9.誰が為の名前
玄関で倒れたあかりを部屋へと運び込む。
さすがに引きずっていくわけにもいかないので、背中と膝裏に腕を入れて持ち上げる。
こいつ、小柄だとは思っていたが軽すぎだろ......。
顔は血の気が引いて肌が青ざめている。
過去の詳しい事情は聞いてないから知らんが、これほどのトラウマだとはな。
俺はあかりをベッドに寝かせてそのまま部屋を出る。
できればついててやるのがいいんだろうけど、そうもいかない。やるべきことをやろう。
う......気持ち悪い......。
気が付くとあたりが薄暗かった。......いつの間にか寝てたのか。服が濡れていて気持ち悪い。
顔を上げると、一対の瞳と目が合った。
ああ、そうか。あかりの様子を見に来てそのまま俺も寝ちゃったのか。
「起きてたのか」
「......ついさっき。うなされてましたが、大丈夫ですか......?」
「そうか。少し嫌な夢を見ただけだ。それよりも、お前は自分のことを心配しろよ」
少しというのは嘘だ。二度と見たくはないと思っていた、こんなに汗をかくほどの悪夢。
しかし、そうか......、と納得する。
こいつを見てるとイライラする理由。......それは、昔の俺と同じだからだ。
「なあ、昔のことは話したくないか?」
そう問いかけると彼女は薄暗い空間でも分かるほどに顔を歪めた。
まあそりゃそうか。トラウマの原因となった出来事なんて、誰も語りたがらないだろう。
だから、俺は口を開く。
「......俺の名前言ってみろ」
「......え?……か、神谷......ソラ君」
「そうだ。そんで、宇宙の宙と書いて『ソラ』と読む。......俺は、この名前のせいでイジメられていた」
あかりは固まっていた。まるで信じられないものを見たという感じだ。
「まあそれだけが理由じゃないけどな。小学生にソラなんて読むのは難しい、だから最初は『チュウ』って呼ばれてた。......そんで、次第に『ネズミ』と呼ばれるようになった」
難しいことじゃない。単なる連想ゲームだ。
最初こそ悪気があったかどうかは知らないが、そこからは酷かった。
ネズミは汚いから近寄るな!と避けられ、教科書を捨てられたこともある。
ピ〇チュウ捕まえようぜ!と言って物を投げつけられたりもした。
やがて当時すでに綻びを見せていた家庭に明確な亀裂が入った時。
人の口に戸は立てられぬ、とはよく言ったもので噂はすぐに広まった。
子供には難しい話でも大人から聞きかじった言葉は使おうとする。
そこから俺の呼び名に『宙ぶらりん』『可哀そうな子』が加わった。
小学校の教師たちは、ただの悪ふざけと捉えて放置した。
中学にあがっても状況は変わらず、担任に呼び出されて言われたのは
「イジメられるのはお前が弱いからだ。噂が大きくなると俺の責任にもなる。それは勘弁してくれ」
というものだった。
教師だって人間だ。結局は自分が一番かわいいのだ。
だから事実を隠蔽し「わが校にイジメの事実はありません」と平気で口にする。
どいつもこいつもクズばっかりで反吐が出る。
俺は誰ともかかわらず何を言われても無視して卒業まで過ごし、遠く離れたこの高校へと進学した。
俺の話を聞きながら、あかりは泣いていた。
「......なんでお前が泣くんだよ」
「......っ、だ、だって......そんなの、知らなかった......!こんな、ツラい思いしてるの、私だけだと思ってた......!」
ツラいことなんて進んで話したがる人は稀有だろう。だから、自分だけだと思ってしまう。そうして1人で抱え込む。
「......わ、わたしも......、名前のせいで、イジメ、られてた......っ」
あかりが泣きながら話した内容は俺と似ていた。
絵本など子供が読む物語では、死んだ人は星になるということはよくある。
だから、彼女は『死んだやつ』と呼ばれたり、死人には感情がないとわざとぶつかられたりもした。
相談しようにも、母親は仕事で忙しく帰ってくるのは遅い時間だった。毎日必死に働いてる母に心配かけたくないという思いもあって言えなかった。
中学生のころ、担任の先生から母親に連絡がいき、事態を知った母親は泣き崩れたという。
それでも、当時すでに3年生だったこともあり転校もせず、イジメが完全になくなることはなかった。
高校に入学すると、今度は容姿でもからかわれた。
その頃、母の同僚だという男性が何度か訪ねてくるようになったが、中学の後半から休みがちだったあかりは1年生が終わるころには家に引きこもってしまう。
そのまま次の春を迎えたとき、その男性は私に誰も知らないとこへ転校してはどうかと言った。
私は学校はどうでもよかったがこれ以上母の顔を見るのもツラく、その提案に従った。
なるほど。俺は周囲との関わりを断ち、一切を無視することでやがて興味を失われた。
しかしあかりは拒絶することもできず、周囲に翻弄されつづける彼女は恰好の標的だっただろう。
「そうか、お前も大変だったんだな」
「......で、でも、話して少し、すっきりしました」
「変な話だな。その俺たちが兄妹だなんて」
「......そう、ですね。私、ずっとこのまま一人だと思ってました。でも、私も神谷君みたいに変わりたい......。強く、なりたいです」
「お前が本気で望むならなれるだろ」
「......はい、私......変われるように、頑張りますね」
そう言って彼女はここに来てから初めて、小さく笑った。
それはけっして太陽のような眩しい笑顔ではない。
夜色の髪に包まれた、小さく明かりを灯す星のような笑顔だった。