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変わった運命 太平洋戦争

作者: 鈴夜

あくまで、架空の話です


地文系式なので、ご了承ください


1942年5月7日

翔鶴の偵察機からの報告は

タンカーと駆逐艦発見とのだけの報告だった


そして、夕方

米軍は日本海軍に駆逐艦を撃破され、給油艦を拿捕された


だが、翌日の戦いで、祥鳳を失い、翔鶴が中破した


だが、アメリカが翔鶴轟沈と誤認した上

無傷の瑞鶴を米航空隊が目撃したため

撤退を余儀なくされた


その間にポートモレスキー作戦が行われたが

史実並の抵抗を受け

日本陸軍は、海軍の支援も受けつつ

撤退を余儀なくされた(戦死者は1000人(史実の半分)



そして 

「翔鶴は中破だが、瑞鶴は無傷で定員も何とか満たしているんだな」

「翔鶴は来月1日には復帰可能だとのことです」


そして、ここでまた歴史が変わった

「翔鶴をMi攻略に回す」


全員が驚いた、本来 翔鶴はアリューシャン作戦に回すつもりだったが


山本五十六長官が山口多聞等の必死の交渉におれた結果だった

無論、山口多聞等も翔鶴投入には驚いたが


6月7日

ミッドウェー海戦が行われた

史実と違うのは

金剛と比叡等といった史実では後方の攻略部隊の一部が前線護衛についたことである


戦いは、厳しい戦いだった

ミッドウェーの航空隊や空母からの猛攻もあり

蒼龍が真っ先に沈没

赤城が急降下爆撃で大破炎上の上、沈没

翔鶴に米爆撃機がつっこんで爆発の上轟沈(事故だった)

