神の領域のブラック企業
読みやすくするため、改行を行いました。
「鑑定結果:この水は飲用可能です。純度98%。微量のミネラルを含みます。毒素なし。魔法的汚染なし。おそらく山の湧き水由来。推定pH値6.8」
鑑定スキルさん(本名・神野鑑太郎)は溜息をつきながら、目の前の紙に細かい回答を書き込んだ。山積みになった鑑定依頼の中で、これが今日50件目の「水の鑑定」だった。彼は腱鞘炎気味の右手首をさすりながら、指でパチンと紙を弾くと、紙は青白い光に包まれて消えていった。
「また水の鑑定か……まったく、奴らは自分で匂いも確かめないのか。舐めてみりゃ大体わかるだろうに」
彼の机の上には次々と降ってくる紙が山積みになっていた。それぞれが異世界からの鑑定依頼だ。一枚一枚は軽いが、その量は決して軽くない。鑑太郎の肩にのしかかる重圧は、日に日に増していた。雪崩の予兆のように、紙の山は少しずつ崩れかけていた。
ここは「異世界鑑定スキル運営会社」。通称「神鑑社」。五階建ての重厚な石造りのビルは、いつも忙しい足音と、ため息と、時々聞こえる嗚咽で満ちていた。異世界の住人たちが「鑑定スキル」を使うたびに、その依頼が舞い込む神々の領域にある会社だ。
当初は画期的なアイデアだった。異世界の住人たちに「鑑定スキル」という便利な能力を与え、危険な物や状況を事前に察知できるようにする。神々の領域からの親切心だった。しかし今では、その「親切心」が社員たちの首を絞める鎖となっていた。
鑑太郎が入社した5年前は、鑑定依頼の数も適度で、昼休みもゆっくり取れた。しかし異世界での「鑑定スキル」の普及率が爆発的に増加し、今では休む間もなく依頼が降ってくる。入社当時は「神の領域で働ける光栄」と思っていたが、今では「神に見捨てられた」と感じることも少なくなかった。
「神野くん、この剣の依頼急いでくれる?」
先輩社員の天川さんが新たな依頼書を持ってきた。彼女は入社10年目のベテランだが、目の下のクマは年々濃くなっていた。かつては華やかだったという彼女の金髪も、今は乾いた麦わらのように輝きを失っていた。
「今朝から300件くらいこなしてるんですけど……」鑑太郎は疲れた目で抗議したが、天川さんも同じように疲労困憊の表情だった。
「わかってるよ。でもこれ、ロマニア王国の第三王子からの依頼でさ。上からの指示で最優先だって。貴族からの依頼は即日対応、昇進に響くから」彼女は諦めたように肩をすくめた。
鑑太郎は渋々依頼書を受け取った。重要人物からの依頼は別扱い。神鑑社の七不思議の一つに「なぜ貴族の依頼だけ特別扱いなのか」があったが、誰も本気で疑問に思わなくなっていた。
「この剣の強さを鑑定してください」
たったそれだけの依頼内容。しかし「強さ」とは何を意味するのか。攻撃力?耐久性?魔法適性?どれを調べればいいのか、まったく明記されていない。仕方なく全項目調査することになる。鑑太郎は何度も思った。「せめて聞きたいことを明確にしてくれ」と。しかし、依頼主と直接コミュニケーションを取る手段はない。システムがそうなっていなかった。
「また図書館行きか……」
鑑太郎は立ち上がり、肩をそびやかす感覚に一瞬めまいを覚えた。午前中からろくに水も飲んでいなかった。彼はデスクの引き出しからエナジードリンクを取り出し、一気に飲み干した。これが今日3本目だった。
神鑑社のビルの奥には巨大な図書館があった。「神の図書館」と呼ばれるこの場所には、あらゆる物品、生物、概念についての情報が収められている。天井まで届く本棚が何百列と並び、はしごに乗って上の方の本を取るのも、社員たちの日常業務だった。残念ながら、検索システムはなく、全て手作業で探さなければならない。神の領域にしては、あまりにも原始的なシステムだった。
