キャンバス上にはない百合
美術室の窓の外の、校舎から張り出した庇の上の、安全な場所で鳩たちが午睡を楽しんでいる。
彼らの頭上の晴れ空も、綿雲が無邪気に踊り疲れて眠る子どものように、三々五々横たわっていた。
イーゼルも用意せず、机上で方眼ノートにスケッチをしている。
教室には私、ただひとり分の物音だけが響いている。
コンビニの前のヤングのように所構わず座り込む、そこの鳩や雲を見ているわけではない。
脳裏に浮かべているのは、ひとりの少女だ。
同い年の。
隣のクラスの。
ただそれだけの接点しか、私と彼女にはない。
会話もしたことがない、ただ廊下ですれ違うだけの関係だ。
そんな彼女を、退屈な授業中にこそこそと、あるいは今みたいに昼休みの美術室で、あるいは帰宅して自室の机上で、描いている私は自分でも変わり者だと思う。
彼女の輪郭を、世界と彼女を隔てる繊細な糸を、ただただ紡ぎたい。
絵を描くことは、昔から、薄ぼんやりとロウソクが灯るように常に心中にあった。
それが、高校生になった春、彼女の輪郭を最初に目にしたとき、線香花火の激しさに変わった。
私の原動力がより具体的に、鮮明な輪郭を得たのだ。
彼女の苗字は知らないが、ユズノと呼ばれているのを目撃したことがある。
私の創作の対象は、ユズノさんの手だったり、後ろ姿だったり、横顔だったり、つまり正面を除くほとんど全てだった。
絵を誰にも見られたくないので、カモフラージュのために、授業で使うものと同じノートに、彼女の人生の一瞬の断片を切り取り続けている。
正直、自分が知らない人に自分を、こんなにいっぱい描かれるなんて、彼女の立場になって想像すると、気持ち悪いし、そう考えると止めたくなる。
でも、とり憑かれたように、今日も鉛筆を滑らしている。
自分と自分が一致していないみたいな行動だ。
こんなにどうしようもなく心惹かれてしまった理由を探したいから、なのかもしれないし、その点では一致していると言える。
ユズノさんの小さな手は、大理石を慎重に削りだして磨き上げたように、きめ細かい滑らかな肌に覆われている。
甲の静脈が奥まっているのか、あまりごつごつしていない。
短く整えられた爪は、宝石の代わりにペンダントに嵌め込んでも見劣りしない妖艶な光沢を放っている。
校則違反だが、桜色の、悪目立ちしないマニキュアをしているようで、いつ見ても美しいので、そうとう入念に手入れしていることが窺える。
幼児みたいに瑞々しい肌と、成熟した大人の蠱惑的な色香が漂う爪との対照が、綱渡りのごとく、ピンと張り詰めた緊張感を持った、不安定ゆえの少女性を語っているように感じる。
その魅力的な手指を自在に操る腕は、ミロのヴィーナスに切り繋いでもきっと馴染むはず。
手首の、尺骨と橈骨の起伏は、生命の陰影を生み出していて、思わずハッと息を呑む、得体の知れない感情を誘う。
そろそろ、カーディガンやブレザーを着る季節がやってくるので、それまでに、彼女が半袖シャツで過ごしているうちに、しっかり脳に焼き付けておきたい。
全く無駄な脂肪のついていない、細い二の腕。
ひじ周辺の、チャーミングなほくろの正確な位置まで。
薄い夏服にすっぽり包まれた、本当に華奢な肩は、どちらかといえば、いかり肩に近いのに、それなのに本当に華奢!
