プロローグ
僕の両親は昨年、交通事故で他界してしまった。
今は叔母さんの家でお世話になっているが、来年高校を卒業したら一人暮らしを始めるつもりでいる。
頭が良い訳でも勉強が好きな訳でもないので、就職をしようと考えているのだ。
♪・・・♪・・・♪。
『帰る頃になると哀しい音色になるんだな』
河原でハーモニカを吹いていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
周りを見渡しても人影はなく、幻聴かと思った。
『私も野暮用が多くてね、君のハーモニカの音色にはいつも心を癒されているんだよ』
さらにはっきりと声が聞こえた。
「誰ですか?」
堤防を歩いている人はいるが、話し掛けて来ているような人はいない。
『君達人間が、神様と呼んでいる存在かな』
信じられない事だが、声は聞こえているのではなく直接脳に届いているようだ。
「神様ですか?」
『信じられないかもしれないが、神様と言う仕事をしている生命体なんだよ』
どんなに周りも見渡しても話し掛けて来ている人はなく、耳を澄ませば川の流れる音が聞こえるだけだった。
「僕に何か御用でしょうか?」
不可思議な現象だが、恐怖を抱くような声ではなかった。
『ハーモニカの演奏を聞かせて貰っている礼にご馳走をしたいのだが、今度の日曜日に時間はあるかね』
「はい。大丈夫です」
突然の事に驚きを隠せなかったが、断る理由はなかった。
『そうか。では迎えに来るから、お昼の十二時頃ここに来てくれたまえ。明日も演奏を楽しみにしているよ』
謎の声はそれっきり聞こえなくなった。
♪・・・♪・・・♪。
「おい、純一。また一人でハーモニカを吹いているのか。進学しない奴は気楽でいいよな」
昼休みの屋上に従兄弟が悪友二人とやってきた。
「雅史」
叔母さんの目の届かない所ではよくいじめられているが、特に今日は機嫌が悪そうだ。昨日の三者面談で、先生から何か言われたのだろう。
「居候のくせに、主を呼び捨てにするとは何だ。俺にもハーモニカを貸してくれよ」
雅史が意地悪い笑みを浮かべている。
「これは父さんの大事な形見だから嫌だよ」
「ちょっとで良いから貸せよ!」
雅史は悪友に僕を押さえさせると、ハーモニカを奪い取った。
「返せよ」
「このハーモニカ、女がウットリするほど良い音が出るんだろ。二組の時田真紀が素敵だと言ってたぞ」
雅史がハーモニカを吹くと、ブブッ、ブブッとオナラのような音が出るだけだった。
「なんだよ雅史、ハーモニカも吹けないのかよ」
悪友の一人が腹を抱えて笑っている。
「じゃ、お前吹いてみろよ」
雅史はハーモニカを放り投げた。
「返せよ」
僕は暴れたが力が無くて、羽交い締めから抜け出せなかった。
「俺の名演奏に惚れるなよ」
粋がって吹いた悪友だったが、オナラのような音が出ただけだった。
「これ、壊れているんじゃないか」
悪友がハーモニカを投げ捨てると、三人は笑いながら屋上からいなくなった。
♪・ ・♪・ ・♪。
泣きながら拾ったハーモニカをハンカチで拭き、吹いてみると一部の音が出なくなっていた。
大事な形見を壊されて怒りは湧き上がるが、中学生時代に柔道をしていた従兄弟に敵う筈がなく、コンプレックスを溜め込んでいくしかなかった。
日曜日に河原に出掛けよとしたら、庭で素振りをしていた雅史に声を掛けられた。
「遊びに行くのか? 受験をしない奴は本当に呑気で良いよな。行くなら、ハーモニカを置いていけよ」
雅史は僕をいじめる事で、受験勉強で溜まったストレスを発散させているようだ。
「嫌だよ」
「居候のくせに生意気だぞ!」
「何するんだよ、放せよ!」
むなぐらを掴まれて足掻くが力の差は歴然としていて、ポケットに入れていたハーモニカを奪われてしまった。
「悔しかった、取り返してみろよ」
「返せよ」
必死で向かって行ったが敵わなかった。
