第五章 偽りの恋人
やがて、庭園の入り口に足音が響く。
「お待たせしました」
静かに声を発したのは、涼やかな風を纏った女性――ヒューマンの娘の姿をしたフーリェンだった。栗色の長髪を編み込み、赤く澄んだ瞳が夕陽を映している。
控えめな生成り色の衣装に身を包み、動きは柔らかく、お淑やかな気配を纏っていた。フーリェンは無言で一礼し、兄の隣に優雅に腰を下ろす。
「……彼女が、あなたの……?」
イレーネが控えめに尋ねる。
「はい。紹介が遅れました。こちらが、私の恋人です」
ジンリェンの言葉に、フーリェンは軽く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、イレーネ様。……ルージュと申します。お会いできて光栄です」
穏やかで、どこか透明な声色だった。それを聞いたイレーネは、まばたきひとつぶん沈黙したのち、小さく息を吐いた。
「……まあ。本当に、理想的な方ですのね」
その声にはわずかな揺らぎがありながらも、決して非礼を含むものではなかった。イレーネは正面から現実を受け止めようとしていた。ジンリェンは密かに眉を動かす。だが、次の質問が来るよりも先に、フーリェンが自然な口調で話し始めた。
「お見苦しい姿でなければ良いのですが。……私たちの関係は、公にはしておりませんでしたので」
「ご安心くださいませ、私も無遠慮に詮索するつもりはありませんわ」
イレーネは優雅に微笑むが、その目元に残る僅かな翳りは消えていなかった。
「ふたりは、長い付き合いなのですね?」
「…そうですね。私が直属護衛にあがる頃でしょうか」
ジンリェンがフーリェンの言葉に合わせるように、流れるように応じる。イレーネの手元の茶器が、ほんのわずか音を立てた。それは、ささやかだが否応なく伝わる“感情の揺れ”だった。あの炎のように鮮烈な剣舞に心を動かされた自分とは違い、すでに“特別な位置”にいた存在。その現実は、彼女の内に微かな苦味を残した。しかし、彼女は一呼吸の間にそれを呑み込み、再び柔らかな笑みを浮かべる。
「……とてもお似合いですわ」
言葉は真っ直ぐだった。だが、芝居を演じるジンリェンにとっては――
その笑顔の奥に灯る、わずかな闘志のようなものを、確かに感じ取った気がした。隣で静かに茶を啜るフーリェンの姿を見やりながら、ジンはそっと息を整える。
「……もし、よろしければこのままもう少しだけ、お話しても?」
そう穏やかに問いかけたイレーネに、フーリェン――もとい、“ルージュ”は静かに視線を向け、ゆるやかに頷いた。
「……はい。ぜひ、喜んで」
その声音は柔らかく、よく通る。落ち着いた仕草といい、言葉の選び方といい――仮初とはいえ、貴族の茶会に不足のない礼節を纏っていた。
「ありがとうございます。……ルージュ様は、どちらの出身でいらっしゃるの?」
フーリェンは一瞬だけ、兄に目をやった。彼がうなずくのを確認し、静かに口を開いた。
「少し前までは、東の国境付近に身を置いておりました。…今は、王宮で侍女を務めております」
イレーネが微笑を深めるのに応じるように、ルージュも小さく笑んだ――ほんの一瞬、だがそれは確かに“人の温度”を帯びたものだった。
「お二人の出会いのきっかけはおありで?」
「……はい。何年も前の話になりますが…最初は、ただ同じ王宮に勤める者同士、それだけの関係でした」
言葉を紡ぎながら、フー――いやルージュは、茶器を指先でなぞる。
「……いつの間にか、目が離せなくなっていたんです。無口な彼なのに、言葉より先に、心の温度が伝わってきて」
その声音には、演技とは思えないほどの“真実味”があった。それは、かつて本当に彼が誰かを見つめ、寄り添ってきた記憶に根ざすものだった。ジンリェンはそれを横で聞きながら、わずかに視線を伏せる。
「……だからこそ、関係を公にはしていません。けれど、誤魔化すつもりもございません。ただ、必要な時に――こうして、ご紹介をしていただくだけです」
イレーネは、返す言葉をすぐに見つけられなかった。目の前のルージュは、出会いはただ所属が同じだっただけで、徐々にジンリェンの内面に惹かれていったと言っているが、まるでずっと傍に居続けた存在かのように、ジンリェンの隣にいることが当たり前のようにも思えてくる。いや、そう思わせるような何かがあった。
「……それはとても、素敵なことですわ」
「……はい。そうですね」
ルージュは穏やかに微笑むと、茶を一口、口に含んだ。その動作は一分の隙もなく洗練されていて――けれど、どこか、人を遠ざけるような静けさを纏っていた。イレーネの胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。まるで目の前の人物が、自分より先に、もっと深く相手の心に触れてしまっている――そんな錯覚。
ルージュは柔らかく目を細めた。赤い瞳に夕陽が宿り、まるで宝石のようにきらめく。
ジンリェンはふと、隣の彼――いや彼女を見やる。その表情は相変わらずの静謐だったが、内にある何かが確かに伝わってくる。それは芝居でありながら、芝居を超えていた。この瞬間だけは、確かにフーリェンは、自身の“恋人”として並び立っていた。ジンリェンは知られざる弟の“特技“に若干の居心地の悪さを感じつつも、目の前のイレーネに再び視線を向け、薄く眉を寄せる。
(……簡単には引かない、か)
風が、白花の上を通り抜けていった。
⋆⋆
ルージュ――フーリェンは、微笑を崩さず、ゆるやかに茶器を置いた。白磁のカップが受け皿に触れる音が、ひときわ静かな庭園に微かに響く。
初対面の相手に向ける言葉、礼節、柔らかさ。それは王宮で育った貴族の若者なら自然と身につける所作かもしれないが、フーリェンにとっては「役」でしかなかった。目の色を変え、姿を偽り、名を借りて。“ルージュ”はただの仮面。だが――
今回は、誰でもない、兄のためにその姿をとっている。まっすぐに向けられる令嬢の視線が、軽やかでありながら油断がないのを、彼は鋭く感じ取っていた。
おそらくこの令嬢、イレーネはただの「貴族の箱入り娘」ではない。少なくとも、空気を読む力も、観察眼もある。
(……やりづらいな)
能力で偽ったとはいえ、こうして人前に立ったからには、もう“弟”ではいられない。“任務”として割り切ることにした。
(偽名と変化を使って情報を引き出し、相手の態度を測る。任務と同じだ)
そう繰り返すように心の中で呟く。けれど、ひとつだけ違うのは――
(……ジンの隣に立って他の誰かを牽制する、なんて)
どこか胸の奥がざらりとする。感情に名をつけるのが難しくて、フーリェンはあえて深く考えるのをやめた。あくまで“役”として、ジンリェンの隣に立ち、茶会の仮面を被る。だが、イレーネの柔らかく、深く探るような言葉の数々に――
(……この人、引かないな)
そう、感じ取った。決して攻撃的ではない。けれど、鋭く、隙のない受け答え。ここで“偽物”の姿を見せれば、一気にほころびを突かれる予感がした。
(思っていたよりも……一筋縄ではいかなそうだ)
紅茶の香りと花の匂いが混ざる中、フーリェンは瞳を伏せて、自らの演技にもう一段、静かな緊張を重ねた。
(……だったら、最後までやりきるしかない)
ただ兄の盾となるために――
フーリェンという“狐”は、名を変え、姿を変え、今日も完璧に“偽る”。
だがその奥に、ふとした瞬間だけ揺れる感情を、誰も知らなかった。