「失敗をした人間」に対する、現代社会の異常なまでの「冷たさ」の正体に関する考察。
タイトルほど、大した話ではないかもしれない。
これは、一昨日に投稿した『吉沢亮問題に見る、さすがに「過ぎる」ホワイト社会の行方。』という単発エッセイでもらった感想などを眺めていて、頭に浮かんだことを思いつくままに書き記していくものに過ぎない。
「ほんと息苦しい世の中になったもんだな」
俳優の吉沢亮のヘマに対するアサヒビールほかのリアクションを見て、最初に受けた印象をそのまま記事にして投稿。
筆者の投稿にしては、その反響が意外に大きく、少々驚いたが「もらった感想」を眺めていて感じたのは、やはり現代の社会の「息苦しさ」についてである。
奇特にも、わざわざ感想を書き込んでくださった方々の意見を見る限り、今回の件に対する「罪と罰」は、彼らにとっては「適正」といったところなのだろう。
「イメージ商売をしている以上、これくらいのリスクは承知していなければならない。それで高給を得ているのだから当たり前だろ」といった感覚なのかもしれないが、どうしても私が感じてしまうのは、現代社会の「人情味のなさ」である。
無論、吉沢はミステイクを犯したのだから、罰を受けても当然とは言える。
ただ、その罰が「あまりにも重過ぎはしないか」という話を私なりにエッセイでは述べたつもりであった(だからタイトルにも「過ぎる」という文言を挿入した)。
あくまでも、個人としての「私見と感想」程度に過ぎない雑文の投稿。
だが、やはり世間はそうとは捉えてくれないらしい。
―― とまでは言うつもりもない(どっちだよ)。
書き残された感想というのは、わざわざ「私はこう考える!」という意見を書き残してくれる「明確な意思を持った人々」のものであって、それを世間一般の意見とまで「拡大解釈」するつもりもない、といったところか ―― みんなが大好きな「サイレント・マジョリティ」の存在にもつながる話だ。
私は地域柄からか、子供の頃からよく銭湯に通い、今でも初対面の人間とも、昔からの知人であるかのように、平気で会話するタイプの人間である(主にサウナで)。そして地元の銭湯には(最近ではめっきりと見かけなくはなってきたが)その筋のひとたちもチラホラと訪れ、ここでは全く書けないような彼らの「失敗談」なども、数多く聞かされながら育ってきた(もちろん銭湯の外での付き合いなどは一切ないが)。
お互い「名前も知らない関係性」の気楽さからか、何だってその場の冗談として、笑い話として聞き流してきたわけが、彼らとて、それ相応の罰(服役や指詰めほか)を受けてきた経験があり、その時の彼らの「心情の吐露」などにも、学生ながらに同情しないこともなかった(そして、その対比として聞かされる「警察内部の闇」に関する話なども耳にしながら)。
別に私は、彼らをアンチヒーローのようには捉えてもいないが「罪人にもそれなりの言い分はあるもんだな」というのを子供の頃から肌感覚で感じながら育ってきた ―― こういうことを書くだけでも「この人間は叩いてもかまわない人間」と勝手に解釈する「多面的人生経験ゼロ」の幼怪が、我が物顔で跋扈しているのも、現代ネット社会の闇(=病み)の部分ともいえるか。
そんな「私個人の感覚」からすれば、今回の吉沢の件には「なんでこの程度の粗相で、こんなレベルの罰を受けなきゃいけないんだ」となってしまうのが、率直な感想。だから私見としてエッセイにしたわけだが、やはり現在の世の中には「一定数以上の」それすらをも拒絶する人々というものが、どうやら本当に存在するらしい、というのを感想欄にて再確認。
「PV数あたりの感想の数」として考えれば、それはそこまで大きな比率とは言えない(私の投稿への感想欄には「ログイン制限」などもいっさいかけていないので実数にもそう差異はないはずだ)。しかし、そういった「声」すらダイレクトに企業にまで届くようになったのが、現在のネット社会である。
「ひとはなぜ、これほどまでに他人のミスを許せなくなったのか?」
これについて考える時、まず思い浮かぶのは「自分自身が起こす些細なミスすら、やはり社会は許容してはくれまい」という強迫的な潜在意識を持っているひとが、今の社会には増えてきているからなのかもしれない、ということ(自死の多い国にありがちなメンタルのようにも思える話だ)。
私は、だいたいのことに良くも悪くも「鈍感」で、自分自身に対して起こされた、けっこう重大な事故などでも、致命傷にまで行かなければ、だいたいは許すといったタイプの人間である ―― 首の後ろに20kg以上の荷物を上から落とされた時も、ボキボキとは鳴っていたが、そこまで痛さを感じなかったので「ドンマイ」とか言ってしまった記憶がある。しばらくの間、手はしびれたし、あれはどうかしている話ではあったが。
別にそんな私個人のヘンテコな感覚に合わせろ、とまではいうつもりも毛頭ないが、「隣人とちゃんと認識している相手」が、いきなり家の中にいたとして、一瞬ドキリとはしても、会話が通じるようなら「わざわざ警察を呼ぶまでするのか?」というのが、個人的な感覚ではある(女性からすれば怖いだろうし、全く知らない人間が相手なら、それは私も「会話がまったく出来ない」ようなら、警察を呼ぶこともあるかもしれないが)。
……ダメだ。
考えながら書いているから、ダラダラと全く話が締められないな、これ(苦笑)。まあ要するに今回のキーワードは「許容量(度量)」「潔癖」「冷たさ」「他者との距離感」「過度の恐怖心」といったあたりか。
現代は「人間同士が面と向かい、腹を割って話す」といった「接触型コミュニケーション」が、急速に減ってきている時代ともいえる。
その代わりに端末を介したSNS等の「非接触型コミュニケーション」が、若者だけでなく、老人たちの世界にまで、急速に浸食しつつある状況だ。
飲食店の店内などでも、知人同士で来ているはずの面々が、わざわざスマホ越しに、相手の顔もほとんど見ずにコミュニケーションを取っている、といった風景を見かけることも「普通」となってきた。
若者同士などでは「相手の顔色」をまったく気にもせず、話している風景をよく見かけるが、本来踏み込むべきではない距離にまで、その言葉の刃を突き刺し、また刺された側も「もう慣れている」といった具合の反応しか示さないので、傍から見ているこちらの方が、ドキドキとさせられることもしばしばだ(こんなことを言うと「何勝手に見てんだよ、気持ちわるい」とか言われかねないね、ネット警察からは)。
しかし、そんな彼らも心の内では「仕方のないことだ」とは自分自身に言い聞かせながらも、刺された側も、刺した側も、その冷たい痛みの代償として「他の匿名の人々」を刺しに行く ―― 「そんな風景なんじゃないか、これ」というのが、現代のSNSなどで散見する「冷たいコメントたちの本質」なんじゃないかと勝手に邪推(=なんじゃないか教)。
「他者を許す」ということに対する「度量」の社会全体の極小化傾向。
それを煽り、助長しているのは、もちろんSNSやマスメディアなわけだが、その先にはいったい「どのような幸せな社会」が待ち受けているというのだろうか?
