日常
きみの掌、ぬくもりを感じられればそれでいい。
なにも知らない、愛おしい君へ。
「浩介!」
耳元の大きな怒鳴り声で浅田浩介は目を覚ました。なんてことない、毎日の朝の習慣であったが母親のこの怒鳴り声に一向に慣れないことが浩介は不思議で仕方なかった。
「浩介、いつまで寝てるの」
「あー……おきた」
「もう自分で布団持ってこないと干さないからね!」
ばたん、と勢い良く部屋のドアが閉まる。枕元にある携帯を開くと、思ったとおり着信が一件。これもまた浩介のいつもの朝だ。“金森由貴子”と表示された電話番号に即座にリダイアル。ワンコール、ツーコール、がちゃり。
『もしもし』
聞きなれた声。そして緩む自身の頬。もしもし、と言い返せばあきれたように笑う彼女。もうおきた? と毎朝の決まり文句を聞けば20分後に、と言って電話を切る。ぼやぼやとしていると一階のリビングからまた母親の怒声が聞こえてくる。慌ててワイシャツを羽織って制服のズボンをはく。ネクタイを結びながら階段を下りて、朝ごはんにありつく。浩介は自身が鼻歌を歌っていることすら知らずに、目の前で一緒に朝食をとる妹がにやけていることも知らずに、コップのなかの牛乳を飲み干す。
「いってきまーす」
軽くくちを濯いで、顔を洗って家を飛び出し時間を確認。あと5ふん、と独り言を呟きながら目的地に向かう。ぴったり5ふん走った先に緑の屋根の一軒屋。浩介がそこで足を止めるのと同時に、玄関のドアが開いて結うほどもない髪の毛を揺らした彼女が出てくる。
「おはよう」
声を聞けばそれは電話の主とおなじで。表札には“金森”の二文字。
「おっす」
照れ隠しのように片手を上げて挨拶をする。だらしなくワイシャツがズボンから出ていることも知らずにかしこまる彼を、彼女はなんだか愛おしくて微笑む。その仕草がなんとなく気になる彼も、曖昧に笑ってごまかす。
「ね、今日もだめだったねー」
なんてことない、いつもの会話。こんな雰囲気が好きだなんてじじくさいのかなあ、など浩介が考えているうちにも隣で彼女は微笑む。単純な彼の考えていることなど90パーセントはお見通し。そんな笑顔が憎めない。
「ゆき、昨日の月9のドラマみた?」
「え、なんてやつ?」
「なんだっけ、えっとーほら熱血教師のはなしでさー」
「あー! あっちゃん主演の」
「そーそー!」
ごたごたとまっすぐに歩けない彼女が時々浩介の肩に触れる。そのたびに胸がとくん、といやに音を立てるもんだから、変なところで鈍感なのか気がつかない彼女はへらへらと笑ったままテレビの話を続ける。あーまったく、と声に出さず浩介は頭をがしがしと掻く。切ったばかりで短い髪の毛のさわり心地はよくも悪くもなかった。
「ゆき」
まっすぐに歩けないもんだからしょっちゅう障害物に当たりそうになる彼女を、どこか保護者のように見ている自分がすき。何においても、彼女のほうが一枚上手なもんだからこういうときくらいはなー、と浩介はにやける。それが気に入らないらしい彼女は赤い頬を膨らませて拗ねたようにそっぽを向くんだから、これがまた愛おしい。
「浩介、手つなご」
ほら、また君は不意打ちで。浩介は自分が真っ赤になっていることも知らず、それに彼女が気づいているのも知らず、だまって彼女の左手をすくう。そのまま指を絡ませれば、彼女の細い指は折れてしまわないか心配になってふっと力を緩める。でも、今度は彼女が握り締める。うあ、と声がでる。隣でくすくす、と笑い声。
そんな日常が愛おしいのは、僕も君も、きっと同じ。