向かったシュアンランは、地図の上をなぞっていた指を止める。その気配を感じ取ったように、長椅子に座っていたフーリェンが、ふいに身を起こした。そして、軽く息を吐くように立ち上がると――白狐の姿がほどけるように消え、代わり栗色の髪を肩に落とし、深い赤の瞳を持つヒューマンの女性――“ルージュ”の姿が現れる。変化を終えた彼の横顔を見て、シュアンランが目線を上げる。
「どうした?」
その問いに、フーリェンはしばし言葉を探すように沈黙したあと、呟いた。
「……なんとなく。嫌な予感がしたような、そんな気がしただけ」
彼の声はいつもどおりの静けさを保っていたが、どこか遠くを見るような視線がそれを裏切っていた。唐突な変化と、その淡々とした言葉に、シュアンランは思わず小さく苦笑する。まるで、さっきまでの重苦しい沈黙も、別れの話もなかったかのような彼の振る舞い――だがそれが、彼なりの切り替え方なのだと知っている。
「……お前の“なんとなく”は、けっこう当たるからな」
「何もなければ、……それにこしたことはないけど……」
そう呟くと、ルージュに姿を変えたフーリェンは、すっと向きを変えて扉へと歩を進めた。扉の前で一度だけ足を止める。振り返りはしなかったが、その背にはどこか微かな緊張が漂っていた。そして、そのまま何も言わず、静かに部屋を後にした。
扉が閉まったあと、残されたシュアンランはしばし窓の外を見やり、低く息を吐いた。夕暮れに染まりつつある空の下で、王都は何事もないかのように静かに時を刻んでいた。だがその静けさの奥に、何かが起こるような気配――それは、確かにあった。