「こんな物を後生大事しているから、いつまでも強くなれないんだよ。俺が負け犬根性を叩き直してやるぜ」
雅史は地面に放り投げたハーモニカを、バットで叩こうとした。
「止めろ!」
ハーモニカを拾おうとした僕は、右腕をバットで殴られて転げ回った。
「雅史君、塾に行く前にお外でお昼を食べますから、早くしなさい」
家の中から叔母さんの声がしているが、苦痛で呻く僕は助けを呼ぶ事も出来なかった。
「すぐに行くよ。負け犬は残飯でも漁ってきな」
「くそぉ!」
従兄弟に殺意のようなものを抱く僕は、二度とこの家には帰ってこないと決意して河原に向かった。
僕は神様が現れるのを信じて待っていた。
腕の骨にヒビが入っているのか、痛みは治まらず指の感覚がなくなってきている。
川上の橋の上で中学生ぐらいの男子が三人、小さな段ボール箱を持って騒いでいるのが見えた。
「キャン。キャン」
段ボール箱が川に投げ込まれた時、子犬の鳴き声が聞こえたような気がした。
「まさか」
流されている箱からは、たしかに必死の鳴き声が聞こえている。
僕は流れに向かって走った。水深は流れの中心でも膝より少し深いだけだったし、泳げない訳でもないので助ける自信はあった。
箱を拾い上げた瞬間右腕に激痛が走り蹲ると、箱と一緒に流されるはめになってしまった。
水を何度も飲み死を予感したが、箱を手放す事は出来なかった。
「無茶をするなぁ」
気がつくと傍らに、Tシャツにジーンズと言ったラフな格好のおじさんが立っていた。
「助けて下さったのですか、ありがとうございます。子犬は?」
「あそこにおる」
箱の中にはずぶ濡れの子犬が震えている。
「ここは何処なのでしょうか?」
立ち上がると豪華な部屋の床に水が滴り落ちた。
「私の住まいだよ。先日招待すると約束したではないか」
「か、神様ですか?」
「仲間からはアースと呼ばれている。先ずはその服を乾かさないとな」
おじさんが驚いている僕に右手をかざすと、温かい風に包まれて下着まで嘘のように乾いてしまった。
「ありがとうございます」
信じられない行為に礼を言うしか言葉がなかった。真っ白な子犬も乾かして貰って喜んでいる。
「右腕も治しておいたが、不都合はないかな?」
「ええっ。はい。大丈夫です」
バットで殴られた右腕の痛みが消え、自由に動かせるようになっている。
「本当に神様なのですね」
「何だ、疑っていたのか。人間が思い描いている神とは少し違うがな」
気さくな神様はニコニコと笑っている。
「早速食事にしようではないか。その後でハーモニカを聞かせてくれないか」
「喜んでと言いたいのですが、ハーモニカが壊れていましてお聞かせ出来ないのです」
「壊れたのなら直せば良いではないか?」
「ハーモニカを直せる職人さんを知りませんよ」
「なら、私が直そう。見せてみなさい」
神様は差し出したハーモニカを手にすると、ひと撫でして返して下さった。
♪・・・♪・・・♪。
「ありがとうございます」
吹いて見ると綺麗な音が出た。
「これで演奏を聞かせてくれるな」
「はい、喜んで!」
僕は不思議な力を使うおじさんに抱きつきたい衝動に駆られたが、何とか自制心が働いたようだ。
テーブルに並んだ肉、魚、野菜、どの料理も見た事のないも物ばかりだった。
「知り合いが呼んであるんだが、同席をしても構わないかね?」
「もちろんですよ」
十人分以上あると思われる料理には訳があったのだ。
「許可が出たぞ」
神様が声を掛けると、誰も居なかった椅子に男女三人の姿が現れた。
「久し振りの食事会、楽しみにしていたのよ」
部屋着のようなラフな格好したお姉さん二人が、驚いている僕を見てニコやかに微笑んでいる。
「可愛い坊やだが、今回は誰が預かるんだ」
一人だけ神官のような服装をしている壮年の男性が、値踏みするように僕を見ている。
