第五章 西の動き
場面は移り、王宮内の応接室――。
上質な椅子と織物に囲まれた室内には、紅茶の香りとともに穏やかな沈黙が流れていた。アルフォンスは優雅に茶を口にしつつ、目の前の客人を静かに見つめていた。
「――西の動きはどうだ?」
尋ねた声は低く、だが探るような鋭さを孕んでいた。対する客人――タニス伯爵は、ひとつ頷いてから口を開く。
「陛下の御代となって以降、交易路の安定は保たれておりますが……やはり気になるのは、小国リヴェラ王国の情勢ですな」
「薬、だったか」
「左様です。まだ確証はございませんが――“とある薬の開発”に、リヴェラが国家規模で注力していると、我が家の商人筋より報がありました」
「詳しい成分や用途は?」
「不明。ただ、その完成によって“国内の社会構造が一変する”可能性があるとのことでした。医療か、あるいは……」
「軍事運用、か」
伯爵はは少し眉を寄せ、だが肯定も否定もしなかった。
「どちらにせよ、フェルディナの脅威となりえるのであれば、見過ごせぬ動きです」
アルフォンスは唇に指を当てたまま、ふと静かに目を細めた。
「ならば、“薬”が流出する前に、内情を探る必要があるな。西方との繋がりを強める名目も、今後は重要になる」
フェルディナンドは頷き、湯気の立つ茶器をひと口すする。
「故に……今回の縁談を打診させていただいたのです」
その言葉に、アルフォンスの視線がわずかに鋭さを増す。
「――君は、娘の想いだけでこの話を通そうとしたわけではない、ということか」
「無論。娘の気持ちは偽らざるもの。だが……我が家にとって、王家との縁は、タリスの将来に直結します」
言いながら、フェルディナンドは微笑を崩さず、静かに続けた。
「西の地は、今後十年で大きく形を変えます。もし我が家がその変化を読み誤れば、交易権も、影響力も失うことになる。ゆえに――未来を見据えて、王宮に近い人材と縁を結ぶことができれば、と」
「それが、ジンリェンか」
「ええ。軍の実力者として名高く、殿下との距離も近い。王宮の最前線に立つ彼こそが、我が娘に相応しいと考えました」
伯爵はそこで一瞬だけ目を伏せ、そして静かに言った。
「恋人の存在は聞き及んでいませんでしたが、……。ですが、“恋人”であって“妻”ではない。いずれ国を背負うお方なら、相応の相手が必要になる時も来ましょう」
「……随分と強気だな」
「交渉とは、そういうものでございます」
にこやかに言うその顔に、老練な政治家としての冷静さと、父としての執念が混ざっていた。アルフォンスは再び茶を口に含み、ゆっくりと盃を置く。
「……私は、この縁談は彼自身に委ねるつもりだ」
「もちろんです。だからこそ、“恋人”という存在が真実であるか、どこまで本気なのか――我が娘は、自らの目で確かめなければなりません」
その言葉に、アルフォンスはひとつ目を伏せ、何かを考えるように静かに息を吐いた。
(……果たして、この芝居がどこまで持つか)
戦のようであり、政のようでもあり、そして――どこか恋の駆け引きのようでもあるやり取りだった。
夕暮れの光が、王宮の回廊を金色に染めていた。
茶会を終え、イレーネを控えの客室へ案内し終えたジンリェンは、ようやく深いため息をついた。儀礼的な言葉のやりとりと、礼儀正しいながらも隙を探るような視線――精神を削る数刻だった。
「……演武より疲れるとはな」
ぽつりと漏らし、手袋を外しながら歩く彼の前方に、白い影が現れた。視界にうつった弟は既に能力を解いており、いつもの狐耳と白の髪を揺らしながら、静かに歩み寄ってくる。
「お疲れ様。……表情、死んでる」
「そっちもな。お前が演技得意なの、初めて知った。…よく考えれば、任務で能力使ってるんだから、当たり前だけどな」
