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王宮の獣護  作者: 夜夢子
間章
106/250

深夜。王都の上には雲が垂れこめ、星ひとつない空が広がっていた。ジンリェンは珍しく夢を見ていた。


——白い霧の立ちこめる小さな部屋。


幼い弟が、床に膝をついて肩を震わせている。その周囲には破れた布、割れた器、そして赤く血の滲む床。


「あああぁあぁぁ…………!」


顔を覆った彼の手の間から、火花のように次々と違う姿が生まれては消えていく。白狐、黒豹、猫、兎、熊……定まらない毛並みと形。叫びに似た声はひどく幼く、必死だった。


「……シロぉ…」


苦痛に滲む顔を両腕で隠し、僅かに兄の名を呼ぶ弟に、自分はただ、そっとその肩を掴んだ。


「――大丈夫。大丈夫だから、僕を見て…コン」


弟が顔を上げた。涙で濡れた、その濁った瞳に、白狐の姿が映る。


「苦しい時は、僕を見るんだ。………僕を信じて」


それが、幼い頃に交わした兄弟の約束だった――


夢は、そこで唐突に場面を切り替えた。


今度は夕焼け色に染まった訓練場。青年になった弟が、自分を睨んでいる。自分と同じ琥珀色の目に、紅が滲んでいた。


「……嘘つき」


小さく、しかしはっきりと弟は言った。


「ずっと一緒だったって、言ってたくせに……!」


その言葉が胸を打った瞬間、景色が一変する。


目の前の弟が、涙を零しながら叫んでいた。


「なんで僕に、隠してたんだよ!!」


そこにあったのは、憎しみでも恨みでもない。傷ついた、弟の心そのものだった。


「フー……俺は……」


言葉を返そうとする前に、世界が崩れた。暗闇が押し寄せ、ジンリェンの意識は、夜の現実へと引き戻される。


ばっ、と布団を払って上体を起こす。窓の外では、かすかな風が木の葉を揺らしている。誰の声もしない、ただ静かな夜だった。ジンリェンは自身の手のひらを見つめた。幼い頃のあの肩の感触が、いまだに残っている気がした。


(……夢、か)


喉が渇いていた。立ち上がって、水差しの水をひと口飲む。だが胸の内には、静かに疼くものが残っている。


「……………ごめん。コン――」


夢の中の彼に向かって、ジンリェンは誰にも聞こえぬ声で小さく呟いた。






――――

朝靄が窓を曇らせる。王宮に朝が訪れていた。


ジンリェンは机に突っ伏すようにして、山積みの書類を片づけていた。整えられていたはずの机上には、昨夜手を付けられなかった報告書や名簿、軍部間の通達の控えなどが乱雑に並んでいる。


夢のせいで、眠った気がしない。


疲れた思考を引きずりながら、ジンリェンは目の下の隈に指先を当てた。鏡は見ていないが、表情の重さだけで己の顔色がひどいとわかる。頭の芯がじんわりと痛む。


「……くそ、朝から書面で戦争か」


一枚一枚、鉛のような手つきで決裁印を押していく。時折ペンを持った手が止まり、昨夜の夢が脳裏をよぎる。弟の、あの痛ましい叫びが、未だ胸の奥で燻っていた。


そこへ、遠慮がちなノックが扉を叩く。


「…リィエルです。隊長、失礼します!」

「……入れ」


扉が開き、整った軍服姿の若い兵士が一礼して入ってくる。ジンリェンの表情を見るなり、わずかに顔を曇らせた。


「隊長、顔色悪いですよ……。大丈夫ですか?…あの、お忙しいところ、大変申し上げにくいのですが…お呼び出しが来ています」

「……呼び出し?」

「はい。定期健診です。各隊長、能力持ちには全員通達が回ってます。医務室にて血液検査と身体測定のほうを、隊長は午前中に済ませてくださいとのことです」

「あぁ……あれか」


ジンリェンは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。


半年に一度。能力の負荷による身体の異常や、知らずに体内で進行している不調を見つけるため、王宮では全隊を対象にした健診が義務づけられている。とりわけ彼のように、炎という肉体への負荷が高い力を操る者にとっては、定期的な監査が欠かせない。


「はぁ……憂鬱だ…。朝から血を抜かれて、身体いじくられて……」

「……ですが、いつも通り、医務官殿は“さっさと来ないと検査項目が増えるわよ”と笑ってました」

「はは、それは笑えないな」


苦笑いを漏らしながらも、ジンリェンは渋々立ち上がった。肩を回すと、夢の余韻か、肩甲骨のあたりが鈍く重い。


「わかった、行く。……書類だけ済ませたらな」

「はい、伝えておきます」


リィエルが敬礼して出ていくのを見送りながら、ジンリェンはペンを握り直した。ふと、弟の姿を思い浮かべる。夢の中で見た、定まらぬ姿ではなく、自分と同じ槍を背負い仲間と共に立つ“隊長”の顔を。彼は立派に自分と同じ立場で自分の居場所を見つけている。何を今更、心配することがあろうか。


書類の山の後に控える憂鬱を忘れるように、一度頭を振る。一呼吸すると、ジンリェンは再び書類との格闘を始めた。


 

