縁談
王宮の朝は、いつもと変わらぬ穏やかさで幕を開けていた。だが、その静けさの裏ではある書状が一人の王子のもとへと届けられていた。
第一王子アルフォンスの執務室。窓辺から射す光を受け、部屋には爽やかな紅茶の香りが揺らいでいる。
「……これは、また厄介なのが来たな」
そう呟いたアルフォンスは、卓上に広げられた文面に目を落とす。上質な紙には丁寧な筆致で、こう記されていた。
『我が家の娘は、従来より軍務に理解があり、貴殿の護衛であるジンリェン殿の武勇に深い感銘を受けております。つきましては、ささやかではありますが、一度顔合わせの機会を設けさせていただければと存じます――』
差出人は、西部の有力貴族。政治的な利害よりも、娘の「個人的な感情」を前面に押し出した内容に、アルフォンスは小さく息をついた。視線を窓の外に向ける。青空の下、訓練中の兵士たちの声が風に乗って聞こえてくる。ちらりと視線を下へ落とせば、勇ましく剣を打ち付け合う男たちの輪の中に、自身の護衛の姿を見つけた。
「まったく……本人には悪いが、これは避けて通れそうにないな」
立ち上がり、書状を封筒に戻す。そのまま側に控えていた侍女へと一言告げた。
「ジンを呼べ。話があると伝えてくれ」
扉が静かに閉じる。やがて、この一通の手紙が、軍務に生きる護衛の静かな日常に、新たな波紋を広げていくことになるとは――まだ誰も知らなかった。
――――
扉の向こうから、控えめなノックが響いた。
「…入れ」
軽く声をかけると扉が静かに開き、白狐が姿を現した。訓練を終えたばかりなのか、まだ汗の残る額を軽く手の甲でぬぐいながら、短く礼を取る。
「ジンリェン、参上しました」
「悪いな、少し時間をとらせる」
椅子に腰を下ろすように促すと、ジンリェンはどこか落ち着かない様子で席についた。アルフォンスは無言のまま、机の上に一通の封書を置く。
「これは……?」
「ある貴族から届いた書状だ。お前宛てだ、ジン」
ジンリェンは怪訝そうに眉を寄せながら封を切り、目を走らせる。文字を目で追うごとにその琥珀色の瞳が揺らいでいく。やがて白色の狐耳がぴんと張り詰めたように立ち上がると、ぴたりと体が硬直した。
「……は?」
「その反応も、まあ予想通りだ」
「待ってください。娘を……俺に嫁がせたい?」
読み返しても信じられないのか、ジンリェンは思わず紙をひらひらと持ち上げてアルフォンスに向ける。
「何の冗談ですか、これ……」
「冗談ではない。正式な申し出だ。お前を所望したのは、西部の名門タニス家の令嬢でな」
アルフォンスは頬杖をつきながら、わずかに笑みを浮かべる。
「理由も書かれていただろう。『ウェディング祭における展示演武を目にし、心を奪われました』と」
「……あれは、公務の一環です」
ジンリェンはますます顔をしかめた。
「そもそも、そういう目で見られるのは……勘弁してほしい」
「それだけお前の姿が、彼女の印象に残ったということだ。よほど格好良かったんだろうな。特に――」
「やめてください、思い出させないで」
ジンリェンは目を閉じ、額を押さえる。明らかに、この話が嫌で仕方ないという態度が全身からにじみ出ていた。そんな彼の姿に一瞬言い淀んだあと、アルフォンスは僅かに視線を落とした。
「タニス家は西方でも有数の有力貴族だ。王宮との関係も深い。無下にはできない立場にある」
ジンリェンは黙って封書を見つめたまま、しばらく沈黙した。
「分かっていると思うが、お前の名は王都中に知れ渡っている。直属護衛としての手腕も、あの演武での印象も、だ」
「それは、……分かっています」
彼は苦々しい声でそう返すと、書状を机に投げ返すように置いた。
「ですが、俺はただ…この国を守るために戦っているだけです。それ以上でもそれ以下でもありません」
「分かっている。ただ……彼らにとって、お前は王家に近い存在だ。見合いの申し出は、もはや個人だけの問題ではなくなっている」
その言葉にジンリェンの眉がわずかに動く。苛立ちを押し殺すように、深く息を吐いた。
「……俺の事情を、どこまでご存じかは知りませんが―」
「そうだな。俺も詮索はしていない。それでも……立場ができれば、逃げられない問いもある」
ジンリェンは数秒沈黙したまま、やがて小さく呟いた。
「……それでも、俺は嫌です」
その言葉には、断固とした意思が込められていた。アルフォンスはふと口元を引き結ぶ。
「分かった。とりあえずは、俺から丁重に断っておこう。ただし――」
「……また来るんですよね?」
「可能性はある」
「……分かりました。もう、好きにしてください…」
苛立ち交じりの声を残して、ジンリェンは部屋を出ていった。静かになった執務室の中、アルフォンスは椅子に深く身を預け、わずかに眉を下げる。
「――とはいえ、あの一件で心を動かされる者が増えるのも当然か。……難儀な話だ」
窓の外へ視線を移しながら、彼は机の端に置かれたもう一通の封筒に手を伸ばす。それは、つい先ほど届けられた追伸の書状だった。
「……数日以内に、娘を王宮に送る予定、か」
読み上げる声に、わずかに溜息が混じる。
断りを入れられることを見越していたのだろう。こちらの返答が届く前に、相手方は既に動いていたみたいである。
「……申し訳ないが、今回は腹をくくってもらうほかないな」
そう呟いて、アルフォンスは封書を脇に置いた。護衛としての任務に忠実であろうとする男に、最も望まぬ役割を――政の盤面に引きずり出すという現実。その声はどこか悔しさを滲ませながらも、王族としての冷静さを保っていた。