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櫓山荘での句会を巡って

小倉と戸畑の境に、小さな山があります。そこに、昔、しゃれた家がありました。「櫓山荘」と言います。

そこで、大正11年3月、句会がありました。という、お話です。

M:これからは、この車で御案内します。小さいけれども、狭くるしいことは、ないでしょう?

S:十分です、十分です。

M:昔はね、オフロードなんかも走ったりしたことがありますけどね、この年になると、もう、そんなこと、する元気もありません。買い物と病院通いなら、こんなのでいいと思っています。軽なら、御案内の時も、小回りが利きますからね。

ちょっと、エンジン音が耳ざわりかもしれませんが、辛抱して下さい。タクシーよりは、キメこまかく御案内出来ると思いますので。

S:ウチも、軽なので、かえって、気が楽になります。

M:それは、よかった。………ほら、ここ、小さな川があったでしょう?

板櫃川(いたびつがわ)っていう川です。

大和朝廷が全国を統一しようとした時、九州の豪族たちが反抗して、この川をはさんで、決戦をしたんですよ。もちろん、ローカルが負けて、統一王朝ができたんですけどね。

……この頭の上、高速道路なんですよ。信号がないから、速いと言えば速いんですが、速度制限は、60キロ。それ以上出すと、速度違反になるんです。私は、それでやられたことはないですが、覆面パトカーが取り締まりで、路肩に車を止めているのは、何度も見たことがあります。

ここで、駐車場に入ります。

「櫓山荘跡」って、書いてありますよねえ。「ろざんそう」と読むんですけど、「ろ」の字は、「やぐら」という意味なんで、昔、この、小さな山は、「やぐらやま」と言われていたんじゃないでしょうか。小高い地形を利用して、物見櫓を作っていたんだと思います。

ちょうど、この辺り、豊前の国と、筑前の国の境目で、そんなものがあったのじゃないでしょうか。

今は、海岸線が、ずっと遠くなってしまいましたが、この山のすぐ下まで、昔は海で、階段降りたら、海水浴というくらいだったそうですよ。だから、景色もよくて、金持ちが別荘を建てていたというのも、わかると言えば、わかるでしょう?

もともと、大阪で、かなり大掛かりな工事で、エライ金を儲けていた男の息子が、ここに別荘を建てたんですよ。

八幡製鉄関連の仕事でも、あったのでしょうかねえ。

その若い金持ちの若奥さんが、橋本多佳子。

S:お名前、聞いたこと、あります。

M:でしょうね。私の年で、それに近い感覚しか、ありませんからね。

旦那が、作家などの文化人とも付き合いのある人で、ある時、高濱虚子がここへ来たことがあるんです。せっかく見えたのだから、と、ここで句会を開いたんです。その句会に杉田久女も参加していて、橋本多佳子は、その時、初めて、久女に会いました。それがキッカケになって、久女に、俳句の手ほどきを受けたんです。

ほら、これ。建物があった所を、赤レンガで示しているんですよ。

木造3階建。ステンドグラスや、暖炉もある、しゃれた洋館!

こんなところで、新婚さんが9年も、暮らしていたんですよ。シアワセの絶頂期だった感じかなあ、家庭的には。子どもは、女の子4人、次々生まれました。旦那は、わりと早く死にましたからねえ。

話を元に戻しましょうか。

その句会は、大正11年3月だったそうですが、まだ寒くって、暖炉を燃やしていたそうです。

生け花の椿がポトンと落ちたので、新妻らしさ一杯の多佳子が、スッとつまんで、ポイと暖炉に投げ込んだんですね。映画の一シーンみたいでしょ。それを見ていた虚子が、その場で俳句にしました。


「落椿 投げて暖炉の火の上に」


有名ですよ、この句。高校の教科書にも載っていましたよ。

読んだ時は、東京の金持ちの家が舞台だ、とばかり思っていました。あにはからんや、地元の、こんなところで、詠まれた句だったとは!

