『六月の蛙』
夜。
待ち合わせの場所に悟が来た時、私は田んぼ道の真ん中に一人立って、蛙の声に耳を傾けていた。
見渡す限りの水面から沸き起こる、小さな生き物たちの大合唱。目をつぶると、エコーのかかった騒音が全身を震わせるほどに響いてきて、まるで波の音を聴いているような気分になる。
「珠子」
声を掛けられても、すぐには気付かなかった。
「珠子」
もう一度。薄く眼を開くと、そこに彼が立っていた。
「ああ、来てたの。ごめんね、急に呼び出したりして」
「いいけど。話って何?」
ボソッとした声で、悟が尋ねてくる。
この人はいつもそう。女の子と話す時、何故かぶっきらぼうになる。
「ん、ちょっとね」
私も、言葉少なに答える。
「少し、歩かない?」
「いいけど」
星明りの下、仄暗い田んぼ道を二人並んで歩く。
「今夜は蒸し暑いね」
「ああ」
まだ梅雨入り前だというのに、夜風は妙に湿気を含んで、肌に纏わり付いてくる。
チラリと隣りを見上げると、痩せこけた街灯が放つぼんやりとした光が、悟の横顔を影絵のように照らし出していた。
ああ、やっぱりこの人が好きだ。
もう何度目だろう。心の中で繰り返してきた言葉を、また繰り返す。
君は知らない。私がずっと、君のことが好きだなんて。
でも私は知っている。君がずっと、私ではない他の女の子を好きだってことを。
私は知っている。その子もずっと、君を想い続けていることを。
悟と彼女は、お互いそのことを知らない。そして私も、そのことを二人に伝えない。
だって、私も悟が好きだから。
あの子よりも、私の方が先に、悟のことを好きになったのだから。
あの子は、琴美は明日、別の街へ引っ越していく。
告白するなら、今夜が最後のチャンス。今日を逃せば、二人はもう二度と結ばれることはない。
だから私は、悟を呼び出した。
君を逃がさないように。君に逃げられないように。今日だけは、君を捕まえていられるように。
「なあ、どこまで行くんだ?」
沈黙に堪えかねたように、悟が口を開く。
「もう少し」
私と悟は、幼い頃からずっと一緒だった。いつもボーっとしている彼を、私が引っ張り回していた。
中学に入って、そこに琴美が加わった。彼女もあまり積極的なタイプではなかったけどなぜか、気付いたら三人一緒に過ごすようになっていた。
といっても、この二人が直接言葉を交わすことはほとんどなく、私が間に入らないとろくに会話もできなかったりする。
それでも、時おり交わし合う視線と、すぐに眼をそらした後の赤く染まった顔を見れば、鈍感な私でも二人の気持ちに気付いてしまう。
気付いてしまう自分が、とても悔しかった。
「ほら、あそこだよ」
私は、前方の小さな橋を指さした。
暗闇の中に、エメラルドグリーンの儚げな光がちらほらと目に付く。
「子供のころ、ここでよく蛍狩りをしたよな」
「えっ、憶えてるの?」
「当たり前だろ。おまえ、何度も川に落ちて」
「そのたびに、悟も一緒に飛び込んでくれて」
「はは、そうだったな」
憶えていてくれたんだ、うれしい。
橋の上から覗くと、川面に光の乱舞が映っているのが見えた。
「きれいでしょう」
「ああ、きれいだ」
ふふ、まるで私が言われているみたい。
もう一度、彼の横顔を見上げようとしたその時、暗闇の中から女の声が響いた。
「珠子!」
「あら、遅かったじゃない」
「琴美か?」
「悟……? どうして二人が一緒に……」
「琴美こそ、どうしてこんな所に」
「私は、話しがあるって珠子に呼び出されたから」
「俺も呼び出されて」
二人の視線が、私に向けられる。
「これはいったい、どういうことなの?」
「うふふ……」
私は隣に立つ悟に腕を絡め、見せつけるように琴美に微笑んだ。
「どういうことって、決まってるでしょ。こういうことよ」
「えっ?」
「お、おい」
「ふふ……」
私は薄く笑いながら顔を伏せ、それから悟の後ろに回ると、その背中をドンッ! と押した。
「うわっ」
「あっ」
よろける悟を、琴美が手を差し出して支える。
顔を上げ、戸惑う二人の顔を見較べながら、私は大きく息を吸った。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ!
今日で最後なのよ! これが最後のチャンスなのよ! ここではっきり言わなかったら! もう、一生言えなくなっちゃうんだよ!」
「珠子……」
「おまえ、何を」
「何をじゃないよ! わかってんでしょ! 琴美も、黙って行っちゃうつもりなの?!」
「だって、悟のことはあなたも……」
その言葉に、心臓が止まる思いがした。
まさか、この子も私の気持ちに気付いていたっていうの? だから、内緒のまま自分だけ去ろうとしたっていうの?
そんなの、そんなのっ!
「じゃっ、私は帰るから。後は二人でごゆっくりー」
「おい、珠子!」
「おねがい、待って!」
負けるもんか。
私は激情を飲み込み、聞こえないふりをして二人に背を向けると、引き留めようとする声を無視して歩き出した。
顔を見られないように、後ろ手でバイバイしながら。
さっ、帰ろ帰ろ。
蛙が泣くから
かーえろ……っと。