限界突破と崩壊の始まり
翌朝、鑑太郎が出社すると、通常よりも騒がしかった。社員たちが慌ただしく行き来し、天照部長が緊急会議を開いていた。異変を感じた鑑太郎は、自分のデスクに向かう前に同僚に声をかけた。
「何があったんですか?」と小鳥遊さんに尋ねる鑑太郎。
「図書館の司書さんたちが一斉に倒れたらしいです。過労で」彼女の声は震えていた。彼女の目の下のクマは昨日より濃くなっていた。入社して3ヶ月、最初の輝きは既に陰りを見せ始めていた。
「えっ!?」
鑑太郎は急いで図書館へ向かった。そこでは冥府さんを含む数人の司書が横になり、回復魔法を受けていた。通常なら薬草や魔法薬で対処できる程度の疲労なら、会社の保健室で処置される。しかし、今回は回復魔法師まで呼ばれるほどの重症だった。
回復魔法師は神鑑社の福利厚生部から派遣された「癒やしの神官」と呼ばれる専門家だ。しかし、彼らの数も限られていて、通常は部長クラス以上しか利用できない特権だった。それが一般社員である司書たちのために派遣されたということは、相当深刻な状況なのだろう。
「冥府さん、大丈夫ですか?」
冥府さんは弱々しく目を開けた。彼女の顔色は土のように青白かった。血の気がまったくなかった。
「神野くん……無理だよ、もう。3日間徹夜で、本の整理と検索対応をしてたら、突然視界が……」
「無茶しすぎですよ!」
「だって依頼が減らないから……しかも最近、誤情報を渡してしまうことが増えてて……」彼女の目から涙が溢れた。「先週なんて、『一般的な治癒薬』と『猛毒』を取り違えて……幸い使用前に気づいたみたいだけど、もし飲まれてたら……」
冥府さんの言葉に、鑑太郎は胸が痛んだ。先日も「鉄の剣(Cランク)」を「伝説の聖剣」と誤って伝えてしまうミスがあったと聞いていた。当然、クレーム対応に追われることになった。しかし「猛毒」の誤情報は命に関わる。もはやミスの領域を超えていた。
「もう限界なのよ」冥府さんは囁くように言った。「私たち、本当はもっと正確な情報を提供したいのに……時間がなくて、睡眠不足で、ミスが増えて……こんなのいつか取り返しのつかないことになる」
「何とかしますよ」鑑太郎は冥府さんの手を握った。「昨日、極秘プロジェクトが始まったんです。図書館のデジタル化を……」
冥府さんの目が少し輝いた。「本当?でも全知様は……」
「天照部長が動いてくれています。何とかしますから、まずは休んでください」
そのとき、天照部長が図書館に入ってきた。彼の表情は硬く、目には決意が宿っていた。
「神野、ちょうどよかった。お前に頼みたいことがある」
「何でしょうか?」
「実は図書館のデジタル化プロジェクトだが、予定を前倒しすることにした。このままでは司書たちが全滅する。お前にプロジェクトリーダーになってほしい」
鑑太郎は驚いた。昨日の密会で決まった極秘プロジェクトを今すぐ始めるという。「僕がですか?でも通常業務は?上層部の了承は?」
天照部長は周囲を見回し、声を潜めた。「全知様には『司書たちの健康管理のための特別対策』として報告済みだ。詳細は伝えていないがな。鑑定依頼は一時的に対応を縮小する。重要なものだけに絞って処理し、他は保留にする」
これは前代未聞の決断だった。神鑑社が設立されて以来、鑑定依頼を保留にしたことはなかった。それほどまでに事態は切迫していた。
「わかりました、やります」
鑑太郎はその日から図書館デジタル化プロジェクトに着手した。まずは最もよく調べる項目から電子化し、検索システムを構築する計画だ。小鳥遊さんをはじめとする数人のチームメンバーと共に、彼は昼夜を問わず働いた。
プロジェクトチームには、普段は表に出てこない「神鑑社技術部」の面々も参加した。彼らは普段、魔法の通信システムやオフィスの魔術装置の保守を担当している縁の下の力持ちだった。リーダーの稲荷神さんは、小柄な女性だが、神鑑社の魔術技術について誰よりも詳しかった。
「神野さん、こっちの方が効率いいですよ」と稲荷神さんが提案した。彼女は複雑な魔法陣を描きながら説明する。「この『記憶転写』の術式を使えば、本の内容を直接結晶に保存できます。手書きでデータ入力するより100倍速いです」
「すごい!でもなぜ今まで使われてなかったんですか?」
「提案はしてたんですけどね」稲荷神さんは苦笑いした。「『伝統を守れ』って却下されてました。でも今回は緊急事態だから……」
彼女の言葉に、神鑑社の体質が表れていた。古いやり方に固執し、新しい技術を受け入れない。それが彼らを苦しめていたのだ。
しかし一方で、保留された鑑定依頼は山のように積み上がっていった。天井から降ってくる紙は、もはや机の上に収まらず、部屋の隅に積み上げられるようになった。廊下にまで溢れ出し、時には社員の頭上に降り注ぐこともあった。
「これ、いつか処理するんですか?」と小鳥遊さんが不安そうに聞いた。
「システムが完成すれば、一気に処理できるはずだ」と鑑太郎は彼女を安心させようとしたが、実際には自分自身も不安だった。
1週間後、最初の成果が出た。最も頻繁に調べられる「一般的な武器・防具」のデータベースが完成したのだ。システム開発部の須佐之男さんが開発した検索魔法と組み合わせることで、瞬時に情報を引き出せるようになった。
