踊る幽霊
「 “ 踊る幽霊 ” 、ですか?」
「そう。仕事に支障が出ているから、退治してくれという依頼が来てな」
そう言うと、僕の雇い主である三十路男は、不審者面を歪めてニヤリとした。彼の名は、曽根崎慎司。表向きはオカルト専門のフリーライターを名乗っているが、裏ではこうして警察では扱いかねる事件を引き受けて解決しているという、なんとも不気味な男である。
まあ、一方で生活能力が皆無であるという欠点はあるのだが。そんな彼に雇われたしがない大学生である僕――竹田景清には、幽霊なんて関係の無い話である。曽根崎さんの好物である味噌汁の入ったお椀を机に置きながら、僕は適当に話を合わせた。
「仕事にならない、ということは、どこかの仕事場に出るんですか?」
「その通り。舞台は病院、幽霊は大体夜の二時から三時頃に現れ、看護師に目撃されている。毎晩出るわけではないが、かといってタイミングに法則性があるようでもない」
「幽霊らしいっちゃ幽霊らしいですね。それ、害は無いんですか?」
曽根崎さんは味噌汁を一気飲みすると、空になったお椀を僕に突きつけた。……おかわり要請である。口で言えよと思ったが、開いた唇からは先ほどの僕の質問の答えが返ってきた。
「害かどうかは分からないが、因果関係は一つあるよ」
「因果関係?」
「うん」
濃いクマを引いた曽根崎さんの鋭い目が、僕を見る。
「――幽霊が踊った部屋では、必ず人が死ぬ」
死という強い言葉に、ドキリとした。夜より深い黒の瞳に呑まれそうになるが、頭を振って正論を口にする。
「いや、だって場所は病院でしょ。そりゃ人が亡くなることもあるんじゃないですか?」
「勿論。ただ、 “ 必ず ” その現象が起きていれば、真偽はともかく気にはなるだろ?」
「それはそうですが……」
「幽霊が人を死に誘っているのか、もしくは死に臨む人が幽霊を呼んでしまうのか。どちらかは、調べてみるまで分からないな」
いずれにしても、恐ろしい仮説である。思わず一歩後ずさった僕に、曽根崎さんは片膝をついて身を乗り出した。
「で、君はついてくるか?」
「そんな怖い場所、誰が行きますか」
「一晩二万円」
「……もう一声」
「二万五千」
「三万」
「決まりだな。景清君、今回もサポートよろしく頼むよ」
しまった、ついノッてしまった。
後悔したが、もはや何もかもが遅い。いや、そもそも相性が悪過ぎるのだ。なんでも金で解決する曽根崎さんと、なんでも金で釣られる僕とでは。
自己嫌悪にため息をつく僕の前で、未だお椀がおかわりの催促に揺れていたのであった。
依頼先は、地元でも名の知れた大病院だった。そこの院長に挨拶をし、まずは捜査の許可をもらう。きっちり着込んだスーツに、だらしないもじゃもじゃ頭というアンバランスな出で立ちの曽根崎さんを見ても、院長は平然としていた。きっと、事前に話が通っていたのだろう。
まず僕らは、幽霊を見たという看護師長に話を聞いた。
「ほんと、私も驚いたんです」
すっかり話し慣れているのか、彼女は詰まることなく教えてくれた。だが、その目にはどこか暗い影が落ちているように見えた。
「夜勤で部屋の見回りに行ってた時なんですけど、ある病室の前に人影があったんです。小さかったものだから、最初は子供かと思いました。でも、よく見たら、人間の子供にしてはやたら腕が長くて……その腕を二本とも上にあげて、ゆらゆら踊るように、それは体を横に揺らしていました」
――あれは、この世のものではない。そう直感した看護師は、慌ててナースステーションに戻ったという。事情を話し、別のスタッフと二人で恐る恐るそこに行ってみた所……。
「……もう、誰もいませんでした」
痕跡など、あろうはずもない。防犯カメラにも、当然何も残ってはいなかった。
「念の為、その病室の中を確認してみたんです。そうしたら、容体が急変した患者さんが……」
「……亡くなっていたというわけですか」
「はい。……あの時に私が、幽霊を押しのけてでも部屋を確認していれば、まだ間に合ったのかもしれませんが……」
