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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第5章
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兄の切り札

数日後。夏の風が王宮の中庭を吹き抜け、生い茂る緑葉を揺らしていた。訓練場ではいつも通り。若い兵たちの声が飛び交い、木刀と剣がぶつかり合う音が響いている。だがその賑わいの裏で、ひとつの噂が静かに、けれど確実に広がっていた。


「ねえ聞いた? 第一王子の直属護衛が西のご令嬢とお顔合わせをするって……」

「ジンリェン様?…その噂、本当なのね」


小さな侍女たちの囁きは、水面に落ちた一滴のように波紋を広げていく。噂の渦中にいる本人はというと、いつも通り訓練場の端で報告書に目を通していた。だが、その硬い横顔の陰に、疲労と苛立ちの色が差しているのは、誰の目にも明らかだった。


「やっぱり機嫌悪いな」


彼女たちの噂話が風に乗って流れてきたのは、ランシーとフーリェンが昼休憩の合間に集まっていた時だった。フーリェンは黙って木の根に腰掛けて水筒を傾け、ランシーは持っていた干し肉をもぐもぐと噛んでいる。


「なんで機嫌が悪いのか、知ってるか?」


と、口火を切ったのはランシーだった。


「………聞いた。縁談のことだろ」

「やっぱり耳に入ってたか。王宮の噂の伝達力ってすごいよな。まだ本決まりじゃないにしても、相手の令嬢が王宮に来るって噂も出回ってる」

「……」

「第一王子直属の護衛ともなれば、そういう話が出るのも仕方ないのかもな…」

「……仕方ない、で済ませる人なら、ジンはとっくに誰かとくっついてるよ」

「まあ、それもそうか」


フーリェンの返しに、ランシーが苦笑する。


そのとき、廊下の方から足音が近づいてきた。目線を向けると、夏の日差しに負けない冷ややかな空気をまとった狼男が、分厚い書簡を抱えられて二人のいる木陰へと入ってきた。


「……ジンは?」

「そこで書類と格闘してる」

「ならいい。あいつ、ああいう時ほど呼ばれても絶対来ないからな」

「……縁談の件?」

「それもある。どうやら、見合いを断ったにもかかわらず、向こうが勝手に“訪問”を強行してくるって話だ。対応は避けられないらしい」


その言葉に、フーリェンの耳がぴくりと動く。


「本当に……来るんだ」

「……ああ。お前も、心づもりしておいた方がいいぞ」

「なんで僕?」

「どうせ何かあったらお前が止める羽目になる。……主に兄貴の暴走をな」


からかうようにフーリェンへと言葉を投げかけた後、シュアンランが片手をひらひらと振って去ろうとしたそのとき――


「……他人の話をしてる気がしないのは、なぜだろうな」


訓練場の端から低く、ややくぐもった声が飛んできた。


三人がそちらを振り向くと、書類の束を抱えたジンリェンが、げんなりとした顔でこちらへと歩いてくるところだった。皮の綴り紐で留められた報告書が右手にぶら下がり、顔には明らかな倦怠と憂鬱が浮かんでいる。


「なんだ、聞いてたのか」

「聞きたくなくても、聞こえた」


そう呟いたジンリェンはどかりと弟の隣に腰を下ろす。その手から水筒を借りて一口飲むと、深く息を吐いた。


「本当に来るんだな、お相手さん」

「ああ。文書も届いてる。あとは“お顔合わせ”とやらを待つばかり」

「お気の毒様」

「いっそシュアンが相手してくれよ…。社交慣れしてんだろお前」

「それはさすがに僕が怒るよ…?」

「え、フー怒るのか?…ていうか無理に決まってんだろアホかお前」

「冗談だよ冗談……」


ははは、と軽い笑いが空へと響く。だが当の本人の目は全く笑っていない。

 

「いっそのことさ、適当なやつに“恋人役”でも頼めば?そこらの侍女とか、兵士にさ」


黙って会話を聞いていたランシーが、冗談めかした調子で言葉を挟む。獅子の言葉に、ジンリェンは思いがけず真面目な顔でうなずいた。


「実は……それ、ちょっと考えたんだ。相手が勘違いして帰ってくれたら、って……」

「……ジン」

「悪かったな、情けない兄で。だが俺は恋路よりも血を抜かれる方がマシな性格でな」


半ば自棄気味に言い切ったジンリェンに、場が少し沈黙に包まれる。と、次の瞬間――ジンリェン、ランシー、そしてシュアンランの三人が、ぴくりと同時に動いた。


「…あ、」

「なるほどな」

「悪くはない」


三者三様にうなずいたその視線が、同時に一人の人物に集まる。


「――嫌だ」


鋭く、即座に放たれた言葉。フーリェンは背筋を伸ばしたまま、涼しい顔で断言した。だがその狐耳はわずかに動き、三人と同じ考えに辿り着いたことを裏付けている。


「なあフー。頼む、今回だけ。数日で終わる! 演技でいいんだ、能力でほんのちょっと……いやちょっとどころか完璧に変化して恋人として――」

「嫌だ」

「今回は立場的に断れないんだ……だから!お前だけが頼りなんだ……!!」

「嫌だ」

「なあ、なあ、なあああっ」

「…うるさいよ、ジン」


珍しくフーリェンが分かりやすいくらいに大きく、深いため息を吐いた。気配を断ってその場を離脱することも考えたが、兄の必死な様子に、ほんのわずかに情が揺れている。そんな弟の呆れ顔に、ジンリェンはふいに表情を変えた。何かを思いついたようにぱっと顔が明るくなり、次の瞬間声の調子が変わる。


「――なあ、フー。お前、覚えてるよな。展示演武のこと」


フーリェンの眉が、ぴくりと動いた。


「……何のこと?」

「俺と一緒なら出るって……ルカ様経由でアルフォンス様に条件出したよなお前。……だから、俺も一緒に出たんだ」


静かに、しかし確実に、痛いところを突いてくる口調だった。


「そもそも。あれがなければ、この見合い話も来なかった。つまり、元を辿れば――お前のひとことで、俺は今この状況にいるわけだ」

「……ずるい言い方するね」

「兄として、切り札は使わせてもらう」


ジンリェンの口元には、ふだん見せないような、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。フーリェンはしばし目を伏せていたが、やがて諦めたように片耳を垂らし、深く息を吐いた。


「……分かったよ」

「よし、話が早い」

「ただし、ほんの少しだけだからね」

「もちろん。“恋人”が数日だけ現れて、勝手に帰っていく――最高の作戦だ」

「誰が考えたのさ、そんな馬鹿みたいな話」


馬鹿馬鹿しい作戦内容に、ランシーとシュアンランが再びくくっと笑いを堪える。そんな二人に内心「覚えとけよ」と渋い顔をしながらも、フーリェンは静かに立ち上がった。


「……失敗したら、次からは絶対に引き受けないから」


こうして、兄弟の静かな攻防はひとまず“兄”の勝利で終わった。


しかしその陰で、王宮史に残るかもしれない奇妙な芝居の幕が、いま静かに上がろうとしていた――。

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