序章
私にとって、それは、目を閉じれば思い出せる瞬間だった。
陽射しの中で、うまく見えない、彼の顔。
眩しくて、眩くて、泣きたくなる。
「...!」
随分昔の、友達との会話履歴を探しただけだった。
なのに、不意に彼の名前を見てしまった。
少し躊躇って、そして、タップした。
文字が甦ったのは、当時の感情の波、そして返事をもらった時の心境。
急に、胸元がぎゅっと痛くなった。
久しぶりの、息が苦しくなる感じ。
今でも、君を思うと、呼吸を忘れるのか?
それとも、君のために、呼吸をし続けてきたのか?
諦めないことは、愚かさの継続。
多分その時の私はただ、現実から目を逸らしただけ。
全てに、君の心に、向き合うことを怖がっていた。
多分、自分の心にも、怖がっていた。
あの日、忘れないあの日、心が砕いた音を聞こえた。
多分、私が倒れたその瞬間ですでにひびが入っていたが、君がそれを少し縫い合わせただけのかもしれない。
初恋でもない、初めての恋人でもない。
私の一生の恋を物語に書こうとしたら、君は何の前提もない人。
ただ急に現れて、急に救ってくれて、急に傷付いてくれた。
君は、急に現れ、そして急に消えた。
笑って向き合うはずだった。
恋に傷付かれたった、心も壊されたった、なのにどうして懲りないのだろう?
本気で、君に恋をした。
この心は旅館のように、誰かが住んだり、離れたり、そして誰も私のために残してくれない。
一番早くここから出た君は、一番深い傷跡を残した。
もしこれが定めだと言うのなら、もしこれは私に成長させるために訪れたと言うのなら、私はこの出会いに感謝すべきなのだろうか。
すべきかもしれないが、痛すぎる。
それじゃまるで、私を泣かさせなければならないという、鎖を君につけたみたい。
この果てのない涙を、君に見せたかった。
しかしそれは君に苦しめるから、平気そうに笑うようにした。
今の君はどこにいて、誰を思って、どんな夢を見てるのだろう。
夜になれば、目を閉じれば、何度も繰り返す質問。
私はここで、君を思って、君が微笑む夢を見てる。
それは現実になった夢、私の心を切り裂いた夢。
微笑んでる君は常にそこにいた。
しかし私は、気付けばそこから逃げていた。
怖いんだよ。
どんどんどんどん、君という沼に落ちることが怖い。
どんどんどんどん、君を好きになったことが怖い。
好きと愛は、どう分別すればいいのだろう。
好きは、何も問わず求める、理性を捨ててもの追随。
そしてきっと、何かを問っても求めてしまう、理性を持っても追随するのが、愛だろう。
私は君に、どんな感情を持ってるのだろう。
自分の全てを天秤に置いて、比べてみれば、きっと命と理想が一番になると思った。
しかし、それは思っただけだ。
死ぬかどうかもわからない時、私は君を心配していた。
理想が叶えるかどうかもわからない時、私は君を思っていた。
何回目の思考でも、何回目の悩みでも、君がいた。
それだけの頻繁で、繰り返して、廻り廻って、飽きていなかった。
三年たった。
覚えてる?
君と出会って、三年たった。
一年たった。
覚えてる?
心が痛むあの日から、一年たった。
覚えていないよね?
だって君は、私の誕生日も、私の理想も、覚えていなかった。
なのに私は、君の誕生日も、君の理想も、忘れたりしなかった。
恋においては、報われることを求めてはいけない、報われるために動いてはいけない。
しかし、自己犠牲は、恋の一番正しい方程式ではない。
君に考えすぎた、努力しすぎた私は、ただのバレリーナ、ワルツを踊っていなかった。
誰も、一緒にぐるぐる、廻ってくれなかった。
ワルツでは、男女交代でリードして、フォロして、そして完璧な進む道を刻む。
しかし私は、白鳥の湖の黒鳥、オディール。
一人ぼっちで、ぐるぐる廻る。
例え観客全員が拍手してくれても、この手のひらに君の温度がなかった。
この雨雲を吹き飛ばそうか。
この心の扉を少し開けようか。
ここは君の別荘じゃない。君じゃなきゃダメでもない。
しかし今頃の私は、君にどんな感情を抱いているのだろう。
好きでも、愛でもない。
悔しいでもないし、怖いでもない。
恨みでもないし、憧れでもない。
君は永遠だ。
永遠にここに住んでる人。
たまに頭の中に現れて、この心は一度砕いたから、大事しろと言ってくれる。
そして私は青空だ。
雨に打たれてる人々が望む青空。
鏡にいる私、その微笑んでる私は、一人ぼっちでこっそり泣くしかないと、私に言う。
永昼。
それは永遠の昼。
永遠に太陽に照らされる大地。
永遠に人の前では泣かない決意。
真夜中で、一人で泣けばいい。
たまには君のために、一人で心を痛めばいい。
君に抱いてるこの感情を示す言葉は、これしかないだろう。
「晴れ」
晴れた青空のように、人を照らすべき私は、涙に溺れてる雨の日になってしまった。
君と出会うあの日に、晴れ。
君と別れるあの日に、雨が降る。
雨上がりのあと、私は君に出会った。
しかし晴れ渡ったあとは、常に雨だった。