「…まぁ、確かに、そうかもしれない」
小さく眉を寄せながらも、弟の声にはどこか疲労をにじませた余韻がある。芝居と割り切ったはずの“恋人役”も、思っていた以上に気を張るものだったらしい。
ジンリェンは並んで歩きながら、小声で言った。
「……やっぱり、一筋縄ではいかなそうだな。あの令嬢、見た目と態度の奥に、結構な底力を隠してる」
「うん。何というか……あの眼は、ただのお嬢様じゃない」
互いに無言で頷き合ったところへ――冷えた風が一陣、空から降りる気配を連れてきた。
「……久しいな」
その声は、上からだった。
ふたりが同時に見上げた先。王宮の回廊上段に、長身の女性が立っていた。肩まで伸びた黒の髪と、切れ長の目。艶のある黒の翼を背に、彼女は夜風に乗るように軽やかに降り立つ。
鋭い鷲の瞳。鍛え抜かれた筋肉と静かな威圧感――。
そこに立っていたのは、女王ヘラの直属護衛にして密偵部隊《梟隊》の隊長、ワンジーだった。
「……ワンジー隊長」
フーリェンが一歩前に出て、深く礼を取った。
「お久しぶりです。……北の砦ではお世話になりました。」
鷲獣人特有の鋭い目が、フーリェンを一瞬見極めるように細められる。
「調査の報告ついでにと思って寄ってみた、が、まさか芝居の片棒を担いでいるとは思わなかった」
「なぜそれを……」
「“風聞”は、空の上からよく見える。私は今でも、王宮の屋根と塔を行き来してるからな」
「……任務は変わらず、ですか」
「変わらない。王宮の内側で動く影の数は、外よりも多い」
それからワンジーは、フーリェンの横に立つジンリェンに視線を向けた。
「お前が、第一王子直属の護衛……ジンリェンだったか」
「……はい。お目にかかるのは初めてですが、噂は耳にしています。女王陛下の鷲――と」
「ふふ、面白い表現だ」
鋭い印象のワンジーが、わずかに口角を上げた。感情を見せることの少ない彼女にしては、珍しい反応だった。
「今日はたまたま、久しぶりの顔もあったし、挨拶に寄らせてもらっただけだ」
「――ご丁寧に、ありがとうございます」
「……出会いというのは、思いがけないところからやって来るものだよ」
風に揺れる黒髪を軽く整えながら、ワンジーが脈絡もなくふいにそう言った。ジンリェンが驚いたように視線を向けると、彼女はわずかに口元を緩める。
「私も、旦那と出会ったのはウェディング祭だった」
「……え?」
声を上げたのはフーリェンだった。普段はほとんど表情を崩さぬ彼が、思わず目を丸くする。そんな彼の反応に、ワンジーは淡く笑みを浮かべた。
「祭の真っ最中、酒場の隅で文官の一人に声をかけられた。最初は酔いかと思ったが――三日も経たずに、再び正式に求婚の文が届いた」
「……そう…なんですね。すみません、想像が、つかなかったので」
「ふふ、そうだろう。砦じゃ私も鷹の目で任務に集中している」
腕を組んで、遠い目をするワンジー。夕日を受けて、その漆黒の髪が燃えるように輝いている。
「だからこそ言える。人の縁なんて、どこに転がっているか分からない」
フーリェンは言葉を失ったまま、ただその背を見つめていた。まるで、鉄で編まれた鎧のような人物だと思っていた。感情よりも任務を優先する、女王の護衛――。だが今、目の前にいるワンジーは、どこか柔らかな風を纏っていた。
「私はただの通りすがりだ。気にするな」
そう言い残して、ワンジーはひと跳びで屋根へと上がり、風とともに身を翻した。鋭い羽音も残さず、ただ空気だけが静かに舞う。
「……あれが、堅牢と言われる北の砦の女隊長…か」
「……そうなんだけど……僕もちょっと混乱してる」
ふたりの間に、珍しく戸惑いと感嘆が混ざった沈黙が流れた。その背後では、空がゆっくりと薄闇に沈み始めていた。