「終わった事を嘆いても仕方ありません。その後も幽霊は出たのでしょう? 貴女ではない、別の人間も同じものを見た」
「は、はい」
「そして同じ行動を取り、同じ結末を迎えた」
「ええ。……といっても、私を含めて三人しかいませんが」
「偶然にしては十分多い人数です。良かったら、その二人からもお話をお聞かせ願えませんか」
いっそ冷淡とも言えるほどに淡々と話を進める曽根崎さんの隣で、僕はメモを取っていた手をふと止めた。とある邪な考えが、頭をかすめたのだ。
――もしもこの幽霊騒ぎが、彼女らが起こしてしまった過失を隠蔽するための芝居だとしたら、どうだろう。
だが目の前の看護師長は、心の底から今回の事件を憂い、恐怖しているように見えた。もっとも、院長が彼女の過失を疑っているならば、曽根崎さんに連絡など無いはずである。
だとしたら、やはり “ 踊る幽霊 ” の話は本当なのだろうか。
……嫌だなぁ。
「どうした景清君。顔色が悪いぞ」
一通り話を聞き終えた曽根崎さんと僕は、休憩がてら外の自販機前に来ていた。冷たい炭酸入りのオレンジジュースを差し出しながら、もじゃもじゃ頭は僕の顔を覗き込んでくる。
いただきますとお礼を言い、汗をかいた缶ジュースを受け取った。
「……あんな話を聞いた後では、気分も悪くなりますよ。むしろよく平気でいられますね、アンタ」
「まぁ、長いことやってたらそれなりに慣れるもんだよ。早く君もこの高みまで来るといい」
「そこへ行くことのメリットが見当たらねぇ。……でも、今回の相手っていわゆる幽霊なんですよね。僕、そういうの見たことないんですが、問題なく対応できるんでしょうか」
「んー」
曽根崎さんは、熱々のおしるこに口をつけながら考える。
……やっぱりダメだと言ってくれないだろうか。幽霊が見えないことには始まらないと、僕を追い返してほしい。金だけ渡して。
僕の思惑など露ほども気づかない曽根崎さんは、おしるこから口を離し、言った。
「……それを言うなら、私も霊感に自信は無い」
おい、詰んでるぞ。
顔をしかめる僕に、彼は取り繕うように片手を振る。
「イケるイケる。見てもらいたいと思っている幽霊なら、私らにも姿を見せてくれるはずだからな」
「相手は幽霊ですよ。そんな露出魔みたいな認識でいいんですか」
「幽霊は元人間だろ? 露出魔も人間だろ? ホラ繋がった」
「繋がらねぇわ。いや、どちらにしろ会いたくないって点は一緒かな……」
アホみたいな会話に、少し肩の力が抜ける。ようやく飲んだオレンジジュースは、すっかりぬるくなってしまっていた。
曽根崎さんはスッと立ち上がると、僕を振り返る。
「さ、一度帰って寝てくるといい。今晩は私らも夜勤だからな。0時にここにまた集合だ。ああ、道中は危ないからちゃんとタクシーを使うんだぞ?」
「分かりました。領収書をもらっておきます」
「はいはい、経費で落としてやるよ」
ちゃっかりした僕の発言にも、手馴れたものである。僕はそんな彼の背中を見ながら、言い知れぬ不安ごとジュースを飲み下したのだった。
そして、約束の0時である。
深夜の病院に、長身のスーツの男。絵にはなるが、なんとなく不吉な組み合わせだ。
「すいません、遅くなりましたか」
「いいや、私も今来たところだ」
曽根崎さんに駆け寄ると、彼は少し怒ったような顔をした。多分、微笑みたかったのだと思う。
彼は、とある事情から時々感情表現がうまく出せないのだ。
「行こう。既に何人かがあちこちで張ってくれている」
「それって、幽霊が出現しそうな場所に目星をつけているということですか?」
「その通り。幽霊側も、そこそこ死にそうな人間を選んで現れるようでな」
「なるほど。理解はしましたが、もう少し言葉は選びましょうよ」
僕と曽根崎さんが見張る廊下は、いつ亡くなってもおかしくないという患者さんが眠る病室がある所だった。
夜の廊下はシンと冷たく、何の音もしない。
物陰に身を潜めながら、僕は曽根崎さんに問いかける。