「待て、待て。まだ何も話していないんだ。純一君が驚いているじゃないか」
「儂は仕事を抜けてきたんだ、あまり時間はないぞ」
「だったら帰っていいわよ。私達のどちらかが預かるから」
「あの、この人達は?」
「私とは違う世界を管理している神だ、紹介しようよ。右からコスモ、マーシャル、ディフラントだ」
「神様でしかた、失礼しました」
「気にする事はないさ」
ディフラントさんと紹介された壮年の男性は大きな口を開けて笑いながら、テーブルの料理に手を伸ばして食べ始めている。
「皆さん自由なのですね」
誰もが自分の家に居るように振舞っている。
「遠慮する事はないわよ。君も早く食べなさい」
グラマーで活発そうなお姉さん、マーシャルさんも串に刺さった焼肉に手を伸ばしている。
コスモさんは黙って僕をニコニコ顔で見詰めている。
「はい、頂きます」
どれもこれも美味しくて手が止まらなかった。
「純一君は今の自分に満足しているかね?」
テーブルの食べ物が残り少なくなってきた時、神様が突然聞いてきた。
「と、仰いますと?」
「ハーモニカを聞いていると、君の心の内が分かるんだよ。時々消えてなくなりたいと考えているだろ」
「それは……」
食事の手が止まってしまった。頭が良い訳でもないし体力がある訳でもない自分が、この先を生き抜いて行くのに不安を抱えているのは確かだった。
「君のハーモニカ演奏がこのまま消えてしまうのは忍びないと思って、今日の食事会に誘ったんだ」
「僕程度でしたら誰でも吹けますよ」
「そうかな。三人にも聞かせてやってくれないか?」
「構いませんよ。何を吹きましょうか?」
「河原でよく吹いている、古城の月を頼めるかね」
「分かりました」
♪・・・♪・・・♪。
神様に直して貰ったハーモニカを吹き始めた。楽しい席に似合わない曲だが、好きな曲なので心を込めて演奏した。
♪・・・♪・・・♪。
子犬がハーモニカに合わせて、「クゥー、クゥー」と小さく鳴いているのが耳に届いた。
「すみません。折角の食事会を台無しにしてしまいました」
三分ほどの演奏を終わると、部屋は静まり返っていた。
「お願い、もう一度聞かせて」
コスモさんが涙声になっている。
「明るい曲も吹けますよ」
「今のが、良いわ」
何故かマーシャルさんからもアンコールがきた。
♪・・・♪・・・♪。
僕が[古城の月]を吹き始めると、ディフラントさんに抱かれた子犬がまた鳴き出した。
♪・・・♪・・・♪。
「お前も寂しいのか。彼は儂が預かるから、お前は彼を守るんだぞ」
ディフラントさんが子犬に話し掛けているようだが、会話ははっきとは聞こえなかった。
♪・・・♪・・・♪。
演奏を終えると、盛大な拍手も貰って気恥ずかしくなった。
「どうだった?」
「手助けをするに値すると思うわ」
マーシャルさんの言葉にコスモさんとディフラントさんが頷いている。
「意見が一致したようで嬉しいよ。では、誰が預かってくれるかな」
「あの~。どう言う事なのでしょうか?」
「すまない、君の意見を聞くのが一番だったな。素晴らしい演奏で少し舞い上がってしまったようだ。君は誰の下で修業がしたいかね」
神様が一気にまくし立ててきた
「仰っている意味が分かりませんが」
「君が強く生きていけるように、君の精神と肉体を鍛えて上げようと思ったのだがお節介だったかな?」
「僕の精神と肉体ですか?」
「今のままでは、社会に出ても辛い思いをするだけだとは思わないかね」
「かも知れませんが、それが僕の運命ではないのでしょうか?」
「その運命を自分の力で変えてみないかね。いつもハーモニカを聞かせて貰っている礼に、少しだけ力を貸したいと思っているんだ」
「運命を変えるなんて可能なのですか?」
神様の言葉に夢を見ているような気分になった。
「努力次第さ。三人の誰かの世界に行って、自分を鍛えればどんな事でも可能になるさ」
