野営戦 -終-
夜空を裂く一閃。凍てつく風すらも引き裂くような、剣の軌跡が走る。シュアンランの全身から放たれた、氷のすべてを込めた渾身の一撃。
その刃が、まさにヘルガーの胸元へ届こうとした、その時だった――。
「……ッ!」
空に、白銀ののろしが上がった。
一筋の光が、明け方の静かな空を駆ける。
フェルディナ軍の本部から、勝利を告げる信号――
ピタリと時間が止まったようだった。氷の刃の先に、ほんのわずか息を飲んだヘルガーの姿が写った。何も言わずに剣を引いたのは、シュアンランの方だった。
手首の角度を緩め、大刀を氷の粒と共に解かす。足元を覆っていた氷も同時に融け始め、静かに、戦場の空気がもとの冷たい静寂へと戻っていく。
「……終わり、か」
氷に包まれた視界の先で、ヘルガーが短く呟いた。
驚きと納得と、ほんのわずかな感情の色を、彼は隠さなかった。唇の端に僅かな皺を寄せて、鋭くも静かな視線を、正面に立つ狼男へと向ける。
「バルドが落とされたか……俺の見立てが、甘かったということだ」
シュアンランは言葉を返さないまま、ただ無言で頷いた。大刀を氷へと還し、息を一つ吐く。
「……あのまま撃っていれば、俺の胸を裂けたか?」
ヘルガーの問いに、シュアンランはようやく言葉を返す。
「そうだな。だけど、お前も反撃の準備をしていただろう」
「……そうだ。お前が止まらなければ、どちらかが倒れた。もしかしたら、両方かもな」
互いの能力も、間合いも、そして精神の在り方すらも知っている――そんな二人にだけ許された、氷と氷のやり取り。
「…ここまでやられるとはな。今回は、俺の負けだ」
ヘルガーが肩をすくめた。そんな彼に向かってシュアンランが静かに歩み寄りる。互いの距離が一歩詰まる。
「……俺は、勝ちとは認められないな」
「…そうか。それなら、次に期待するしかないな」
ヘルガーの言葉に、シュアンランは目を伏せた。
数秒の間の後――氷の気配が完全に霧散した。
「退く。お前たちの手際、見事だった。……フーリェンにも、そう伝えておけ」
シュアンランは目だけで頷く。ヘルガーはくぐもった笑いを一つだけ残すと、くるりと踵を返した。彼に従っていた残兵たちも、それぞれに傷を抱えたまま、夜の森の奥へと退いていく。やがて、彼らの気配が完全に消えたその場に、しんとした冷気だけが残った。
――――
夜が明けかけている。
勝利の狼煙を天幕から見上げた戦死組は、喜びの歓声をあげてひとしきり騒いだ後、弾む心をそのままに撤収作業へと移っていった。そんな兵士たちの声を聞きながら、フーリェンは能力の反動の残る身体を近くの木に預け、明け方の光を浴びていた。生ぬるく吹き付ける夏の風が、彼の白髪を優しく撫でる。その時、足音が二歩、三歩と近づく気配に、彼の耳がぴくりと動いた。
「………どうしたの」
その声に、近づいてきた影が立ち止まる。ゆっくりと目を開けたフーリェンが顔を向けると、そこにいたのは、中央防衛を担っていた兄――ジンリェンだった。
「…様子を見に来た」
ジンリェンはフーリェンの隣に腰を下ろすと、ちらと弟の顔を覗き見る。
「少し顔色が悪いな。反動か?」
「…うん。……でも、そろそろ動ける」
「そうか」
ジンリェンは静かに頷き、空を仰ぐように目を細める。朝の光が、じんわりと二人の影を伸ばしていた。しばらくの沈黙の後、兄の視線がふと、弟の腰のポーチへと落ちた。開かれたままの口が空であることを確認して、彼は少しだけ口角を上げる。
「……で、あれは役に立ったか?」
淡々とした問いかけ。だがそこには、弟に託したものへの確かな関心と、少しのからかいが混ざっていた。
フーリェンは苦笑しながら肩をすくめる。
「……一度、全員凍った。お陰様で、次の瞬間には動けた」
「それは良かった」
「でもやっぱり、……使うとしんどい」
「それでも、大したもんだよ」
そう言ってジンリェンはさらりとした顔をしている。
フーリェンはそこで小さく笑い、目を細めた。そこには安堵と、兄の力を借りねばならなかったことへのほんの少しの悔しさが、同時に滲んでいた。
「……ずるいな、ジンは。なんでも一人でやれる顔してさ」
「お前にだけは言われたくない」
静かな言葉のやり取りの中、どこか緊張が解けていく。戦いの夜が明け、ようやく兄弟が並んで座る、その時間が訪れたのだった。