「……こういう要注意の患者さんって、センサーみたいなのはついてたりしないんですか?」
「ついていたし、ちゃんと作動もしたらしい。だが、どのケースも間に合わなかったということだ。看護師長なんぞは、むしろセンサーの反応よりも早く到着したそうだぞ」
「むごい話ですね」
「これが幽霊の仕業かどうかは分からんがな。前も言ったが、幽霊が人を殺すのか、死人が幽霊を呼ぶのかは確認するまで判断できない」
うずくまる僕は、彼の言葉に自分の服を握りしめた。
……事前に聞いた曽根崎さんの策通り動けば、きっと曽根崎さんの言う真偽は分かるだろう。しかしそれは、幽霊と出会うことが前提条件である。
――幽霊と、出会うことが。
「……」
黙ってしまった僕に、オッサンはからかうように言った。
「君、怖いのか」
「だだだだだ誰が怖いか!」
「静かにしろ。患者が起きるぞ」
「むしろ怖がってるのは曽根崎さんじゃないんですか。僕をこんな所まで連れてきて」
「顔のいい君がいるとな、私一人で来るより人の対応がスムーズなんだよ」
「だからイメチェンしろって言ってるだろ!」
間の抜けたやり取りをしていると、多少恐怖も収まってきたようだ。ふぅ、と息を吐き、曽根崎さんを見上げる。あれこれ整えれば今より多少見られる姿にはなるだろうに、この男は面倒だからという理由でそれをやらない。勿体ないな、というお節介心はあったが、まあ口に出すほどでもなかった。
それから、どれほど時間が過ぎただろうか。交わす言葉は二言三言で、すぐに尽きてしまう。時折姿勢を変えながら、二人で来るかも分からない幽霊を待っていた。
もう今日は来ないんじゃないだろうか。
そんな期待が僕の中で渦巻き始めた、その時である。
突然、廊下を見つめていた曽根崎さんの鋭い目が大きく開いた。僕の肩を強く握り、小声で短く囁く。
「――来た」
その言葉に、僕はビクリとした。乱れそうになる呼吸を無理矢理整え、ゆっくりと廊下を覗く。
思わず、息が止まる。
ソレは、確かに、そこにいた。
大きさは、僕の身長の半分も無いのではなかろうか。全裸で腹が不自然に突き出ているその姿は、以前地獄絵図で見た餓鬼そのもののようだ。身の丈ほどの長さのあるボコボコとした腕は天に伸ばされ、ユラユラと楽しげに左右に揺れている。
――しかしその頭は全く動かず、例の重篤患者がいる病室に、じっと向けられていた。
咄嗟に僕は、悲鳴を上げないよう両手で口を覆った。
――これは、マズい。ダメだ。見てはいけない。この世のものではない。あんなものが存在していいはずがない。
汗が吹き出る。喉が乾く。全身を這い巡るような怖気と本能的な直感が、アレには手を出さず今すぐ逃げろと叫んでいた。
「……では景清君、分かってるな」
だが曽根崎さんは、病室の前で踊るソレから目を離さずに、口角を上げて言った。……その表情になるということは、彼も怖いのだろう。僕の肩を掴んだ手は、震えていた。
やはり、やらねばならないのか。ああ、そうだよな。そうしないと、また死人が出るかもしれないんだもんな。
僕は、敢えて曽根崎さんの恐怖に気づかないふりをし、頷いた。
「ええ。お願いします」
「うん」
音も無く、曽根崎さんは腰をあげる。そして、蜘蛛のような長い足を動かして、廊下の中ほどまで進んだ。
長身の男は背筋を伸ばし、声を上げる。
「――君、そこで何をしてるんだ」
沈黙。
しかし次の瞬間、曽根崎さんは幽霊がいる方向とは逆に向かって、全速力で走り出した。
前もって話していた通りだ。
声をかけて幽霊が消えれば、その場にいる。
幽霊が逃げれば、追いかける。
つまり、曽根崎さんが逃げているということは――。
あまりの恐怖に、僕は頭を抱えて物陰に縮こまった。
怖い。恐ろしい。アレはきっと曽根崎さんを追いかけてきている。害を為そうとしている。僕も逃げるべきか。いや、今からでは間に合わない。
一人分の足音はどんどん遠ざかる。体が勝手に震える。冷たい手で自分の髪の毛を掴む。目を固くつぶり、歯が鳴らぬよう奥歯を噛み締めた。
