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向日葵(改訂ver)

掲載日:2014/08/31

以前投稿していた『向日葵』の改訂版です。

重い話かもしれません。ご注意ください。

最後はハッピーエンドです!

向日葵


 汗が頬を伝う。雫が一つ紙の上に落ちた。早瀬悠杜は手の甲で汗を拭い取る。

 覚悟を決めたつもりだった。それでも緊張していたのだろうと、悠杜はゆっくりと息を吐き出した。汗で湿った手に紙が引っ付く。それをはがし、持ち上げて眺めた。

 再び汗が頬を伝う。その汗を軽く自分の服でふき取ると、悠杜は笑みを浮かべた。それは、どこか無邪気で、どこか大人びていて、とても幸せそうだった。悠杜は笑みを浮かべたまま、優しい声で告げる。

「すぐに行くから」

 白い紙を封筒にしまい、それをさらに机の奥に仕舞った。ただ手紙を書いただけだった。けれど達成感がある。悠杜は穏やかな表情のまま、布団に潜り込んだ。静かに目を閉じる。

 遅い時間であることも関係してか、悠杜はすぐに、夢の世界へ旅立っていった。かすかな寝息がリズムを刻んでいる。

 窓の外には、星が輝いていた。ネオンの光に邪魔されながらも、黒く染まった上空に浮かぶ、星は美しい。月も光っていたが、それでも、自分の身を削り輝く星の輝きにはかなわないだろう。しかし、カーテンで世界を遮断していた悠杜の瞳に、その星たちが映ることはなかった。


 都会というわけでもなく、田舎というわけでもないこの街で、神崎家は有名であった。よくあたると評判の占い一家。テレビ出演や本の出版などもしているその家は、周りの家とは似ても似つかないほど、大きく豪華であった。庭には大きな池があり、数十匹の鯉が泳いでいる。定期的に「カタン」となる獅子脅しも金持ちならではのものだろう。住んでいる人は着物を着て生活しているのではないか、と想像してしまうほど「風情」という言葉が似合う家だ。

 しかし神崎家の朝は、そんなイメージを一瞬で壊し、本当の神崎家の姿を伝えてくれる。

「あなたはだんだん占い師になりたくな~る」

 よく言って30代半ば、悪く言っても40代前半のショートカットの似合うかわいい女性が、10代後半のおそらく娘であろう少女の耳元で囁いた。これはここ半年の目覚まし時計代わりとなっている。その声が耳に届くと、少女はムクッと起き、反射的に長い髪を振り回して叫んだ。

「だから!占い師なんかにならないってばっ!!」

「はい。起きた。早く朝ごはん食べようね」

 娘の怒りとは反対の明るい声。少女はこの母、神崎薫のその様子に腹を立てたらしく、無言で半袖の制服に着替え、朝食を取りに行った。

 神崎家は代々、占い家業を引き継いでいる。そして次の跡取り候補は、さきほどから無言で朝食を食べている1人娘の神崎瑠未、18歳であった。18歳といえば、高校3年生である。決断することが多く出てくる年齢だ。大人はある場面では彼らを自分たちと同様「大人」だと判断し、時として親や教師に守られた「子ども」と使い分けるのだ。

 だから瑠未は「大人」が嫌いだった。そして、占い師になり、跡を継ぐことを決定事項のように押し付ける周りが嫌いだ。 将来が決められている。それが耐え難かった。だって、占い師などになりたくないのだから。

 自分には占い師としての素質が備わっていることはわかっていた。幼いころから、夢で見たことが、現実で起ることがよくあった。最近では、極限まで集中すれば、道具を使わなくてもほんの少し、未来をのぞくことができる。

 けれどそれがなんだというのだろう、と瑠未は思う。人の運命はあらかじめ決まっているのだ。どんなにあがいてもそれは変わらない。だから「占い師なんていても意味がない」が瑠未の口癖だった。それなのに、周りが揃いも揃って、瑠未を「占い師」にしようとする。それが瑠未には許せなかった。未来など、見えない方が楽なのに。未来なんて知らない方が幸せなのに。「未来」を見ず、ただひたむきに「今」を生きることの方がよっぽど素晴らしい。みんなはどうして、それに気付かないんだろう。瑠未は、いつもそう思っていた。

