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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第5章
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第五章 ルージュ

「あなたから見て……ルージュ様は、どんな方なのかしら?」


何気ない風を装って放たれたその問いに、フーリェンは手にした茶器をそっと卓へ戻した。視線は正面のイレーネに向けたまま。けれど、心のうちでは明確な動揺が渦巻いていた。


(……弟として、兄の恋人である“ルージュ”の印象、か)


困った。ルージュは他でもない、自分自身なのだから。けれど嘘を並べても、彼女の目にはすぐ見抜かれてしまう気がした。だからフーリェンは、考える方向を少しだけ変える。“自分”を語るのではなく、“兄”を想う自分の視点から、言葉を探す――。


「……彼女は、兄にとって……必要な存在なんだと思います」

「……必要?」

「兄は……ああ見えて、他人との距離の取り方がうまくありません。誰にでも誠実で、優しいけれど、心の奥には滅多に踏み込ませない。けれど……彼女は、その壁を越えた。きっと、たくさんの時間をかけて、ゆっくりと」


フーリェンは静かに言葉を継ぐ。


「兄にとって、あの人は“隣にいても疲れない”相手なのだと、思います。……それが、どれだけ貴重なことか、兄の傍にいたらわかるんです」


それは――兄を長年見てきた弟としての本音だった。そして同時に、フーリェン自身が誰よりもそうあれたらと願った在り方でもあった。


イレーネはしばらく黙っていた。その表情には確かな理解が浮かんでいたが、同時に、どこか切なげな迷いが残っていた。


「……素敵な方なのですね。ルージュ様って」

「……ええ」


フーリェンは小さく頷いた。嘘ではなかった。誰よりもルージュという存在を知る自分が、そう在ろうとしているのだから。けれど次にイレーネが漏らした言葉には、フーリェンもわずかに表情を変えざるを得なかった。


「――それでも、やっぱり……諦めきれませんの」


その言葉に思わず眉を寄せてしまった。どう返すべきかを探すより早く、イレーネは続けて、伏せた視線のまま小さく呟いた。


「……既成事実でも、できれば……」


かすかなその声は、確かにフーリェンの耳に届いた。手が僅かに止まり、瞳が彼女の横顔に向く。言葉には出さないまでも、その意味が理解できなかったわけではない。何かを言いかけ、フーリェンは唇をわずかに開いた。だが、その瞬間。


「失礼する」


扉の向こうから、低く落ち着いた声が響いた。


入室してきたのは、アルフォンスと、タニス伯爵だった。その姿を見たイレーネはすぐに背筋を正し、立ち上がる。


「フーリェン、これから訓練場に向かう。ジンに代わってついてこい。…イレーネ嬢、あなたも、共に」

「……承知しました」


フーリェンは軽く頭を下げ、彼らに一礼する。そのまま促されるように、イレーネと共に部屋を後にした。

そして、歩き出すその背中の奥底では――たしかに、微かに灯った棘のような違和感が、静かに疼いていた。


“既成事実でも”――

あの言葉が、しばらくのあいだ、フーリェンの中に残り続けていた。






⋆⋆

陽が西へと傾きはじめた王都の通りには、穏やかな午後の空気が満ちていた。商人の声、馬の蹄の音、子どもたちの笑い声。それらすべてが、まるで絵に描いたように平和で、整然としている。


その街角を歩くひとりの男――ジンリェンは、白衣の軍装に身を包み、長槍を背に静かに石畳を踏みしめていた。


(……束の間の自由、ってやつか)


騎士団の警備当番。それは本来であれば、多少面倒ではあるものの、特段特筆すべき任務ではない。だが今の彼にとって、それはまさに「天の恵み」のようなものだった。たった半日だけとはいえ、令嬢の相手をしなくて済む貴重な時間。もちろん、任務中に気を抜くつもりは毛頭なかった。この静けさの裏に何かが潜んでいないか、王都の空気そのものを肌で読むように、意識の糸を張っていた。それにしても、と、都の様子をぐるりと見渡しながら、ジンリェンは内心、微かに眉を寄せた。わずか数カ月ほど前まで、敵国オルカの密偵が入り込み、混乱を巻き起こしかけていた街とは思えない。今の王都は、まるで何事もなかったかのように平穏だった。あまりにも平和すぎて、かえって落ち着かない。空っぽの部屋にぽつんと置かれた椅子のような、不自然な静けさ。


(……何もないことに、不安を覚えるとはな)


疑い深くなっているのか、それとも直感なのか。だがこういう勘は、戦場でもっとも命を繋いできた感覚のひとつだ。ジンリェンは気を取り直すように、わざと一歩強く地を踏んだ。長く尾を引いていた思考を断ち切り、目の前の現実に集中する。


「――っと、そろそろ戻る時間か」


空を見上げれば、夕焼けが西の雲を朱に染めていた。このあとの予定は、また令嬢との面会。茶会に続き、夕食の席への同席。


(……明日で終わりだ。耐えきれない時間じゃない)


自分にそう言い聞かせるように、ジンリェンはゆっくりと踵を返した。


しかしその足取りの奥には、うっすらと疲労の色が滲んでいた。それは肉体的なものというよりも、精神に張り続けている糸が少しずつ軋んでいる、そんな感覚だった。


(……どうか、何も起こらずに終わってくれ)


そんな風に願ったのは、いつぶりのことだったか。

その願いが叶うかどうかも知らぬまま、ジンリェンは再び王宮の方角へと歩き出した。

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