だからブレザーでも、撫で肩の格好悪さが無く、それでいて、抱き締めたくなるくらい儚げ、私の理想がそのまま具現化したかのよう。
思い浮かべながら、右手がご機嫌なワルツを踊って、どんどん鉛筆の芯が減っていく。
尖らせたり、丸めたり、薄いのと、濃いのと。
筆箱には、黒だけで十種類くらいの鉛筆が行儀良く待機している。
口角がぐいいっと上がっていることに気が付いて、頬を揉む。
興が乗ると、悪魔みたいな笑みを浮かべてしまう癖がある。
マスクをしているとはいえ、絵を描きながらひとりで笑う女は怖いし、どちらかといえばクールな表情の画家になりたいから、意識しなくてはならない。
ユズノさんの、クールな表情。
けだるげ、もの憂げではなく、アンニュイといったほうが、正確な気がする。
目線は下に向きがち。
長いまつげはキュートな曲線を描いて、夢見心地だ。
カンペキな眉は、重めの前髪から僅かに垣間見える。
その前髪は、目にかかるくらいの位置で、ぱっつん切り揃えられている。
眼窩の陰影から、スラリと整った鼻、薄い唇、そして繊細な顎にかけての輪郭は、もはや言葉にならない。
二重まぶたは、半分ほどの開度で、それがアンニュイの理由なのかもしれない。
若干吊り目で、眼球も大きいからか、半目でも眠そうだとか、疲れ目だとか、そんな風に見えないのだろう。
その瞳にもまた、心が鷲掴みにされる。
きっと彼女と真正面から向かい合って、その双眸をぱっちり開いて見つめられたなら、私は吸い込まれてしまうだろう、限りない闇を内包する小宇宙さながらだ。
その外延は、狂おしい、愛おしい、いたいけな、焦げ付くような、眼差し。
ユズノさんのそれを受け取るのは、よく一緒にいるのを見かける、背の高い、日焼けした女子生徒だ。
たぶん、陸上部なのだろう、いかにもスポーティーで、爽やかな制汗剤を纏っている彼女は、ユズノさんの友だちなのだろうが、何か引っかかるところがある。
鰯の蒲焼きを食べたとき、よく噛んだはずなのに、小骨が喉のどこかに刺さるような、刺さっていないような、曖昧で不気味な、何か。
……いや、彼女のことは、保留しよう。
ユズノさんを、脳内に呼び戻す。
見事なサラサラのセミロングヘアに隠れて、耳の形状を知ることができない。
ピアスホールがあるのか、ないのか。
福耳なのか、上部が尖っているのか、三日月形か、満月形か。
頭蓋骨の側面にぴたりと貼り付いているようなのか。
大きく外に張り出しているのだろうか。
どのように窪んでいるのだろうか。
美術的価値のある頭部を支える首の、冴えた白さは、石膏で型を取ってみたくなる。
彼女の首を模倣して作った花瓶は、きっと、どんな陶芸家も白目を剥いて気絶する、曲線と曲線の絶妙な絡み合い、バッハのフーガの精密さに近い、驚きに満ちている。
「柚乃だよね、それ」
彼女のスマートで、エレガントな、おとがいから喉にかけての輪郭は……え?
「え?」
私はバネが弾け飛ぶように、仰け反って、顔を上げた。子兎のように。
あるいは、臆病者のスズメのように。
「柚乃にしか見えない、なんで」
背の高い、浅黒い日焼け肌、高い位置でくくったポニーテール。
制汗剤。
ああ、見覚えのある容姿。
ユズノさんの友だちの、あのひとが、唐突に、私の前に現れて、すうと見下ろしている。
見られた!見られた!見られた!
なんで?
いつから?
全く物音たてず、忍び寄ったのか?
あるいは、私が没頭していて、気付かないでいたのか?油断していたのか?
いや、今はそのどちらかを考える必要はない。
彼女の発言、意図を探らねばなるまい。
落ち着け、落ち着け。
突沸したような心臓を宥めるように、鉛筆を手に取ったまま、胸をおさえた。
おずおずと、再び彼女を見上げる。
表情がほとんど抜け落ちていて、空虚にも見える。
彼女の輪郭がぼやけて、まばたきをした。
冷や汗が、目に入ったのだ。
「……」
「……」
パイプオルガンの最低音のように重い沈黙が横たわっている。
ユズノさんにしか見えない、とは、個人的特徴をよく捉えていて、つまりはよく描けていると、ほめているのだろうか?
