第五章 理想の恋人
午後の光が差し込む、王宮西棟の一角――
文官たちの往来も一段落した静かな書庫前の廊下を、一人の白狐が無言で歩いていた。フーリェンは、両腕に古文書の綴りを抱えたまま、慣れた足取りで扉を押し開ける。微かな紙の匂いと乾いたインクの香りが、控えめに鼻腔をくすぐった。中では既に、ランシーが、脚立の上から棚に本を収めているところだった。
「お、来たか。ありがとな。上段、手伝ってくれると助かる」
「……気にするな。…やることもない」
淡々と答えながら、フーリェンも本を手にして隣の棚に立つ。白く揃えた尾が軽く揺れ、淡い陽がそれに反射してきらめいた。
「例の令嬢の馬車、無事に着いたんだろ?」
「…着いた。御者の誘導は終わったし、ジンも、なんとかやってる」
「あの娘の父親って、けっこう貫禄あるよな? 前に軍の会議で見かけたとき、文官全員ビビってたぞ」
「……威圧感はあった。でも、いい人……のように見えた」
「そうか。まあ、あの手の貴族にしてはマシな方か」
ぽつりぽつりと交わされる会話。音を立てて頭上の棚の隙間が埋まり、埃が舞い上がる。それをランシーがしっぽでぱたぱた払いながら、ふいに口角を上げた。
「それで? ジンの様子は?」
フーリェンの動きが、ほんの僅かに止まった。
「……知らない。今頃、庭園でお茶でも飲んでるんじゃない」
「そっけないな。心配してんのかと思った」
「してない。……むしろ、何事もなく終わればいいと思ってる」
「ああ、つまり“お呼び出し”されずに済むなら最高ってやつか?」
ランシーがククッと喉の奥で笑う。フーリェンは何も返さず、本を一冊抜いては棚に差し込んだ。
「正直、うまくいくとは思えない」
「まぁ、どちらかがボロを出せば終わりだな。特にジン」
「…………」
フーリェンは答えなかったが、その狐耳がほんの少しだけ横に伏せられた。
「でもまあ、ちゃんと準備はしてるんだろ? さっき控室に鏡置いてあったし」
「……使ってない」
「使ってないけど、置いたんだな?」
からかうような言葉に、フーリェンは黙って本の綴りを閉じた。その仕草に、ランシーはさらに笑みを深める。
「ま、心配すんなって。呼ばれずに終わればそれに越したことはないし、呼ばれたら……たぶん、それなりに楽しいぞ?」
「楽しい、って……なにが?」
「だってさ。第一王子直属の護衛が、弟を恋人役に仕立てて縁談を回避する――そんな茶番、王宮でも百年に一度レベルの珍事だろ」
「……百年に一度もあってたまるか」
やや噛みつくように答えたフーリェンの脳裏に、数日前のやり取りがふと蘇っていた。
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場面は、王宮西棟にある私室。
装飾の少ない質素な部屋だが、一角には磨かれた姿見が置かれ、その前には四人の影が集っていた。
「……で、理想の恋人像って何だよ?」
口火を切ったのはランシーだった。いつも通り気だるげな調子ながら、目はしっかりと姿見の前に立つフーリェンを捉えている。
「そう言われても……」
フーリェンは肩を落としつつも、静かに息を吸い――すうっと姿を変化させた。変化したのは、王宮に出入りするヒューマンの商家の娘を参考にした女性の姿。栗色の髪に控えめな頬、どこか儚げな雰囲気をまとった印象の、可憐な女性がそこに立っていた。
「……おお。これはこれで……」
「いや待て」
すぐさま声を上げたのは、隣にいたジンリェンだった。ぎょっとしたように額に手をやる。
「顔が、似すぎている…」
鏡の中、確かにそこにいたのは――見慣れた双子の兄の、いや弟の、女性バージョンだった。穏やかに微笑んでも、姿勢を正しても、その目元も口元も、酷似している。
「……確かに」
「うっわあ……これは逆に危険な気がしてきたな……」
「つまり、双子ってそういうことだろ」
シュアンランがぼそりと呟き、フーリェンは無言で変化を解く。
「顔が同じなら、どんなに姿を変えても意味がない。見ればすぐ、僕って分かる」
「なら顔も変えればいいだろ」と、ランシーが当然のように口にした。そんなランシーの言葉に、フーリェンは首を横に振った。
「顔だけを変えるのは難しい」
その声音は珍しく、少しだけ真剣だった。
「僕の能力は、視認した身体的特徴を模倣するだけ。髪質、体格、歩き方……そこまではなんとかなる。でも――顔は、見てるようで見てないんだ」
「……へぇ。あ、だから偵察の時とかはそのままだったのか」
「…そういうこと」
フーリェンは、鏡に映る自分に目をやる。
「顔を変えるには、対象の“在り方”をよく知っていなきゃならない。たとえば、……ユキならできる」
「確かに、隊服を忘れたどこかの誰かさんはユキになりすまして侵入したんだもんな」