気づくな、気づくな、気づくな。
――質量の無い何かが、僕の横を通った気がした。
「……」
目を開ける。知らぬ間に止めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
そして立ち上がり、先ほどまで幽霊がいた場所を見る。
そこには、誰もいなかった。
「……行かないと」
僕は、痺れる足を引きずって病室へと向かった。
これもあらかじめ決めていたことだ。曽根崎さんが幽霊を引きつけている間に、僕が病室の患者の容体を確かめる。そこで、幽霊が死を呼ぶモノか、死に呼ばれるモノか、ハッキリさせるのだ。
ドアに手をかけ、開ける。部屋の奥で一人横たわる患者の元に、音を殺して近づいた。
物々しい機器に囲まれ繋がれたその人を見下ろす。……心電図に異常は無い。呼吸も、とても静かではあるが、ちゃんと胸の辺りが上下していた。
よかった、生きている。
僕は、ホッと胸をなでおろした。
ともあれ、これからも無事のままだとは限らない。一応、看護師長に連絡を入れておいた方がいいだろう。曽根崎さんの事は心配だが、とてつもなく足が速い人だから、きっと上手く逃げおおせているに違いない。なんだかんだでしぶといし。
そんなことを思いながら、病室を出ようと振り返った時だった。
部屋の中央に、何かがいた。
「え……なん……」
あれ、僕ドアなんて開けてたっけな。閉めてなかったか。閉めてないのか。閉めてないなら開いてるんだから入ってくるよな。開いてるんだから。閉まってないんだから。
ぐるぐると同じ言葉が脳内で回る僕の体は、凍りついたように動かない。アレを見たくない。知りたくない。だというのに、僕の目は容赦無く、眼前の情報を脳に流し込んできた。
薄暗い室内に同化するような薄暗い肌色。それは、背丈だけを見たら、気をつけの姿勢を取る全裸の子供のようだった。しかし、子供にしてはあの頭は大き過ぎる。その頭についた老人の顔が、ぐしゃぐしゃに歪んだ瞳で僕を見つめていた。
――ああ、泣いているのだ。
「……ッ!」
思わず後ずさる。しかし、すぐに患者のベッドに肘が当たった。逃げ場はない。向こうもそれを知っているのだろう。少し離れた距離を詰めることもなく、泣きながら、長過ぎるボコボコとしたコブだらけの腕を持ち上げ始めた。
……いや、あれはただのコブではない。
顔だ。
小さな人間の顔が、老いた男の顔をした幽霊の腕に、張り付いていたのである。
「はっ……ぁ……」
呼吸が短くなる。足が竦みそうになるも、倒れないようにベッドに後ろ手でしがみついた。
幽霊が、少しずつ腕を上げながらこちらに歩み寄る。そこで僕は、とうとうあることに気付いてしまった。
腕についた顔は、誰も彼も泣いていた。ただ一つ、左肩辺りの顔を除いて。
――その顔だけ。その顔だけは、さも楽しそうに、天を向いてニタニタと笑っていたのである。
「……!!」
僕は叫ぼうとした。だが、声が出ない。これも幽霊の仕業だろうか。
そういや、曽根崎さんは無事なのだろうか。
腕が上がりきる。そして、男の顔は僕を見つめたまま、徐々にその腕を横に揺らし――。
「オドリャ幽霊コラ貴様ァーーーーーー!!!!」
――ピタリと動きを止めた。
曽根崎さんである。病室に駆け込んで彼は、ゼェゼェと肩で息をしながら、右手に持ったナイフを振りかざした。
「うちのアルバイトに何してる!! 今!! すぐ!! 全ての皮を剥いで塩塗り込み生きたまま熱した油に沈めてやる!! そこを動くなァーーーーーッ!!」
普段より更に凄みを増した凶相で、曽根崎さんは幽霊に襲いかかった。幽霊の表情が、泣き顔から驚いた顔、そして恐怖に変わる。曽根崎さんのナイフが幽霊の脳天に振り下ろされる前に、ソレはフッと消え去った。
「そ、曽根崎さん……」
盛大に空振りしたナイフを床に突き立てた曽根崎さんに、僕はなんとか声をかける。彼は疲れたように大きく息を吐き、顔を上げた。
「なんだ」
「た、助けてくれてありがとうございます」