「これで武器の鑑定なら、図書館に行かなくても即座に結果が出せます!」と鑑太郎は興奮して報告した。プロジェクトチームの面々も誇らしげな表情を浮かべていた。
天照部長も満足げに頷いた。「よくやった。これを他の分野にも広げていけ」
その日から、武器・防具関連の鑑定はシステムを使って処理されるようになった。通常10分以上かかっていた作業が、わずか10秒で完了するようになったのだ。社員たちの間に小さな希望が芽生えた。
しかし、その矢先に問題が発生した。異世界から最初のクレームが届いたのだ。これらのクレームは金色ではなく、赤い紙で配達された。緊急性が高いという意味だった。
「最近、鑑定スキルの反応が遅い。もっと早く結果を出せ」
「鑑定結果が来ない。どうなっているんだ」
「前より情報量が少ない。詳細な鑑定結果を要求する」
「3日前に依頼した鑑定がまだ返ってこない。これは詐欺か?」
クレームは日に日に増えていった。依頼の保留が長引くにつれ、異世界の住人たちの不満も高まっていたのだ。
「もっと早くシステムを完成させないと」鑑太郎はチームを急かした。既にみんな限界まで働いていたが、それでも足りなかった。
そして、ついに最悪の事態が起きた。
ある王国で、勇者が未知のダンジョンに挑む際、重要なアイテムの鑑定を依頼したが、返答が遅れたため、正体不明のまま使用。結果、そのアイテムは呪われており、勇者は石化してしまったのだ。王国からの怒りの通告が、真っ赤な炎を纏った紙で届いた。
全知神は激怒した。彼は神鑑社全社員を大広間に集め、滅多にない公開説教を行った。
「これはどういうことだ!?神鑑社の不手際で勇者が石化するとは!我々の存在意義は異世界の人々を守ることではなかったのか!?」全知神の光は眩しすぎて、誰も直視できないほどだった。
天照部長は平謝りだった。「申し訳ありません。システム移行中で、重要度の判断を誤りました」
「システム移行だと?誰の許可で?」
天照部長は一瞬躊躇したが、すぐに腹をくくったように答えた。「私の判断です。司書たちが健康上の問題で…」
「健康?それより重要なのは我々の使命だ!司書が倒れたら新しい司書を雇えばいい!」全知神は怒りに震えていた。「すぐに通常業務に戻れ!デジタル化など後回しだ!」
その場にいた社員全員が震え上がった。特に、今まさに倒れかけていた司書たちにとって、これは死刑宣告に等しかった。
「しかし全知様」鑑太郎は思わず口を挟んだ。「このままでは同じミスが繰り返されます。石化した勇者も、システムがあれば救えたはずです!」
全知神の光が鑑太郎に集中した。「また君か、神野。前回の無礼は見逃したが、今回は…」
「全知様」天照部長が割って入った。「責任は全て私にあります。神野は私の指示に従っただけです」
全知神は両者を交互に見つめた後、最終的な判断を下した。「天照、君は一ヶ月の謹慎処分だ。神野、君は異世界転送部へ配属する」
オフィス中がどよめいた。異世界転送部は事実上の左遷、いや、追放に近かった。実際の異世界に潜入し、危険な調査を行う部署だ。
「システム移行は中止だ。全ての社員は直ちに通常業務に戻れ。積み上がった依頼は今日中に全て処理しろ!」
全知神の命令は絶対だった。彼が消えると同時に、社員たちは黙々と持ち場に戻り始めた。
鑑太郎は茫然自失の状態だった。一瞬前まで希望に満ちていたプロジェクトは、一言で葬り去られた。しかも自分は明日から異世界転送部という危険な部署に飛ばされる。
「神野…」天照部長が近づいてきた。「すまない。君を巻き込んでしまった」
「いえ、私も同意してやったことです」鑑太郎は力なく答えた。
「異世界転送部は確かに危険だが、悪いことばかりじゃない」天照は小声で言った。「むしろチャンスかもしれない。実際の異世界を見てくれば、神鑑社の問題点がもっと見えてくる。いつか、必ず改革の時は来る」
「でも、それまでに…」
「大丈夫、私はあきらめていない。謹慎が明けたら、また動く。君も生き延びて戻ってきてくれ」
鑑太郎たちはプロジェクトの中断を余儀なくされた。結局、彼らは山積みになった依頼の処理に戻ることになった。しかし、一度は希望を見た社員たちの士気は下がっていた。
その夜は全社員が残業となった。誰も帰れない。廊下や会議室まで紙が積み上がり、社員たちは疲労困憊の表情で依頼を処理し続けた。
冥府さんは再び倒れたが、もはや回復魔法師も呼ばれなかった。彼女は保健室のベッドで横になりながらも、手元の依頼書に回答し続けていた。彼女の手は震え、字は乱れていた。
「こんなのおかしい」と小鳥遊さんが呟いた。「私たちは機械じゃない…」
しかし、その声は積み上がる紙の山に吸い込まれ、消えていった。
鑑太郎はデスクに向かいながら、明日からの異世界転送部での生活を想像した。実際の異世界で、鑑定スキルを使う人々の姿を見ることになる。彼らは神鑑社の苦労を知っているのだろうか?彼らにとって、鑑定スキルとは何なのだろうか?
そんな思いを抱きながら、彼は目の前の依頼書を開いた。
「この水は飲めますか?」
何度目かわからない同じ質問に、鑑太郎は小さくため息をついた。