自分のおめでたい頭を殴りたくて、そのかわりに、身震いとともに、頭をゆすった。
少なくとも彼女は、私に良い感情を持っていないことは、愚かな私でも、わかる。
「ど、どうして、あなたが、ここに」
ダメだ、推理小説が原作のドラマの、クライマックスシーンの犯人のようなセリフが、思わず口からこぼれ落ちてしまった。
これでは、絵の少女がユズノさんだと認めたようなものだし、違うと言い張る道を、自ら放棄したも同然、もはやどう取り繕っていいか分からない。
職員室の前に置かれた水槽の金魚のように、無意味に口をパクパクさせていることに、遅れて自覚した。
ポニーテールを、ふと揺らした彼女は、一瞬だけ、鋭い切れ長の目に逡巡を浮かべたが、すぐに怒りなのか好奇なのか判別つかない奇妙な色に変わった。
「そうだね、最近、視線が気になってね、校内でもそうだったから、警戒していたんだ」
しまった。
自分がそんなに、ストーカー紛いの目線を飛ばしていたなんて、消えてなくなりたい。
創作家の、好奇心の奴隷たる宿命を呪った。
「君は隣のクラスの生徒だよね」
刺股を持って、追い詰めるような、淡々とした声が、美術室にこだまする。
「柚乃は、かわいいからね、ふふ、気持ちは分からなくもない。しかし困ったものだ」
彼女の大きな手が愛おしそうに、絵のユズノさんを撫でて、急に柔らかい歌うような声になったのには驚いた。
私はその緩急に振り回されながらも、長い時間潜っていた鯨のように、束の間の息継ぎをすることが、許された気がした。
「柚乃を見ることも描くことも、やめてもらえないかな?」
譲歩の色が一切ない、ただ絶対的な命令形だった。
私の内側では、それでも創作欲とユズノさんに対する感情が渦巻いていたから、黙ってうつむくしかできなかった。
その私の意識の隙間を狙いすましたように、大きな手の彼女が、私のノートを奪った。
「か、返して!」
自分でも驚くくらい、美術室の空気中がヒステリックに響いた。
「手をはなしてくれないかな」
身長が、自分より頭一つぶん以上高い彼女に、取っ組み合って勝てるわけはないのに、がむしゃらに取り返そうと試みた。
二人が握って、ノートが折れ曲がりそうになって、彼女は血相を変えて、とんでもない力で私を突き放した。
「絵だとはいえ、柚乃を傷つけるのは、ワタシは許さない」
ギョッとする、海の底から突き上げたような冷ややかな声に気圧されて、一歩後ずさりしてしまった理由が、悔しさなのか羨望なのか分からないまま、全身から見当違いの勇気をかき集めて、猪突猛進するしかなかった。
私が強く引っ張って、彼女の夏服のブラウスのボタンが外れた。
しかし、彼女はそれには意に介さず、私を制圧した。
私は解剖を待つ動物のように、さっきまで絵を描いていた机上に、磔にされてしまった。
「穏便に済ませたい、どうか諦めてくれないか」
分かっている。
ストーカー紛いの行動をとった証拠は既に彼女の手中にあるし、言いふらしたりして、私を制裁することは、彼女にとって容易いことなのだろう。
私は喪失感でいっぱいだったから、バラバラになった欠片を拾い集めるのと同じ感情で、質問した。
「耳……ユズノさんの耳って、ピアスホールはあいてるんですか、答えてくれたらもう諦めますから」
彼女は困惑したが、私のほうが困惑していた。
何を言っているのか自分でも分からなかった。
彼女はカサついた唇を三日月形に歪めて、それから、あいている、と声に出さずに、答えた。
チャイムが鳴って、私たちは弛緩した。
私が渋々と了承を顔に浮かべたのを、見た彼女は奪ったノートをひらひらさせながら、去っていく。
「ワタシのいうことを聞いてくれてありがとう、くれぐれも、柚乃に近付かないで。」
片手でボタンをとめながら、高い位置のポニーテールを颯爽と翻して、足早に去っていく。
心の線香花火が、ぽつんと落ちた。
授業中の机上か、美術室の机上か、自宅の机上か、どこに落ちたか分からない。
キャンバスの上ではないことだけは、分かった。
ああ、きっと、彼女は、ノートを処分するだろう。
私のような赤の他人が、ユズノさんの輪郭を切り取ったことを、彼女は許さないだろう、手に取るような実感があった。
『絵だとはいえ、柚乃を傷つけるのは、ワタシは許さない』
シュレッダーにはかけないだろう。
燃やす。
ユズノさんでいっぱいのノートを。
燃やして、煙を吸って、煤を水に溶かして、飲む。
きっと、そうする。
そうすれば、永遠に、己のものにしてしまえるからだ。
手に取るような実感があった。
次の線香花火を得た私は、ぎらついた眼差しを彼女の背中に向けながら、スプートニクの恋人の、内耳の骨の話を思い出していた。
そして、取っ組み合い中に盗み見た、彼女の左耳のピアスホールみたいなほくろを思い浮かべながら、教室に戻った。
あなたたちが育む花を、私は活けてやる。
たおやかな茎を、手に取るような実感が、あった。