他者とある程度はぶつかり合っても、それなりに「気ままに暮らせる社会」と、皆が完璧に息をひそめ、その代わりに誰もが身に危険を感じずに済む「酸素の薄い社会」。どちらがより「大衆にとっての幸福な社会」といえるのだろうか?
―― 別にそんな社会が「本当に安全かどうか」はまた別の話で、実際は「危険のシグナル」すら感じ取れる前に重大事件に巻き込まれるということも、今後はさらに増えて続けていくことになるだろう、間違いなく。事件が起こるまでの背景や「行間」を社会全体で丁寧に消しゴムで消去することによって生まれる致命的な空隙。
他者に否定されながら育ってきた人間は、別の他者をも否定するように育つ。
物事に対し、ほとんど否定的な意見しか持てない人間というのは、いったい何を否定されながら、育ってきたというのだろうか?
これから、さらに非接触型コミュニケーションが主流となっていく未来社会において、これらの社会的問題が解決の方向へと向かう可能性は、残念ながらほぼゼロといえるだろう。それこそAIなどによる脳内の「洗浄と洗脳」でも行わない限りは。
◇
よく殺傷事件などで、相手をナイフで「メッタ刺し」にして殺す犯人がいるが、彼らは何もその凶悪性から、何度も何度もナイフを突き立てるわけではないという。
なぜ何度も突き刺すのかというと、それはその「手応えのなさ」から、一撃だけでは「相手に致命傷を与えられないのではないのか」と何度も何度も執拗に刺してしまうそうだ。
(今回の件とはあまり関係はないが)これってネットなどで「ミスを犯したひとたち」に対し、みんなで突き立てている言葉の刃と「ほとんど同じ構造」をしているではないのだろうか。
「俺ひとりの言葉程度では失敗者は絶対に死にはしない」という無感覚のまま、大勢という夜陰に紛れて刺しまくり、時には実際に刺された側が死ぬ。
それでも「自分の言葉に大した意味(=効果)はなかった」と自分自身に言い聞かせ、また別の失敗するひとを待ちわびて、刺しに行く。
被害者にとっては加害者でも、誹謗中傷を書き込むひとたちにとっての彼らは「いったい何の加害者」だというのだろうか?
被害者に対する共感から、加害者をなじる。
それはごくごく正常な反応とも言えるが、そこに「君ら自身の薄暗い何か」が勝手に上乗せされているという可能性は1ミリもないのだろうか?
被害者に必要以上の共感を示し(実際の被害者の感情とのシンクロ率などには一切留意もせずに)、加害者側の感情とは完全に断絶する。
こういった態度を「第三者でしかない部外者」が勝手に取り、自分とは本来無関係な、自分自身とは何ら利害関係のない他者を、今度は自分たちが「被害者に代わって私刑を加えてあげよう」という景色のありえない美しさ。
そういったものが、今のネット社会では日々散見でき、ほんとうに鬱苦しくて最高な「ホワイト社会」になってきたもんだな、というのが「私個人の感想」か。
「オーバーキル」を行う人々というのは、常に何らかの「被害者意識」を抱えて生きていて、その代償として無意識に「過剰な反応」を起こしてしまう人間なのだろうが「お前ら自身の加害行為」には無自覚でいられる都合のよさって、本当に素敵だな、とも感じてしまう昨今。
所詮はすべて「他人事」であるにも関わらず。
他者を許せない者に、許しなどは与えられない。
人を呪わば、穴二つだ。
この社会の行きつく先に、彼ら自身の望む幸福が待ち構えていることを祈って。
あとがき)いつもどおり、ほとんど読み直さずの投稿なので、巧くまとまっているかどうかは分からん(エッセイとしては過去最長の分量か、これ?)。まあ、これはあくまでも私個人の感覚の話であって、別に他人にまで、この感覚を強要しようとまでは考えていないので、そこまで真剣に捉えていただく必要もない話である。
これは古い人間の、古い価値観から見た景色の話にしか過ぎない。