牙をもつ天使の話
ここは天使の国。
みなが上品に口に手を添えて微笑み合う、平和の国。
その国の建物は白いレンガでできています。
みなが白い道をゆっくりと歩きます。
あるいは青い空にゆったりと羽ばたきます。
家のそばにはだいたい庭があって、緑の芝生があったり色とりどりの花が咲いていたりします。
その国の中で1番目立つ丘の上には、真っ白な教会が建っていました。
教会の鐘と屋根の上の十字架は、とてもきれいな金色をしていました。
天使たちはいつもその教会を見上げては、今日1日の平和に感謝しました。
天使たちはみなよく笑いました。
道で出会えば、ごきげんようと、お互いに笑いかけました。
お喋りするときも、口に手を添えて、上品に微笑みあいました。
その国にはいつも笑顔が満ちていました。
その中でも、特別よく笑う天使がいました。
彼女は他の天使たちにもとても好かれていました。
彼女はいつも明るく、素直で、何より笑顔がすてきでした。
ある日のことです。
彼女はいつものように、他の天使たちとお喋りをしていました。
彼女がとびきり明るく笑ったとき、うっかり口に手を添えるのを忘れてしまいました。
するとみな、彼女を見て顔色を変えました。
それは、何も彼女が上品さを忘れたからではありませんでした。
誰もが笑顔をひっこめて、彼女をじっと見つめ、怯えるようにそばを離れていきました。
彼女もはっと気づいて手で口を覆いました。
真っ青な顔で、しばらくみなが去った方向を見つめましたが、やがてとぼとぼと家に帰りました。
彼女は鏡を見て、ため息をつきました。
彼女の口の中には、小さいながらも鋭くて、真っ白な牙が2本、生えていたのです。
次の日の朝、彼女は目を覚ますと、真っ先に丘の教会に向かいました。
もしかしたら、ごきげんようという、いつものあいさつを交わせるかもしれない、と彼女は思っていました。
教会までの道のりがいつもより長く感じられました。
それが誰ともすれ違わなかったせいだと、彼女は認めたくありませんでした。
教会の近くには、何人かの天使がいました。
「ごきげんよう。」
彼女はいつもと同じように、明るい声で言いました。
もちろん口に手を添えて。
いつもと違ったのは、返ってきたのが沈黙だったということでした。
天使の数は少しずつ減り、教会の近くにいるのは、彼女だけになりました。
彼女は教会の上の十字架を見上げて言いました。
「今日1日、平和に過ごせますように……。」
彼女は初めて、感謝ではなく祈りを捧げました。
次の日、彼女はやはり、目が合った人に挨拶をしました。
「ごきげんよう。」
口に手を添えるのも、忘れませんでした。
しかし天使たちは目をそらします。
そうでなければ、彼女に怯えた目か、睨むような眼差しを向けました。
それでも彼女は、笑顔で挨拶を続けました。
ある時ふと、天使たちの囁きが耳に入りました。
「きっと悪魔の子よ……。」
彼女は振り返りましたが、みな目をそらしてしまって、声の主は分かりませんでした。
よくよく耳をすましていると、みな同じようなことを囁きあっていました。
そこに笑顔はありませんでした。
次の日から彼女は、誰かと目があっても、弱々しく微笑むだけになりました。
ある日のことです。
彼女が道を歩いていると、突然翼に痛みを感じました。
見てみると、翼に小さな穴が開いていました。
振り返ると、1人の子どもが、道に転がっている白い石を持って立っていました。
子どもはまた石を投げてきました。
彼女は避けようとしましたが、翼の端にまた穴が開きました。
子どもは彼女を見て、大きな声で言いました。
「悪魔っ!出ていけっ!」
そしてまた石を投げました。
近くにいた女の人が、子どもを止めました。
しかしその人は、彼女と目を合わせようとはしませんでした。
「石なんて、投げちゃだめでしょう。」
女の人はそれだけ言いました。
その後は、いつも通りでした。
誰も、さっきのことなんて見ていないみたいでした。
彼女はしばらくしてから、また歩き始めました。
次の日から、ときどき彼女は石を投げられるようになりました。
翼には穴が増えていきました。
彼女が避けるのをやめてからは、服も腕も、傷だらけになりました。
翼の穴が10を数えた頃、彼女は笑わなくなりました。
何日も、何日も、そんな日が続きました。
ある日のことです。
「あれ、なあに?」
誰かが言ったのをきっかけに、みなが上を見ました。
指さす場所は、この国で1番高い丘でした。
教会の屋根の上に、金色の十字架と太陽の光を背にして、1人の天使が立っていました。
翼の穴が光を通すので、誰もが彼女だとわかりました。
このときばかりは、誰も目をそらしませんでした。
彼女はボロボロの翼を風になびかせ、ときどき体を揺らしながら、それでも立っていました。
彼女は胸の前に手を組むと、目を閉じて一筋だけ涙を流しました。
彼女は手を組むのをやめました。
傷だらけの腕を力なく下げ、またユラユラと立っていました。
そして何も言わずに、十字架から飛び立ちました。
穴だらけの翼で羽ばたけるはずもなく、彼女はそのまま地面に落ちました。
動かなくなった横顔に浮かんでいたのは、悲しみの表情ではなく、本当に弱々しい笑顔でした。
動かなくなった彼女を見て、たくさんの天使たちが泣きました。
何しろここは平和の国ですから、泣くことなんて滅多にありません。
みな、自分や友人がこんなに大きな声で泣くのを見たのは、初めてのことでした。
涙を流しながら、誰かが隣で泣いている天使と顔を見合わせました。
すると、ふたりの天使はぱちくりとまばたきをして黙ってしまいました。
同じように、ひとり、またひとりと、泣き声をあげるのをやめていきました。
ついに、誰もが目を見開いて、黙ってしまいました。
誰かが、ポツリと言いました。
「……あなたもだったの?」
みなの口の中には、小さいながらも鋭くて、真っ白な牙が2本、生えていたのでした。
みなが笑うときに必ず口に手を添えたのは、それが上品だからではありませんでした。
彼女のことを「悪魔の子」と囁いたのは、牙を恐れたからではありませんでした。
彼女に石を投げつけたのは、彼女が憎いからではありませんでした。
ただ怖かったのです。
悪魔でも牙でもなく、自分と、この国の天使たちが、怖くて仕方なかったのです。
天使たちの誰もが、自分がこの世に1人だけの、“悪魔の子”だと思っていました。
彼女のことを知ってからは、天使たちの誰もが、彼女1人が“悪魔の子”であればいいと思っていました。
そして彼女は、自分1人だけが“悪魔の子”だと思ったまま、今日を迎えたのです。
彼女が本当のことを知ることは、永遠にありません。
誰もが黙っている中で、1人の天使が、彼女に歩み寄りました。
近くにいた誰も止めませんでした。
何もかもが傷ついた彼女の前に膝をつき、その天使は再び大声で泣き始めました。
その天使は、あの日彼女に、1番最初に石を投げた子どもでした。
みなが、何日も、何日も、涙を流しました。
彼女は教会の近くに埋められました。
その日から、天使たちは教会を見上げては、感謝するのではなく、許しを願うようになりました。
天使たちは笑うとき、口に手を添えるのをやめました。
しかし天使たちはみな、あまり笑わなくなりました。
ここは、天使の国。
みなが悲しい思い出を持つ、傷ついた国。