第四章 野営戦 ―氷狼の名を持つ者たち―
夜が深まるにつれ、空気はますます冷たさを増していた。
「……押されているか」
シュアンランは大刀を構え直しながら息を整えた。
足元に氷の粉が舞い、冷気が皮膚を刺すように吹き付ける。氷を操るアスラン軍の大将。その力はやはり、次元が違う。
正面で構えるヘルガーは、氷の鎧のように空気を纏い、その双眸でシュアンランを見据えていた。五年前の合同訓練――あの時、彼に敗北した記憶が、じわりと脳裏に滲む。
(だが、同じ轍は踏まない)
その背後では、アドルフが指揮を執り、隊員たちに命令を飛ばし続けている。
「右側、収束! 左は引いてライン再構築!崩れるな!」
冷静で的確な指示。シュアンランはちらとその後ろ姿を見て、思考を切り替えた。
(アドルフがいる限り、隊は崩れない……なら)
彼は、低く、短く叫んだ。
「――アドルフ、隊を引かせろ」
その一言に、アドルフの肩が僅かに動く。
すぐに状況を察し、振り返らずに命令を飛ばした。
「全員、後退! 後衛、傷者を抱えて森の陰へ!急げ!」
驚いたような声が飛び交ったが、隊員たちは即座に従った。第二軍は日々の任務の中で、互いの信頼を積み重ねてきた部隊である。アドルフのその信頼が、シュアンランを全力で戦わせるために、全員を撤退させた。
そして戦場に残ったのは、氷を纏う二人だけ。
「……随分と仲間思いだな」
ヘルガーが皮肉のように呟く。
「…そうかね」
静かに言い返すと、シュアンランの足元の氷が、じりじりと震え始めた。
「……決着を付けよう」
そして次の瞬間、氷が爆ぜた。
シュアンランから放たれたのは、大刀まとわりついた圧縮された冷気の塊。斬撃と共に解放されたその力は、前方一帯を白い閃光の波と変え、すべてを呑み込む勢いで疾走する。地を裂き、木々を砕き、氷と氷が空中でぶつかりあった瞬間、戦場が揺れた。
「ッ……!」
ヘルガーも即座に対応。足元を中心に幾重にも重ねた氷の防壁を展開し、巨大な氷柱を盾にして耐える。爆音のような衝突音と共に、凄まじい冷気があたりを襲った。その場にいれば、皮膚も肺も凍りつくほどの寒波。それでも、互いの力は――止まらなかった。
白銀と蒼銀の氷が、激しく火花を散らす。
「なるほどこれが、……お前の全力か」
ヘルガーの瞳が、わずかに細められる。
シュアンランは呼吸すら崩さず、静かに答えた。
「……次で終わらせる」
その言葉の奥にある“覚悟”に、ヘルガーの表情が、わずかに引き締まった。
夜が静かに明け始める。戦場の空が、じわりと青く染まりつつあった。薄い月明かりが照らすその戦場で、シュアンランの手には、白銀に輝く一振りの大刀がある。
刃は長く、幅も広い。まるで氷をそのまま削り出したような質感を持ち、鍔のないその武骨な姿は、まさに彼の力そのものだった。
それは――彼の“氷”によって形づくられた、殺意の結晶。
ヘルガーが目を細め、後ろの部隊に目をやる。
その背後には、すでに凍結した地面を踏みしめるアスランの兵たちが控えていた。地面から突き出すように茨状に伸びた氷の槍が、あちこちに並び立っている。
「…その大刀で薙ぎ払う気か?」
「……正解だ。だが、お前はもっと下がるべきだったな」
次の瞬間――
シュアンランの両足が地を蹴る。その膝下には、すでに彼の冷気が満ち、土を凍てつかせていた。それを合図に、全身を捻るようにして大刀を振り抜く。その軌跡は、周囲の空気ごと切り裂いた。
「ッ……!」
ヘルガーが咄嗟に地面を穿ち、茨状の氷を突き上げるが、それらはすべて瞬く間に凍り、砕け散る。
シュアンランの氷は、“凍らせる”ことで支配する。
それは、ただの冷気ではない。“氷を上塗りする”ほどの支配力を持つ異質の冷たさだった。
「全て凍らせるつもりか……」
ヘルガーの額に、一筋、冷や汗が滲む。
自らが作り出す氷の茨も柱も、近づいた瞬間、崩れてゆく。
「無茶をするな」
だが、ヘルガーもまた、その場に立つ一流の氷使い。
冷静に状況を見極める目を捨ててはいない。
「遠距離からの制圧でお前の領域に踏み込ませなければ、勝機はある」
再び、彼は掌を前に突き出す。
氷の柱が連続して、雨のように空から降り注ぐ。まるで地を抉るかのように鋭く、絶え間ない一撃が続く。
だが――
シュアンランは、微かに笑んだ。
肩で息をしながらも、その足元は崩れていない。
彼の作った“足場”はすでに、すべてを凍らせる極寒の領域となっていた。冷気が、まるで呼吸をするかのように地を這い、範囲を広げ続ける。
「ずいぶんと、腕を上げた……」
ヘルガーの声に、シュアンランは目を細める。
「5年前とは違う。言っただろ。今回は――勝ちに来た」
そして、広げた足の裏から、爆発的に冷気が走る。
それは森の木々を凍らせ、空気を裂き、兵たちの足を止めさせる威力。あたり一面が、静かに、しかし確実に“シュアンランの氷”に塗り替えられていった。
ヘルガーの眉間に刻まれた皺が深まる。彼は手を掲げ、空気中の水分を引き寄せて新たな氷柱を生成し始める。
「貴様の“凍土”に飲まれてたまるか!」
全てを凍らせようとする広範囲制圧型と、物量と距離で押し潰す近距離型。対極の性質が、いま激突している。その衝突の渦中にありながら、アドルフたちはすでに距離を取り、シュアンランの戦場を見守っていた。
「隊長が本気を出すとは……またとない見ものだな」
呟いたアドルフの声に、部下の一人が息を呑んで返した。
「……隊長は、勝てますか?」
「さあな。ただ……」
アドルフは、霧の向こうに見える巨大な氷の輪郭を見据えた。
「どちらかがここで折れれば、戦況が一気に動く。それだけだ」
その言葉に兵たちがうなずいたとき――
ふたつの氷が、ついに臨界を超えた音を立てて、ぶつかった。鈍く低い“破裂音”が、森全体に轟く。
氷と氷のぶつかり合い。
それは、冷たさではなく、“意志”の強度を競う戦いだった。
――勝つのは、どちらの氷か。どちらの覚悟か。
夜の戦場に、いま、その決着の兆しが、少しずつ形を成しつつあった。