と言う事態に見舞われたが

瑞鶴と飛龍が対空戦闘準備をしていたことと

加賀も爆装準備が出遅れたこと

金剛型4隻勢揃い

が要因し

制空権を掌握

大和等も合流し、ミッドウェーを力押しで制圧したのだった


だが、日本としてはかなりの痛手だった

ミッドウェーは攻略できたが 正規空母3隻を失ったのだから


一方、アメリカも痛手を被った

日本の正規空母の半数を撃破したものの

ミッドウェーを奪われ、空母は1隻沈没、残りの2隻も中破、大破し

重巡も7隻あった内の4隻が沈没、3隻が中破以上か独断撤退

駆逐艦は3隻が沈められ、残りは守備隊の33%を載せて撤退

ハワイに逃げた


この戦いで、日本は

戦艦信濃の空母改装

伊勢と日向の航空戦艦化

改鈴谷型重巡洋艦 伊吹の軽空母化

等を行い 航空戦力を補った


戦争は、ミッドウェー海戦により太平洋で停滞が続いた

日本に少し部があるが、米本土となると米優勢になるぐらい


一方 欧州では、アメリカが太平洋で苦戦したため

フランス上陸作戦にアメリカの支援が滞り始め

ディエップ作戦は4分の3が

損害を負った


連合軍は、欧州ではフランス、ドイツへの空爆のみに限定し、上陸作戦を遅延した


日本は、44年9月7日に、加賀を失いつつも、ハワイを占領

この結果により、オーストラリアは太平洋での不戦を宣言し、英米に謝罪し、日本と単独講話した

無論、日本のみとの講話なので、ヨーロッパ戦線には荷担した

中華民国(国民党)とも交渉し、12月4日に講話、


翌日から、日華は中華人民共和国(共産党)に攻撃を始めた

これにより、アジア太平洋での戦争は、12月までにらみ合いが続いた


アメリカでも、対日戦線に不安を感じる人が増え、一部植民地の独立や放棄を条件に講話案がでたが

大統領は、継戦を続けた

だが、12月8日

アメリカ大統領、食事中にのどを詰まらせて死亡する事故が発生


副大統領が臨時で大統領になり

日本とねばり強い交渉をし

日本は、朝鮮半島の放棄

アメリカは、フィリピンの放棄を

条件に45年3月10日に講話した

同日日本は、これを最後に、日独伊三国防共同盟の破棄も宣言


開戦から生き残った空母は、瑞鶴と蒼龍だけだった

戦艦に至っては

金剛型は、金剛と榛名

長門型は、どちらも存命

扶桑型は、山城が存命

伊勢型は、どちらも存命

大和型は、大和が存命

他は、ハワイ決戦やシンガポール海戦で散っていった

ただ、陸奥と山城に爆破攻撃をしようとした事件が起きたが

幸いにも未遂で終わった

陸奥をねらったのは、朝鮮反日勢力(親ソ)

山城をねらったのは、日本の共産主義者等


4月7日

フランス大上陸作戦

連合軍による最後の賭の上陸作戦が行われた

ノルマンディーのみじゃなくブルターニュ等

フランス西海岸からの上陸作戦であり

史上最大の作戦だった


5月1日には、パリを解放し、連合軍は、ナチスドイツに降伏を迫ったが

ナチスドイツも降伏内容に従えず


結果7月30日に

ドイツの港町に世界初の原爆が投下された(警告の意味だった

8月5日 ソ連がドイツ本国境を突破

8月6日 ナチスドイツ首脳自殺

8月7日 ナチスドイツ臨時総統 連合軍に降伏


1945年8月7日

世界対戦は終わった

がソ連の暴走が始まった

ソ連は、ドイツ東部に傀儡国家、ドイツ人民共和国を建国

米英仏と共同統治と約束していたベルリンも単独統治を宣言し

米英とソ連の対立が始まった


日本は、英米と接近し、日米英が中心となる AATOを発足させた(アジア大西洋条約機構)

フランス、西ドイツ、イタリア、高麗民国、中華民国、満州王国、フィリピン、タイ等が加盟した


その後、

日米英vsソ連による冷戦が始まり

ドイツ、中国、ベトナムの3つが冷戦の中心となっていった


日米英で一番大変だったのは日本だった

中華民国支援の上、満州朝鮮も見てあげないといけない上、ソ連と陸地国境接しているので


米英に軍事派遣を要請

日本本土では横須賀、三沢、佐世保を米英に貸しだした


勝利もしくは引き分けに終わったはずなのに、米英が駐屯するのはおかしいという意見がでたが

昨日の敵は今日の友と言う諺で、国民は納得はした


その後、世界は四度の衝突危機に見舞われた

1950年 第二次満州事件(史実の朝鮮戦争(中国国民党軍、満州軍、日本帝国軍、高麗民国軍、アメリカ軍、イギリス軍vs中華人民共和国、モンゴル人民共和国・・・ソ連)

1962年 キューバ危機

1976年 ソ連エリート中尉亡命騒動

1980年 樺太紛争


3度目は、亡命騒動で、ソ連の最速戦闘機を日本側が確保し、ソ連軍が奪還に動くが、60日後に機体が分解された状態でソ連に返還されたことで、一応解決した

4度目は、完全に日ソ戦争になったが、西ドイツに英米が牽制しており、

核戦争になりかねなかったが

ソ連のアフガニスタンでの苦戦で

ソ連が折れた

北樺太の放棄を条件に、日ソは講話した

だが、それがソ連の崩壊の道に歩みを始めた

そして1995年、ソ連が崩れた


これにより、一時は平和が訪れたと思われたが、2001年9月10,11日、日米英同時多発テロが発生、

日本の横浜市の超高層ビルに、貨物機が突撃し、50階から上が下に落下した(49階から下はヒビが入ったりしたが無事

イギリスロンドンではビッグベンが爆発し倒壊

アメリカでは、世界貿易センタービルと国防省に旅客機がつっこむ事件が起き

世界を震撼させた


日米英3カ国首脳は、中東のテロ組織が関与していたことをつかみ

中東に大軍を派遣したのだった

終わり

建国記念日に投稿と言うのは特に意味はない

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