「ねぇ瑠未ちゃん。今日帰ってきたら占いの勉強しよっか?」

 朝食を食べ終えた瑠未に薫が言う。実年齢よりも若いと言われるが、それでも40代の母親。それなのに、どうしてこんなに幼いんだろう。それは、瑠未の常々の疑問だった。母親として不自由はないが、尊敬できないことも事実である。

「だから、占い師になんかならないって。占いの勉強なんて無意味なの」

「だって瑠未ちゃん将来は占い師になるんだよ?私の占いでも、ちゃんと勉強すればなれるって出てるし。それに、小さい頃いつも言ってたじゃない」

「今さら小さい頃のことなんか持ち出さないでよ。それに未来なんて知らない方がよっぽど幸せに生きられるよ。だから、私は占い師になんかならないの」

 瑠未はそう告げると、足早に薫の前から立ち去り、自分の部屋に言った。最後の方は薫には聞こえていなかっただろう。悔しいことだが、瑠未は薫に何か言われると、なぜかうなずきたくなってしまうのだ。何に対しても、子どもの自分よりも子どもであるような母親。それでも、薫の言ったことは本当に起こる気がする。だから薫の、特に自分が占い師になるという言葉は聞かないようにしているのだ。

 未来が見えたからといって、変えられるとは限らない。大きな未来は変えられない。どうして、人は未来を見たがるのだろうか。どうせ生きとし生けるものが行きつく先は同じだ。だから、怖かった。薫が言うように、瑠未自身が本当に占い師になってしまうことが。

 薫から逃れるように部屋に戻ってきた瑠未は、学校へ行く支度を終えるとすぐに玄関に行った。しかし何かを思い出したように、再び、自分の部屋に戻る。机の上に置かれている写真の前に立った。凛と立つ大きな向日葵を、今より少し幼い瑠未とその瑠未より少し小さな色白の女の子が囲んでいる写真。色白の女の子の背は、その写真に写っている瑠未よりも3センチほど、小さい。今の瑠未と比べれば、もっと差は出ているだろう。肩の長さまで伸ばされた薄い茶色の髪は、わずかにウェーブがかかっている。身長やその髪も合わせて、人形のように可愛らしい少女だった。後ろには白い建物が映っている。

「行ってくるね」

 瑠未は、その写真に向かって囁く。笑みを浮かべると、急いで学校に向かった。


 瑠未の通う高校は、全校約1500人のわりと大きな学校だ。創立50年以上の伝統ある高校らしいが、瑠未にはただの古くて汚い学校にしか思えない。

 瑠未はいつもと同じ時間に、誰もいない教室に入った。そしていつもと同じように、窓から見えるグラウンドを覗く。朝練をしているサッカー部の姿がそこにはあった。梅雨がようやく明け、最近になってまた朝練を開始したのだ。

 瑠未は無意識に、窓側の誰かの席に座り、朝の眠気に負け多くの部員が適当に走っている中、熱心に部活動に参加している同じクラスの悠杜を見た。受験真っ盛りであるにもかかわらず、悠杜は部活に出続けていた。そんな悠杜を瑠未はすぐに見つける。

 悠杜は背が高い方ではなく、遠くから見たら、サッカーをしている人間などすべて同じに見えてしまう。それでも見つけられるのは、その行為がもう癖になっているからだろう。

 瑠未はほとんど無意識で一連のストーカーを間違われても言い訳のできない動作をしていた。もう、3年目になる。瑠未が悠杜を見ていることが他人に知れ渡り、瑠未が悠杜を好きだという噂が流れたこともあった。疑わない方がおかしいほど、瑠未は悠杜を見ているのだ。そのような噂が流れてもしょうがないことだろう。むしろ「ストーカー」ではなく、「好き」だという噂が流れただけ有難いというべきかもしれない。しかし、瑠未は動じなかった。だってそれは事実と反しているから。瑠未が悠杜を毎日見るのは、ストーカーだからでもなければ、好きだからでもない。ただの義務だった。しかし、その義務は1年前に終わっている。

