第四章 野営戦 ―残火―
氷に覆われた森の中心で、重い沈黙が流れていた。
ヘルガーの掌には、はっきりと〈印〉が握られている。それがフェイクであると分かっていても、戦術上の損失は大きい。
フーリェンの身体は地面に膝を落とし、凍りついた残滓が肩先に白く散っている。けれどもその目は、諦めも恐れも映していなかった。
「……ようやく、顔を見せたか」
その低い声は、氷の静寂を裂くことなく、すっと耳に届いた。氷の剣を地に立て、ヘルガーがこちらを見据えていた。
「やはりお前だったか」
その言葉に、フーリェンは少しだけ顔を逸らした。してやったりの表情と、悔しさを滲ませた目が交差する。
「狐の姿しか知らん者には騙せたかもしれん。だが俺は、訓練場でお前の声を、指揮を、間近で聞いた」
ゆっくりと間合いを詰めながら、ヘルガーは続ける。
「変化の能力、か。よく鍛えられている。形だけでなく、動作も。――見事なものだ」
それが敵であっても、感嘆の色を隠さないのが、ヘルガーという男だった。フーリェンは返さない。ただ静かに、肩を上下させ、呼吸を整えていた。
そして――その耳が、ぴくりと動く。
狐の耳が捉えた、地を蹴る音、枝を裂く風の旋律。
「フーリェン!」
アドルフが駆け寄ろうとするが、フーは手を上げて制する。代わりに、琥珀の瞳が夜を見据え、薄く笑った。
――数刻前。
「隊長、伝令です! 東寄りの斜面、敵の氷の先鋭部隊と陽動部隊が接触した模様!」
「……了解」
報告を聞き終わるよりも早く、シュアンランは駆け出していた。彼の背後には、雪を切るような静けさを纏った主力部隊が続く。
敵との接触報を受け、一直線に森を突き進む。
しかしこの密林において、音も煙もない戦闘では位置の特定が困難だった。
――その時だった。
風に乗り、確かな“熱気”が前方から流れてくる。
炎の匂い。焼けた葉の焦げる臭いが、狼の鋭敏な鼻腔を刺激した。
「……そこか」
短く呟くと、シュアンランの脚が一層加速する。
「全員、火の残滓に向かって進め。指示は現地で出す!」
「了解!」
重なる足音の中、彼は静かに息を整える。
凍てつく森を走る中、彼の脳裏には、宿敵ヘルガーと、陽動部隊の指揮を務める白狐の姿があった。
そして――
氷で覆われた戦場の片隅に、激しく跳ね上がる冷気を切り裂いて、複数の影が飛び込んできた。灰銀の毛並みが、月光の下に舞い降りる。
「遅れてすまない」
その一言に、フーリェンはわずかに笑みを浮かべた。
ギリギリだ。でも、間に合った--。
たしかに、彼の“印”は奪われた。だが、戦場にはまだもう一つ、アドルフの印が残っている。
それは、まだ“負けていない”という証。
氷の中心――そこにいたフーリェンが、膝をついた姿勢から立ち上がる。
「……陽動隊、戦死扱いだ」
フーリェンの声と共に、アスラン側の後方に控える伝令が、速やかに情報を転送していく。それはつまり、フーリェンの指揮する部隊が、ここで“敗北”し、戦場から退くことを意味していた。
だが――
「……あとは、任せる」
凍てついた土の上に残る足跡を踏みしめながら、フーリェンは背後のシュアンランにだけ、わずかに振り返った。燃え残る炎の欠片を纏った目が一瞬、何かを託すように細められる。その目に宿るのは、敗北でも、絶望でもない。
――完遂、だった。
「…了解」
短く、シュアンランが返す。
それ以上の言葉は交わされなかった。
陽動隊の仲間たちが、フーリェンの周囲に集まり、互いの傷を支え合うようにして静かに退いていく。ヘルガーは、フーリェンの背を目で追っていた。一歩、また一歩と、森の深部へ消えていく白狐の背――
(……ただの最後のあがき、じゃなかったか)
脳裏に、さきほどまでの戦闘がよぎる。あの炎、あの動き、そしてあの変化の能力。そして何より――アドルフの印が、残されている。
(――そうか)
ヘルガーの目が細められる。
彼の行動の本当の意味。それは“自身の印を犠牲にしてでも”、アドルフの印と部隊を守り抜くための時間稼ぎ――それも、最初からそのつもりで“囮”として全力を出していたということだ。
しん、と森が静まる。氷の風がまだ地を這っているというのに、戦場には妙な温かさが残っていた。
「ヘルガー大将、どうしますか?」
足止めとなる陽動部隊はすでに撤退し、偵察隊も目の届く範囲にいる。代わって目の前に立つのは、明らかに主戦力――
戦場の構造を、短い時間の中で思考する。偵察を担う機動部隊と、敵の主戦力の一部がこちらに回されているということは、本陣を守る人員は、さほど多くない。
「……バルド」
「はっ」
氷を従える犬獣人が、すぐさま前に出る。
「お前の隊を、本陣へ回せ」
一拍の間。
それを聞いたシュアンランの視線が、わずかにバルドへと動いた。だが――その口から言葉が出ることはなかった。氷刃を抜いたままの姿で、ただ静かに、動き出そうとするバルド隊を見つめている。
(止めないのか……)
ヘルガーの中に、一抹の違和感がよぎる。だが、それを言葉にすることはなかった。
(――いや、違う)
あれは“止めない”のではない。
“止める必要がない”と判断している。
なぜなら、フェルディナ軍はこの布陣を最初から“許容”している。本陣を護るのが誰か――それが分かれば、理由は明らかだった。
(第一軍隊長。白狐の双子の兄……)
ジンリェン。敵陣にいる全軍の中心。
冷静沈着で、戦場の炎を自在に操る男。
ヘルガーはわずかに鼻を鳴らし、再び視線を前に向けた。氷を割って立つ狼。その背に並ぶ、フェルディナ軍の兵たち。
「ここは……俺の隊が受け持つ」
呟きは風に溶けた。
次の瞬間、氷と風が激突し、第二の激戦が始まった――。