兄の切り札2
陽が傾きかけた訓練場の片隅。日中の熱を失った空気は涼しく澄み、地面に長く伸びる影が静けさを際立たせていた。夕焼けに染まる雲の切れ間を、白い鳥が群れを成して飛び去っていく。その光景を、フーリェンはただぼんやりと仰ぎ見ていた。
「……見合い相手の恋人役、か」
抑揚を抑えた声が、背後から聞こえた。木陰にある小さな岩に腰掛けていたのはルカだった。柔らかな陽光を受け、金の髪がかすかに光を帯びている。
「はい。ジンの作戦……というより、三人がかりの総意に押し切られました」
肩の力が抜けたような声音と、わずかに垂れた耳。普段は冷静な彼にしては珍しく、あからさまに「面倒です」と言いたげな表情だった。
「そっか」
ルカは小さく吹き出した。ふわりと柔らかい春風のような笑い声だった。
「ごめんね。…今回は私たちではどうしようもできなくてね…」
「……謝らないでください。ルカ様のせいではありません」
俯きかけた瞳を少し上げ、フーリェンは静かに言葉を続ける。
「それより…、よいのでしょうか。こんな私情に能力を使って…」
彼の問いには、微かな戸惑いがあった。力を振るうことは義務であり矜持である。だからこそ、個人的な事情で王宮内で能力を使って姿を晒すことに些か迷いが生じる。
「君が“いい”って言ったなら、問題ないよ。何より、私は――君たち兄弟が助け合ってる姿、結構好きだからね」
そう言って微笑むルカの言葉に、フーリェンはわずかに目を細めた。その視線には、ほんのひとかけらの安堵がにじむ。
「一日で終わることを祈っていてください」
「もちろん」
二人の間を、夏の乾いた風がひと筋抜けていく。夕焼けの色が訓練場の端々まで染め上げ、二人の影がさらに長く伸びていった。
――――
場面は王宮の一室。第一王子アルフォンスの執務室には、夕陽が差し込んでいた。窓辺の帳が赤く照らされ、机に積まれた文書の山が金色の縁を帯びている。
「……というわけで、“恋人”の役は、弟に頼むことにしました」
「…………」
アルフォンスは数秒、完全に動きを止めた。目を瞬かせ、それから驚愕と呆れが綯い交ぜになった表情で口を開く。
「……お前、本気か?」
「本気です。俺も最初は冗談のつもりだったんですが、他に手がなくて」
ジンリェンの声音は淡々としているが、その奥にはわずかに自嘲めいた響きがあった。
「よく、……あのフーリェンが、許したな」
「切り札を使いました。展示演武の件です」
「……なるほど」
顎に手を添えたアルフォンスは、なぜか感心したように笑った。
「恋人の“ふり”を弟にさせる兄なんて、そうそういないな」
「笑いごとじゃありませんよ…」
「いや、お前の顔を見ていると、あながち茶番とも言い切れない気がしてきたよ」
「……だから嫌だったんです」
からかうような調子に、ジンリェンは深くため息を吐いた。椅子の背にもたれ、こめかみに指を当てる。
「……何事もなく、終わってくれればいいんですがね」
アルフォンスはその言葉に、ふと目を細めた。
「お前が“何事もなく”を祈るなら、それだけで十分、予兆だと思っておこう」
どこか楽しそうな主人の口ぶりに、ジンリェンはまたひとつ、重たいため息を吐いたのだった。
執務室の窓の外、沈みゆく太陽が王都の屋根を赤く染めていた。近づく夜の気配と共に、兄弟を巻き込む一幕の幕開けが、静かに近づいていたのだった。