先輩
「最低っ」
頬が痛む。
じんじんと、まるで音をたてているかのように、強く。
「……」
なにか、私がしたか。恋をしただけではないか。ただ一生懸命に、一途に恋をした。それだけなのに。
「早く消えてよ!」
こんなにも心無い言葉をぶつけられなくてはならない理由がわからない。頬は痛む。思いっきりグーで殴られた。そんな彼女は右手を押さえながら泣きじゃくっている。きっとそれは痛みだけではない。
「ごめん」
彼女の後ろから、小さく顔を出した彼。聞きなれたはずのハスキーボイスがとても仰々しく聞こえた。
「……もうっ、行くよ」
彼女は半ば無理矢理に彼の腕を掴み、そこから離れて行った。
「……っくしゅ」
くしゃみが出た。笑ってしまう。
恋をした。一生懸命が伝わらなかったのに、なぜ私は泣けないのだろう。彼女は人目もはばからず、あんなに泣きじゃくっていたのに。崩れない、表情に嫌気がさす。
「大丈夫?」
背後から、聞き慣れない声。同時にひやりとした冷たい感覚が赤く腫れた頬に伝わった。
「え」
「やー、派手にやられたね」
苦笑いをしながら、誰かが冷えたペットボトルを私の頬に当てたのだ。
その冷たさが、熱を持った頬に気持ち良い。
「……センパイ」
「あ、俺のことわかるの」
「わかります」
誰かは、喫茶店のバイト先の先輩だった。少し長めに伸ばした髪を掻き分けながら、先輩は呟いた。
「佐伯サン、男見る目ないよ」
にっ、と先輩は笑う。その笑顔についカッとなりペットボトルを片手で振り払った。マヌケな音をたてて、ペットボトルは地面を転がる。
「……あ」
仮にも優しさで、声をかけてくれた先輩にひどいことをした。人通りの多い街中、無惨に振られ、取り残された「彼女側」にせっかく好意で手を貸してくれたのに。それがたとえ、同情だとしても。
「ごめんなさい」
慌てて頭を下げる。ついでに言い訳も述べてみる。
「私、いまちょっと平常心じゃないんで」
逃げる。
頭にはその3文字だけだ。
「ねえ」
先輩は固い表情のまま、私に手を伸ばしてきた。
ヤバいっ。
殴られる……!?
「……よしよし」
しかし、先輩の手は私の意表をついて頭にまっすぐ降りていき、まるで子どもをあやすかのような手つきで私の頭を優しく撫でた。
「……?」
わからない、と言った表情で私は先輩を見る。慎重差のせいで、少し上目づかいになった。
「失恋したんでしょ?」
先輩は優しく、そう私に言った。
その仕草がなんだかとても、本当にとても穏やかだったから、だから、涙がでたんだ。
そう、先輩が少しばかり優しすぎるから。
「……っ」
「器用だね、佐伯サン。声ださないで、泣けるなんて」
頭においてあった、先輩の手が少しずつ下のほうへ降りてくる。大胆な行動なのに、先輩の手はどこか控えめだ。先輩が親指の腹で、私の目元を拭った。
「ね、佐伯サン」
耳元で先輩が呟く。その声がくすぐったくて、私は少し顔を背けた。
「……ない」
「え?」
「私、絶対センパイだけは好きにならない」
だって、先輩はいつだって……いつだって。
「それはそれは」
「……好きに、ならない」
「佐伯サン、男見る目ないよ」
でもね、もう時間の問題かもしれない。
一途な恋だった。
一途な想いを忘れるためだけの、一途な恋だった。
「ほんと、無い」
先輩の顔が近づいてくる。
あ、と思った瞬間私の唇と、先輩のそれが、重なった。
強く、それでいて優しさのある、そんなキスだった。