兄の切り札
数日後。夏の風が王宮の中庭を吹き抜け、生い茂る緑葉を揺らしていた。訓練場ではいつも通り。若い兵たちの声が飛び交い、木刀と剣がぶつかり合う音が響いている。だがその賑わいの裏で、ひとつの噂が静かに、けれど確実に広がっていた。
「ねえ聞いた? 第一王子の直属護衛が西のご令嬢とお顔合わせをするって……」
「ジンリェン様?…その噂、本当なのね」
小さな侍女たちの囁きは、水面に落ちた一滴のように波紋を広げていく。噂の渦中にいる本人はというと、いつも通り訓練場の端で報告書に目を通していた。だが、その硬い横顔の陰に、疲労と苛立ちの色が差しているのは、誰の目にも明らかだった。
「やっぱり機嫌悪いな」
彼女たちの噂話が風に乗って流れてきたのは、ランシーとフーリェンが昼休憩の合間に集まっていた時だった。フーリェンは黙って木の根に腰掛けて水筒を傾け、ランシーは持っていた干し肉をもぐもぐと噛んでいる。
「なんで機嫌が悪いのか、知ってるか?」
と、口火を切ったのはランシーだった。
「………聞いた。縁談のことだろ」
「やっぱり耳に入ってたか。王宮の噂の伝達力ってすごいよな。まだ本決まりじゃないにしても、相手の令嬢が王宮に来るって噂も出回ってる」
「……」
「第一王子直属の護衛ともなれば、そういう話が出るのも仕方ないのかもな…」
「……仕方ない、で済ませる人なら、ジンはとっくに誰かとくっついてるよ」
「まあ、それもそうか」
フーリェンの返しに、ランシーが苦笑する。
そのとき、廊下の方から足音が近づいてきた。目線を向けると、夏の日差しに負けない冷ややかな空気をまとった狼男が、分厚い書簡を抱えられて二人のいる木陰へと入ってきた。
「……ジンは?」
「そこで書類と格闘してる」
「ならいい。あいつ、ああいう時ほど呼ばれても絶対来ないからな」
「……縁談の件?」
「それもある。どうやら、見合いを断ったにもかかわらず、向こうが勝手に“訪問”を強行してくるって話だ。対応は避けられないらしい」
その言葉に、フーリェンの耳がぴくりと動く。
「本当に……来るんだ」
「……ああ。お前も、心づもりしておいた方がいいぞ」
「なんで僕?」
「どうせ何かあったらお前が止める羽目になる。……主に兄貴の暴走をな」
からかうようにフーリェンへと言葉を投げかけた後、シュアンランが片手をひらひらと振って去ろうとしたそのとき――
「……他人の話をしてる気がしないのは、なぜだろうな」
訓練場の端から低く、ややくぐもった声が飛んできた。
三人がそちらを振り向くと、書類の束を抱えたジンリェンが、げんなりとした顔でこちらへと歩いてくるところだった。皮の綴り紐で留められた報告書が右手にぶら下がり、顔には明らかな倦怠と憂鬱が浮かんでいる。
「なんだ、聞いてたのか」
「聞きたくなくても、聞こえた」
そう呟いたジンリェンはどかりと弟の隣に腰を下ろす。その手から水筒を借りて一口飲むと、深く息を吐いた。
「本当に来るんだな、お相手さん」
「ああ。文書も届いてる。あとは“お顔合わせ”とやらを待つばかり」
「お気の毒様」
「いっそシュアンが相手してくれよ…。社交慣れしてんだろお前」
「それはさすがに僕が怒るよ…?」
「え、フー怒るのか?…ていうか無理に決まってんだろアホかお前」
「冗談だよ冗談……」
ははは、と軽い笑いが空へと響く。だが当の本人の目は全く笑っていない。
「いっそのことさ、適当なやつに“恋人役”でも頼めば?そこらの侍女とか、兵士にさ」
黙って会話を聞いていたランシーが、冗談めかした調子で言葉を挟む。獅子の言葉に、ジンリェンは思いがけず真面目な顔でうなずいた。
「実は……それ、ちょっと考えたんだ。相手が勘違いして帰ってくれたら、って……」
「……ジン」
「悪かったな、情けない兄で。だが俺は恋路よりも血を抜かれる方がマシな性格でな」
半ば自棄気味に言い切ったジンリェンに、場が少し沈黙に包まれる。と、次の瞬間――ジンリェン、ランシー、そしてシュアンランの三人が、ぴくりと同時に動いた。
「…あ、」
「なるほどな」
「悪くはない」
三者三様にうなずいたその視線が、同時に一人の人物に集まる。
「――嫌だ」
鋭く、即座に放たれた言葉。フーリェンは背筋を伸ばしたまま、涼しい顔で断言した。だがその狐耳はわずかに動き、三人と同じ考えに辿り着いたことを裏付けている。
「なあフー。頼む、今回だけ。数日で終わる! 演技でいいんだ、能力でほんのちょっと……いやちょっとどころか完璧に変化して恋人として――」
「嫌だ」
「今回は立場的に断れないんだ……だから!お前だけが頼りなんだ……!!」
「嫌だ」
「なあ、なあ、なあああっ」
「…うるさいよ、ジン」
珍しくフーリェンが分かりやすいくらいに大きく、深いため息を吐いた。気配を断ってその場を離脱することも考えたが、兄の必死な様子に、ほんのわずかに情が揺れている。そんな弟の呆れ顔に、ジンリェンはふいに表情を変えた。何かを思いついたようにぱっと顔が明るくなり、次の瞬間声の調子が変わる。
「――なあ、フー。お前、覚えてるよな。展示演武のこと」
フーリェンの眉が、ぴくりと動いた。
「……何のこと?」
「俺と一緒なら出るって……ルカ様経由でアルフォンス様に条件出したよなお前。……だから、俺も一緒に出たんだ」
静かに、しかし確実に、痛いところを突いてくる口調だった。
「そもそも。あれがなければ、この見合い話も来なかった。つまり、元を辿れば――お前のひとことで、俺は今この状況にいるわけだ」
「……ずるい言い方するね」
「兄として、切り札は使わせてもらう」
ジンリェンの口元には、ふだん見せないような、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。フーリェンはしばし目を伏せていたが、やがて諦めたように片耳を垂らし、深く息を吐いた。
「……分かったよ」
「よし、話が早い」
「ただし、ほんの少しだけだからね」
「もちろん。“恋人”が数日だけ現れて、勝手に帰っていく――最高の作戦だ」
「誰が考えたのさ、そんな馬鹿みたいな話」
馬鹿馬鹿しい作戦内容に、ランシーとシュアンランが再びくくっと笑いを堪える。そんな二人に内心「覚えとけよ」と渋い顔をしながらも、フーリェンは静かに立ち上がった。
「……失敗したら、次からは絶対に引き受けないから」
こうして、兄弟の静かな攻防はひとまず“兄”の勝利で終わった。
しかしその陰で、王宮史に残るかもしれない奇妙な芝居の幕が、いま静かに上がろうとしていた――。