多佳子さんも、自分のしたことが、そのまま、偉い人の俳句に詠まれたので、さぞ、びっくりしたことでしょう。

新妻、多佳子が俳句に興味を持ち始めたのを見て、旦那が、「久女さんに教えてもらったら」と言います。

杉田久女の個人レッスンが始まります。俳句だけじゃなく、毛筆、刺繍なども。

そして、この先生、めちゃ熱心だから、旦那が帰って来ても、レッスンをやめないことがある。

そういう師弟関係だったそうです。

橋本多佳子も、美人だけじやありません。頭もいい。久女の教えを、どんどん吸収して行く。

昭和20年代の女流俳句を代表するような大物になるんですよ。


それを記念して、ここに、二人の代表作を刻んだ句碑があります。久女の句は、英彦山で詠まれたものと言われています。


(こだま)して 山時鳥(やまほととぎす) ほしいまま」


橋本多佳子の句は、この櫓山荘のすぐ下の、海水浴ができていた浜辺で、詠まれたものです。


「乳母車 夏の怒濤に よこむきに」


ああ、もうひとつ、付け加えたいことがあります。竹下しづの女という人、聞いたことありませんか?

高校の教科書に、時々、載っていることもあるんですがねえ。ここから、わりと近い、行橋の人で、

この人も、この句会に参加していたのだそうです。

俳句愛好者にとっては、まさに、エポックメーキングな句会だったと思われる出来事なんですよ。

それが、ここで、あったんです!


ここから近いんで、ちょっと、九州工業大学の正門を見に行きましょうか。車の中から見るだけでもいいと思います。

先生は、地学が好きとおっしゃってましたよね。

S:はい。教科としては、理科ですから、科学全般に興味はある方なんですけど、理科の教員としては、文学散歩とか、結構好きな方かな、とも思っています。

M:私は、国語の教員でしたけど、そのわりには、科学的な本を読んだりするの、大好きな方で、そうすると、2人の興味を持つところ、真ん中あたりで、オーバーラップするところが、あるかもしれませんねえ。

Fスケールを作った藤田哲也、御存じでしょう?

S:はい、知っています。確か、北九州出身でしたよね?

M:そうです、そうです。

さっき、板櫃川がありましたよね。あの近くの丘の上に、小倉高校という、ここらでは、まあ名門校といわれる高校があります。もとは、小倉中学と言ってましたが、藤田哲也さんも、そこ出身です。

家が貧しくて、進学できない状況だったんですが、頭がいいのに、勉強の機会を無くすのは、もったいないと、校長が頼んで、戸畑の明治専門学校の先生の助手の仕事を見つけて、学問の世界に つなぎとめてくれたんですよ。地形図を作ったりするのがうまい先生で、そこで仕込まれた腕が、気象学を始めてからも、とても役に立ったそうです。地元の人は、「メイセン、メイセン」と、略して言っていましたが、そこが、今から行く、九州工業大学になったんです。

もう、すぐです。

着きました。ここです。


今は、立派な国立大学です。就職率も、100%近い名門校ですよ。

もともとは、安川第五郎という人がこしらえた、私立の学校でした。

安川家は、石炭を掘って、売るというところから、出発したんです。炭鉱の中には、水が湧きます。

水をくみ出すためには、モーターがいります。外に注文を出すより、自前で、作りたい。修繕もしたい。

技術者を育てるのも、自前でやろう。メイセンは、それで出来たんです。

だから、正門に胸像を置いてあるのです。


写真、とりますか?


藤田哲也は、ここで、ものを正確に見る、正確にスケッチするということを鍛えられて、長崎の原爆の被害状況、背振山の積乱雲発生状況などを調べます。背振山のことを論文に書いたら、シカゴ大学の教授が、「私が、数百万ドルかけてわかったことを、この男は、タダで見つけている」と言って、その頭脳を呼び寄せたということです。

タツマキの研究から、Fスケールを生み出し、ダウンバースト、線状降雨帯などについても、論文を書いています。

ノーベル賞に、気象学部門があつたら、間違いなく、もらっていただろう、とか言われながら、まだ、記念館もありません。やっと、小倉南区の図書館に、「記念室」が出来たばかりです。





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