「三人の神様の世界って、どの様な世界なのですか?」
「私の世界は科学が進んだ世界で、私の所にくればノーベル賞も夢ではない人間になれるわよ」
「コスモ神様の所ではどのような修業をするのですか?」
「科学力を身につけて、宇宙人と戦うのよ」
「科学力ですか?」
(最も苦手な分野だが、頭が良くなれば人生は成功するだろうな)
最近の日本人のノーベル賞受賞ラッシュが頭をよぎった。
「私の所にくれば、世界一の格闘家になれるわよ」
「マーシャル神様の所ではどのような修業を?」
「肉体を鍛え、あらゆる格闘技を覚えるのよ」
「格闘技ですか?」
自分の貧弱な体に触れてみたが、鍛えて強くなれる自信はまったく湧いてこなかった。
「儂の所は魔物が住む弱肉強食の世界だ。精神も肉体も鍛えられる上に、生き抜く知恵が養えるぞ」
「生き抜く知恵ですか?」
もっとも必要なのかもしれないが、弱肉強食の世界では一日も生きていられないような気がする。
「どうだ、誰かの世界で十年間修業してみないか? 君に新しい世界が開けると思うがなぁ」
「十年もですか!」
「なに、地球時間にすれば一時間ほどだから、今日の夕方には日本に帰れるよ」
「は、はい?」
狐につままれた気分になった。
「僕の事を思って下さるのはありがたいのですが、どの世界も無理なような気がします」
宇宙戦争、格闘技、異世界、テレビゲームとしては楽しめるが、自分が身を置くには危険過ぎる世界だ。
先ほどから、子犬が足元に纏わりついて離れようとしない。
「たしかに。どの世界へ行ってもそこで精神や肉体が壊れたら帰ってきても壊れたままだからな、恐れるのも無理はないわな」
「そうなのですが、でしたら何処にも行きませんよ」
後出しじゃんけんのような言葉に恐怖が走った。
「今回も無駄足だったか。仕事があるから帰るぞ」
「私もそろそろ帰ろうかな」
「私も帰るわ」
「ちょっと待ってくれ。彼のハーモニカをもっと聞きたいとは思わないか?」
「何時までも聞いていたいとは思うけど、彼の意志が弱すぎるわ」
三人の中では一番格上だと思われるマーシャル神様の言葉に、コスモ神様とディフラント神様が頷いている。
「純一君は今のままでいいのかい? 帰れば虐められる日々が待っているだけだし、君が命懸けで助けたその子犬とも別れなければならないだろ」
「そうですが……」
足元で「クゥ、クゥ」鳴いている子犬に目を落とすと、気持ちが揺らいでしまう。居候の身では犬を飼う事は無理だろう。
「儂の所なら、のんびり田舎暮らしもまったく不可能と言う訳ではないぞ。そこで働き方やお金の儲け方を身につけるのも良いかもしれんな」
「でも、魔物が出るんでしょ」
まだ両親が生きていた頃にやっていた、RPGの死にゲーを思い出して体が震えた。
「この子犬に君を守る力を与えてやるから、一緒に来てみないか。それにハーモニカを聞かせて貰った礼に、一度だけ死んだらここに戻れるように取り計らってやろう」
「それって依怙贔屓じゃないの」
マーシャル神様からクレームが入った。
「十年の修業が終わったら、四人で彼のハーモニカを聞こうじゃないか」
「どうするかね、純一君。後は君の決心次第なんだがね」
アース神様が優しい顔で聞いてきた。
お座りをした子犬が、尻尾を一生懸命に振っている。
「本当に死んでもここに戻してくれますね」
「神は嘘は言わないよ。だたし自ら死を選んだ場合は、その限りではないから肝に銘じておくように」
「分かりました。頑張ってみます」
両親が死んでから後ろ向きにしか生きてこられなかったが、子犬を抱き上げた時に前を向いて歩き出せるような気がした。
「そう言う事で、今回は儂が預かる。異存はないな」
「今回はディフラントに譲るわ」
「アース、ご馳走になった。行くぞ」
「はい」
ディフラント神様に手を取られると、僕と子犬は眩しい光に包まれた。