「いや、礼は不要だ。……すまない。幽霊を引きつけていたつもりだったが、いつのまにか君の方に来てしまっていたようだ」
「いえ、めちゃくちゃ怖かったですけど、結局は助かりましたし……。そ、そうだ、患者さんは!」
急いで、様子を見る。幸い、患者さんはスヤスヤと前と変わらずに眠っていた。
今度こそ安堵の溜息をつき、僕は曽根崎さんに向き直る。
「……あの幽霊は、悪いものだったんですね」
「そのようだな。とりあえず、今晩は凌げたようだが」
「ところでそのナイフ、何なんですか? 清められた聖なるナイフとか?」
「まさか。至って普通のナイフだよ」
「……幽霊に刺突って効くんですね」
「今回の敵は泣いてたからな。そこに付け込んで本気で殺そうとすれば、怖がって逃げるんじゃないかと思ったんだ」
「一度は曽根崎さんを追ってきたのに?」
「そう考えると、アレも実はただの脅しだったのかもしれん」
顎に手を当てて、曽根崎さんは首をひねっていた。
……しかし、ナイフで幽霊を刺そうとするなんて、とんでもない事を考えつく人である。そう伝えると、曽根崎さんは少し愉快そうに人差し指を立てた。
「幽霊とかよく知らんが、大抵のオバケは元気いっぱいのものが苦手なもんだよ。元気いっぱい殺意に溢れてたり、元気いっぱい性欲に溢れてたり。生命エネルギーに満ちた人間ほど、つけ込み難いものは無いんだろうな」
何の根拠もない説だ。だが、恐怖ですっかり疲れ果てていた僕は、すんなり「そういうものですか」と飲み込んだのである。
「この人ですよ、曽根崎さん」
「ふむ、やはりな」
資料の束の中から、僕は見覚えのある男の顔を指差す。
翌朝、曽根崎さんと僕は、最近病院で亡くなった患者のカルテを借りて読み漁っていた。
「あの時病室の前にいた幽霊の顔は、間違いなくこの人でした」
「四日前に亡くなった人だな。三人目の幽霊目撃談とも一致するし、間違いなさそうだ」
「で、腕に表れていた顔についてですが、恐らくこの人と、この人と……あとこの人がいました。もう少しいたと思いますが、なんせ暗くてよく見えなかったので……」
「上出来さ。内一人は看護師長の証言と同じだしな」
該当するカルテを無表情に眺めながら、曽根崎さんは淡々と言う。
「つまりあの幽霊は、次から次へと数珠繋ぎに殺した犠牲者の顔を借り、体に取り込んでいたとそういう事か」
僕は頷いた。
そしてそれは、犠牲者にとっても苦痛なものだったのだろう。あの時に見た表情が、何よりの答えだった。
「そうすると気になるのが、事の発端となった最初の人間だ。恐らく、そいつが幽霊の本体になると思うんだが……」
何か心当たりはないか? と尋ねる彼に、僕は一つ思い当たる節を伝える。ニタニタと笑っていたあの男の顔だ。
その男の顔は、今あるカルテの中には無かった。少し考えた曽根崎さんは看護師長を呼び出し、もう一ヶ月ほど前の資料を持ってきてもらうよう指示する。
それらを片っ端から見ていくと、とある写真に目が止まった。
「多分、この人です」
僕の言葉に、曽根崎さんと看護師長がカルテを覗き込む。看護師長は、あっと声を上げた。
「この人、覚えてます。病気で亡くなる直前、妙なことを言っていた方です」
その男は、鬱々としていた。口癖のように、いつも同じことを呟いていたのである。
――自分は人を殺したことがある。
――人を殺した人間は、地獄に落ちると聞いた。
――死んだら地獄に落ちてしまう。嫌だ。嫌だ。苦しい思いはしたくない。
「……人を殺したと言っていましたが、彼に前科はありませんでした。だから、妄想の類かと思っていたんです」
だけど、ある日、その患者がやたらと明るい日があった。
何があったのかと尋ねると、彼は嬉々としてこう言ったのである。
――地獄へ落ちないで済む方法が見つかった。
――大勢の人に、一緒に罪を背負ってもらうんだ。
――十の罪を十人で分け合えば、僕の罪は一になる。
「……その翌日、彼は亡くなりました」
看護師長の声は、震えていた。
