第五章 二日目
翌朝、王宮の回廊には清々しい朝光が差し込み、透き通るような空気が静かに流れていた。ジンリェンは、控えめに並んで歩くイレーネを伴い石造りの回廊をゆっくりと歩いていた。今日も彼の務めは客人である令嬢の王宮案内――昨日の茶会から引き続き、接待役としての一日が始まっている。
「……こちらは王族専用の回廊です。歴代の王たちの肖像が掛けられていて、公式の参内時にのみ通される特別な空間です」
ジンリェンは慣れた口調で説明を続けながら、イレーネの反応をそっと窺っていた。彼女は相変わらず礼儀正しく、興味深げに頷く姿勢を崩さなかったが、視線の奥には言葉にしない探るような色がある。
「さすが王宮。隅々にまで品格が漂っていますわ……でもそれだけでなく、あなた様のお話も、とても丁寧で分かりやすいです」
「……恐縮です」
微笑を浮かべて応じるジンリェンだったが、その内心は穏やかとは言いがたかった。
昨日、“ルージュ”を見せたのに、諦めた様子は一切ない。むしろ、令嬢の態度にはどこか確信めいた落ち着きすら漂っていた。“この男には、まだ隠している何かがある”とでも言いたげな目だった。
その頃、王宮の別棟――執務室では、フーリェンがいつもの白狐の姿のまま、黙々と書簡の整理に従事していた。彼の細く白い指先が手際よく紙を捲り、要件ごとに分類されていく。
「この分は、港湾税に関する再調整案。こっちは西部の農地復興に関する予算申請です」
「ありがとう、フー。君の助けがあると本当に助かるよ」
ルカがそう言って微笑むと、フーリェンは小さく頷くだけで返した。その横顔には感情の色はない。だが、耳の動きや、わずかな仕草には、昨日の出来事が尾を引いている気配があった。
一回限りの茶会で終わると思っていたのに、そう心の中で呟きながらも、それでも彼は割り切っていた。能力を使った時点で、これは任務と同じ。表情は仮面、言葉も任務の一部。そう自分に言い聞かせ、思考を封じ込めるように、また書簡に視線を戻した。
一方、王宮のやや北側では、セオドアとシュアンランが地図を広げていた。部屋の窓はわずかに開け放たれ、朝の風が机上の紙をかすかに揺らしている。
「……例の第七地区の調査だが、どうやらある建物の警備が夜間に限って強化されているらしい」
「内部で何か動きがある、ということでしょうか」
「恐らく。中の様子はまだ掴めていないが、報告によれば、夜には『施設内に灯りが点るが、出入りする者の姿はない』という。建物は“孤児院”という名目だが、どうにも不自然でな」
「……偽装施設の可能性がありますね」
シュアンランの声には、明確な警戒が滲んでいた。彼の手元には、過去の夜間監視記録が丁寧にまとめられており、すでに複数の不審点が赤字で示されている。
「本来なら、フーリェンのような潜入型の偵察が適任なのですが……今は“別件”で多忙ですし…」
「ふ。……そうらしいな」
セオドアは口元を緩めながら、書類を閉じた。
「王宮内で“恋人役”を演じるとは、あの兄弟には驚かされるばかりだな」
広げられた地図を前に、セオドアがふと笑みを浮かべて言った。その視線は地図ではなく、目の前に座るシュアンランに向いている。
「……それにしても、恋人役とはな。お前は嫉妬しないのか?」
少し意地悪そうな問いかけに、シュアンランは紙に視線を落としたまま小さく息を吐いた。
「別に。…兄弟ですし」
その声に怒りや不快の色はなかった。ただ、さらりとした返答。その目にはわずかな陰りもない。
「……ふん。そう言うあたり、お前もなかなか面白いな」
セオドアはそう言って肩を竦め、再び地図に視線を戻した。
夜――庭園裏の小さな東屋では、二日目の任を終えたジンリェンが石造りのベンチに腰を下ろしていた。そこへ、廊下の向こうからフーリェンが姿を現す。そのまま並んで座ったふたりは、しばし言葉を交わさず、静かな夜の風を受けていた。やがて、ジンリェンがぽつりと口を開く。
「……なかなか、諦めてくれそうにない」
「そうだね。気は強そうだけど、案外、いい人にも思えてきた」
フーリェンの声は淡々としていたが、少しだけ温度を帯びていた。言葉に毒はない。あくまで観察の結果としての印象だった。ジンリェンはその言葉に、少し眉を動かしながら息を吐く。
「……困ったな。…どうやって終わらせればいいんだろうな」
「演技で始めたなら、演技で終わらせればいい。……ただし、上手に、ね」
「おい……怖いこと言うなよ」
ジンリェンが冗談めかして笑うと、フーリェンもまた、ほんのわずかに口角を動かした。