――――

王宮の東棟にある医務室への通路は、いつも以上に遠く感じられた。ジンリェンは重い足取りで、まるで処刑台にでも向かうかのようにずるずると歩いていた。白い石畳の廊下に、革靴の音が間延びして響く。真っ直ぐ歩いているつもりが、微妙に左右へ蛇行していた。


「……別に痛くないってわかってるんだけどな……」


そう小声で呟きながら、ため息をつく。理由は簡単。半年に一度の定期検診。とりわけ血液検査――つまり、「針」を使った検査が、ジンリェンは大の苦手だった。


第一軍の隊長にして、第一王子アルフォンスの直属護衛であり、兵士たちの前では威厳と沈着さを欠かさない男。そんな彼は細い金属一本を前にして、子狐のように怯えている。


どうしてもダメなんだよな、あれだけは……。


前回は確か、採血の瞬間に顔を背けて椅子をずらし、医務官のユキに「軍の恥」とまで言われたのだった。今回も同じ未来が待っていると思うと、足取りはますます重くなる。


「……やっぱり午後に回そうかな……」


そうぼやいた時だった。


「…ジン」


石畳に軽やかな足音が駆け寄ってきた。振り返るより早く、真っ白な隊服の裾が視界に入り、すぐ隣にフーリェンが並ぶ。


「……フーお前、もう検査終わったのか?」

「今終わった。……それよりジン、顔色悪い」


フーリェンが心配そうにジンリェンの顔を覗き込んでくる。琥珀色の瞳が、わずかに揺れていた。


「……別に、大したことない。ちょっと寝つきが悪かっただけ。それに……」


視線をそらして、少し声を落とす。


「ただ、検査が嫌なだけだ」

「……ああ」


フーリェンは一拍遅れて、何かを理解したように目を細めた。


「…針のやつ?」

「……そうだよ」


目を逸らしたジンリェンに、フーリェンは小さく眉を寄せる。そして不意に、ぐいと彼の腕を引いた。


「……ちょ、何だ」

「ユキに頼まれた。ジンが逃げそうだったら捕獲してこいって」

「ユキのやつ……!」


脳裏によぎる、腕を組んで仁王立ちするヒューマンの女の姿。赤色の双眸が自身を睨むその姿を想像し、身体を震わせる。一瞬だけ逃げ出そうと一本後ろに下がる。しかしすぐにジンリェンは抵抗をやめた。弟の背は自分よりも一回りほど小さく、体格差を考えれば力技で捕縛を解くこともできるだろう。しかし、うまくいったとて俊敏さでは彼に劣る自分が、この距離からフーリェンを撒いて逃げおおせることが出来るとは到底思えなかった。


――――

「おはよう、ジン。……予定より五分遅れね」


医務室に入った瞬間、冷ややかな声が飛んできた。棚の前で書類を片づけていたユキがこちらを振り返る。彼女の淡い灰銀の髪が陽の光に透け、医務室の無機質な白壁に影を落としていた。


「はい…申し訳ございませんでした」


弟に軽く掴まれたままのジンリェンが、やや気まずそうに答える。


「来なかった場合は、採血量を倍にしてやろうかと考えてたところよ」

「……本気でやりそうだから怖いんだよな……」


ぼそりと呟きつつ、ジンリェンは渋々足を進めた。身体検査は毎回問題ない。測定の数値はむしろ優良と太鼓判を押される。問題は――最後に残る、最大の難関。


「はい、じゃあ次は血液検査ね。座って、腕出して」


ユキが淡々と準備を進める。その動きは一切の迷いがなく、まるで機械のような正確さだった。椅子に腰を下ろすと、すぐに耳と尻尾が警戒音を出すようにぴくりと動く。


「腕、出してって言ったわよ」

「いま、出そうとしてる……」


声がやけに小さい。椅子に沈み込み、肩も背中も丸まっていく。気づけば、尻尾すらぐるぐると自分の足に巻きつけていた。そんな兄の様子を見ていたフーリェンが、ついには溜め息をついた。


「……手、貸そうか?」

「ああ、いや……俺は第一軍の隊長で、しかも兄で、お前は弟で……」

「……ジン」

「……頼む」


わずかに顔を伏せて、ジンリェンが白旗を上げた。フーリェンは無言で近づき、彼の左手をそっと取る。ぎゅっと握られた指先に、自分の指を絡めるようにして落ち着かせる。


「はーい、ちょっとチクッとするだけよ。深呼吸して」


ユキが針を構えた瞬間、ジンリェンの耳がぴんと立ち、尻尾がさらに強く足を締めつけた。それを横目に見ていたフーリェンは、自分の尻尾をゆっくりと伸ばすと、ふわふわと兄の背中を優しく撫でる。


「…っ、……馬鹿にしてるのか……?」

「してないよ。落ち着くでしょ」


背を撫でる毛並みの柔らかさは、少しずつではあるがその強張った肩の力を解いていく。


「……あと何秒だ……」

「もう終わったわよ」


冷静な声が落ちたと同時に、腕のチューブが外された。


「お疲れさま。記録に残しておくわ。“弟に支えられて、なんとか生還”って」

「やめろ」


ジンリェンは苦々しげに目を細めたが、どこかそこには安堵の色が混ざっていた。フーリェンの手は、まだ彼の手を離していない。


「……助かった」

「うん」


検査は無事に終わった。次はまた半年後――


ジンリェンは、一先ずクリアした難関に一人静かに安堵の息をもらしたのだった。

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