……もし、この男の言う “ 方法 ” が、何らかの形で実現してしまったのだとしたら。
僕は、彼女の口から語られた一人の男のおぞましい執念に、ただ動けないでいた。
「……亡くなった後、彼はどうなりましたか」
しかし、曽根崎という男は冷静である。平坦な口調で、看護師長に問いかけた。
「……身寄りのない人だったようです。生前の希望で、ご遺体は献体に出されました」
「今、その体は?」
「……うちの病院の地下で、保存されています」
「わかりました。少し席を外します」
見にいくつもりのようだ。スタスタと歩き出した曽根崎さんを慌てて追ったが、ドア辺りでピタリと止まられる。おかげで僕は彼の背に鼻をぶつけてしまった。
「君はここにいろ」
「どうしてですか」
振り返った曽根崎さんに見下ろされる。その声には、少し心配そうな色が含まれている気がした。
「今回、景清君は怖いものを見過ぎたように思う。だから、ここから先は私だけでいい。後で説明してやるから君はここで待ってろ」
「そんな。一人で大丈夫ですか、曽根崎さん」
「私をいくつだと思ってるんだよ。三十一だぞ。十も離れた君に保護されるほどヤバい大人じゃないよ、私は」
僕がいなけりゃ飯も食わずにひっそり餓死する大人は、十分ヤバいだろうがよ。
そんな事を思ったが、今回は彼の言葉に甘えることにした。実際、これ以上の恐怖は懲り懲りだったのである。
僕は黙って一歩下がると、迷いなく歩き去る曽根崎さんを見送った。
それから、二時間ほど経っただろうか。
ウトウトしていた僕の元に、曽根崎さんが帰ってきた。ドアの開く音にぼんやりと目を向けたが、彼の様子に一瞬で脳が覚醒した。
曽根崎さんの顔色は、真っ青だったのである。
「……見てきたよ」
一言呟き、彼はドサリと近くの椅子に崩れた。僕はお茶の入ったペットボトルを持って、側に寄る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫。一時的なもんだ」
ペットボトルのお茶を一気飲みし、曽根崎さんは手の甲で口を拭った。
「……奇妙な死体だったよ。頭は肥大化し、腕は関節が外れるほど伸びていた。腕の皮膚は耐えきれず、何箇所か裂けていたほどに」
「……それって、あの」
「うん。あの時に見た幽霊の姿とよく似ていた。裂けていた部分と顔が表れていた場所も、一致していたと思う」
ペットボトルを机に置き、彼は自分の腕を人差し指でさする。
「死んだ時には異変は無かったらしい。何の変哲も無い、普通の死体だ。それがあの男の怨念一つでああなったというなら、私が取るべき行動は一つしかない」
「……何をしたんですか」
「聞くか? まあまあグロいぞ」
「聞きます」
「……伸びた腕を無理矢理元の長さに縮め、裂けていた箇所を全て縫合したんだよ」
――それはまるで、腕に取り込まれた顔を潰すように。
血の気が引いた僕の顔を見もせずに、曽根崎さんは続ける。
「院長に事情を話して、あの死体は燃やしてもらうことにした。もう献体としては、とても役に立たないだろうしな」
「それが……いいと思います」
「安心しろ。きっとこれで幽霊騒ぎは終わりだよ。生前何をしたのかは知らないが、ヤツはたった一人で地獄に落ちるんだ」
そうそう、奇妙といえば、もう一つおかしな点があったよ。
曽根崎さんは、声を潜めて僕に顔を近づけた。
「死ねば、筋肉は弛緩する。勿論表情筋も然りだ。何かしら顔に感情を浮かべるという行為は、実は結構大変な作業だ」
「何が言いたいんです」
「……男の顔には、何故か表情があった」
――どんな表情かは、君になら分かるだろう?
息を飲んだ僕に、曽根崎さんは言う。その先を聞きたくないのに、僕は耳を塞ぐことも、彼の言葉を止めることもできないでいた。
薄い唇から、予想された通りの言葉が紡がれる。
「……ヤツは笑っていたよ。何も無い天井を見つめて、ニタニタとな」
その瞬間、脳にこびりついた笑みが蘇り、僕は固く目をつぶる。
――すぐ近くにいる曽根崎さんも、笑っている気がした。