ジンリェンがからかうように口を挟み、今その話題を出すなとフーリェンが軽く睨みつける。
「ユキといる時間は長かった。寝起きの顔も、笑顔も、泣き顔も、全部見てきた。だから、変われる」
淡々とした説明に、部屋がしんと静まり返る。
「じゃあ、“理想の恋人”なんて、無理じゃねえか……?」
「……そうなんだよ。実際、今現状、頑張ってもここまでが限界」
そう言って、フーリェンは小さく息を吐き、もう一度変化を試みる。今度は先ほどより少し輪郭が柔らかく、目元も印象が変わっていた――だが、それでもまだ、ジンリェンと血を分けた双子の面影はどこかに滲んでいる。
「……やっぱ無理。顔を変えるのは難しい」
その一言に、静かに室内の空気が落ち着く。少しの沈黙のあと、シュアンランがぽんと手を打った。
「じゃあ、せめて瞳の色だけでも変えられないか?」
「瞳の……色?」
「ほら、フーの目ってジンと全く同じ琥珀色だろ?目って案外、一番最初に見るパーツだし、そこをクリアできれば多少はましになると思ったんだが…」
それを聞いたジンリェンも確かにと、腕を組んで頷く。
「俺たちの一番似てる部分って、目だしな」
フーリェンはしばらく黙って考え込み、視線を手のひらに落とした。変化の力は、自分の身体構造を記憶から複製するもの。しかし瞳の色にだけ集中して変えるということは、今までやったことがなかった。
「……試してみる」
そう言って、静かに目を閉じる。呼吸を整え、力を意識的に――目に集める。まぶたの裏側で、色が滲むような感覚。細胞の構造が書き換わっていくような、不思議な浮遊感。そして、ぱちりと目を開いた。
「おっ……!?」
「……変わった、か?」
鏡の中、フーリェンの瞳はいつもの琥珀ではなく――燃えるような、深い赤色に染まっていた。
「すごいな……本当に色だけ変えた」
ジンリェンが思わず息を呑み、ランシーも興味深そうに目を細める。その赤は炎のような色合いで、夜の灯にも似た、静かな熱を孕んでいた。
「でも、なんで“赤”なんだ?」
横からふと呟いたのは、隣で見ていたシュアンランだった。首をかしげる彼の方へ、フーリェンはふいに視線を向ける。
――無言。
その紅い瞳が、じっと彼を射抜くように見つめた。
「……え、なんだ?」
気付かぬシュアンはきょとんとしたまま。
「……あー……」
「…………ああ」
先に口を開いたのはランシーだった。続いてジンリェンも、少しばかり目を見開き、すぐに察して顔を伏せるように小さく笑った。
「……見てる相手、ってことか」
「“知ってる顔じゃなきゃ変われない”って言ってただろ。つまり、それだけよく見てるってことだよ」
二人の言葉に、ようやくシュアンランも自分が言われていることに気付く。
「…………俺の目か?」
その場にいた誰もがすでに知っていたような沈黙の中、ひときわ大きな音を立ててシュアンランが立ち上がる。
「俺の目の色ってそんなに……いや、ていうか……」
焦った様子でまくし立てる狼男の隣で、フーリェンはただ黙って紅の瞳を鏡に向け直していた。赤い瞳の自分は、どこか別人のようでいて、ひどく落ち着かない――けれど、それは不思議と、嫌な感覚ではなかった。
「……そこまで動揺されると、落ち着かないんだけど」
「えっ、俺、なんかしたか」
「してないけど……何も気づいてないのは、どうかと思う」
フーリェンがぽつりと呟き、シュアンはさらに混乱したようにランシーに助けを求める視線を向けた。ランシーは、そんな彼の肩をぽんと叩いて笑う。
「ま、良かったじゃねえか。フーの“理想”に近かったってことだよ。お前」
「は?」
フーリェンはもう、そのやり取りには加わらず、ゆっくりと瞳の色を琥珀に戻していた。ほんの数秒間の、燃えるような紅――それは、変化という仮面にほんの少しだけ滲んだ、彼自身の“真実”だったのかもしれない。
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そして、その記憶が途切れたちょうどそのとき――
「失礼します。フーリェン、ジンリェン隊長がお呼びですよ」
ランシーとフーリェンが同時に顔を上げる。二人の目も前には、ライヤンが、僅かに面白そうなものでも見る顔で立っていた。
「『例の件』だそうです」
フーリェンの手が、ぴたりと止まる。ランシーはその様子を見て、肩をすくめた。
「ほらな。やっぱり、楽しい方向に転がってきたぞ」
「……冗談じゃない」
ため息混じりの呟きと共に、フーリェンはゆっくりと綴りを棚に戻す。そして、何よりも慣れた手つきで――自身の姿を、静かに“変化”させていった。
芝居の舞台へ、仮面を携えて。
それは、嘘と真実の狭間に咲く、一瞬の幻だった。