図書館司書の冥府さんは、いつも以上に険しい表情でカウンターに座っていた。彼女の黒髪は乱れ、目は充血していた。死神のような名前と裏腹に、彼女は元々穏やかで親切な性格だった。しかし、過酷な労働条件で、最近はまるで本当の死神のように不機嫌になっていた。
「また来たの?今日だけで何回目?」冥府さんの声には疲労が滲んでいた。
「すみません、王族からの依頼で……」鑑太郎は申し訳なさそうに言った。
「はいはい、どうせそうでしょ。で、何の鑑定?」
「『輝きの剣』という名の剣です。総合的な強さを……」
冥府さんは深く溜息をついた。「わかった、ちょっと待ってて」彼女はゆっくりと立ち上がり、奥の書架へと消えていった。
鑑太郎はカウンターで待ちながら、これが彼女の今日何回目の検索リクエストなのか考えた。図書館司書たちの労働条件は神鑑社の中でも特に過酷だった。彼らは膨大な量の書物の中から必要な情報を探し出し、時には古代語の翻訳までしなければならない。そして近年、異世界での鑑定スキル普及に伴い、図書館司書たちの過労死や燃え尽き症候群が増加していた。
15分後、冥府さんは埃まみれの古書を持って戻ってきた。彼女の髪には蜘蛛の巣がついていた。
「はい、『輝きの剣』の項。攻撃力B+、耐久性A、魔法伝導性C、希少度B……あとは自分で読んで」彼女は大きな本を鑑太郎の前に置いた。
「ありがとうございます。いつも助かります」
冥府さんは苦笑いを浮かべた。「まあね。でも最近ミスが増えてるの。先週なんか、『鉄の剣』を『伝説の聖剣』と間違えて情報提供しちゃって。大クレームになったのよ」
「そんなことが……大変でしたね」
「うん。結局私が謝罪文を書いて、『情報更新が遅れていました』ってことにした。でも本当は単純に疲れてて、本を取り違えただけ。こんなのいつか大問題になるわよ」
鑑太郎は必要な情報を素早くメモし、図書館を後にした。こうして一つの依頼完了まで、約25分。これが「迅速対応」の貴族案件だ。残りの依頼は……机の上を見れば、既に新たな紙が30枚以上積み上がっていた。今日も終電間際まで残業確定だ。
「これじゃあ終わらない……」
鑑太郎のため息は、天井から舞い降りる新しい依頼書の音にかき消された。
「神野さん、お疲れ様です!」
明るい声が聞こえ、鑑太郎が振り向くと、新入社員の小鳥遊さんが笑顔で立っていた。入社3ヶ月目の彼女は、まだ仕事に希望を見出している数少ない社員の一人だった。
「今日も頑張ってますね。私、こないだ考えたんですよ。もし鑑定依頼をカテゴリ別に分類するシステムがあれば、もっと効率的に処理できるんじゃないかって」
小鳥遊さんの目は輝いていた。鑑太郎は自分も入社当時はそうだったことを思い出し、複雑な気持ちになった。
「それ、いいアイデアだよ。でも……」
「でも?」
「実装する時間がないんだ。それに上層部は現状維持が好きだから」
小鳥遊さんの表情が少し曇った。「そうなんですね……」
「でも諦めちゃダメだよ。その熱意、大事にして」鑑太郎は精一杯の笑顔を浮かべた。
彼女が去った後、鑑太郎は王子の剣の鑑定結果を記入し始めた。「鑑定結果:『輝きの剣』は攻撃力B+、耐久性A、魔法伝導性C、希少度B……」
記入しながら、彼は考えた。もし神鑑社にもっと効率的なシステムがあれば。もし依頼をカテゴリ分けして、専門チームが対応すれば。もし自動回答システムがあれば。
だが、そんな妄想をしている間にも、彼の机の上には依頼書が積み上がり続けていた。