 それでも瑠未の身体は勝手に動いてしまうのだ。悠杜のことをあの子に話すことを止めれば、あの子とのつながりがなくなってしまう。そんな気がするから。

 数分の間、ただ悠杜だけを見ていた。しかし、何かが違う。目を凝らしてみた。それでもよく見えず、鞄から双眼鏡を取り出す。双眼鏡を常備している自分をよくも周りは「ストーカー」と言わないのかとなぜか呆れた気持ちになる。

 覗き込んだレンズの先の悠杜を見た。そして気づいたのだ。目が違うのだと。悠杜の目は、こちらまでうれしくなるくらい優しく、綺麗だ。瑠未はその目が羨ましく、そして好きだった。

「結花と同じ目…?」

 悠杜の目を見て、瑠未は無意識に呟く。でも、どこが同じなんだろう。瑠未は心の中で問いかけた。答えは出ない。

 悠杜と結花は違う。悠杜が向日葵なら結花は蒲公英であった。しかし、今、目に映る悠杜の目は、結花が時々見せた悲しい目と類似していた。なぜ、悠杜と結花の目が同じなのだろう。瑠未の頭にはその疑問が繰り返し流れる。

 占い師の素質、という厄介なものが、瑠未に危険信号を送っていた。


 瑠未は授業もろくに聞かず、ずっと空を眺めていた。頭の中では、結花のことを思い出していた。

 結花は瑠未の親友だ。いつも優しい笑顔で「瑠未ちゃん」と呼び、「今日はどんなことがあったの?」と幼い子どものように、好奇心いっぱいの目を向けた。白い肌に、優しい瞳。細い体に、小さな背。少しでも力を入れたら、壊れてしまいそうなのに、とても強い少女だった。

 青空に浮かぶ白い雲が風に流されている。2人で指さしながら、病院の窓の外に浮かぶ雲を追った日のことを思い出す。普段生活しているだけでは気がつかない小さなことに、結花は感動した。そんな結花があの悲しい目をしたのはいつだっただろうか。

 瑠未は答えを見つけられないまま放課後を迎えた。部活を引退した3年生は、制服のまま塾へ向かう。図書館へ行き、勉強をする人も多かった。しかし中には悠杜のように、自分の好きなことに時間を使っている人もいた。

 瑠未はその中間的立場だ。瑠未は人が少なくなった教室にそのまま残ると、窓側の席が開くのを確認し、その席行く。窓を開け、外を見た。一応、机の上には勉強道具が広げられている。

 瑠未の右手には、ピンクの蛍光ペンが握られていた。しかし、瑠未の視線は自然に悠杜のもとに行ってしまう。放課後は教室に数人残っているので、双眼鏡は使わないようにしている。瑠未なりの配慮だ。しかし、双眼鏡を用いなくても、瑠未には悠杜の表情がわかるような気がしていた。

 いつもなら教科書と悠杜を3対7の割合で見るのだが、今日は違う。悠杜から目が離せない。笑っているのに、目が死んでいる。そんな悠杜に周りが気づかないことが不思議だった。

 瑠未は机の上の勉強道具を乱雑に隅に寄せ、額を机につけ、目を閉じた。机はひんやりとしている。窓から入る風が、瑠未の髪を揺らした。

「あの目、見たくない…」

 泣きそうな声が出た。

「結花」

 助けを求めるように、彼女の名前を呼んだ。そして思い出したのだ。結花があの目をするとき、結花はいつも自分のことを話していた。自分の未来の話を。

「…死を覚悟する人の目?」

 思わず出た自分の声に、怖くなり、瑠未は顔を上げた。再び悠杜を見る。必死で明るく振る舞う悠杜の姿。間違いだろうと思う。自分の勘違いだろうと。けれど、結花の目を、悠杜の目を見間違えるはずはないのだ。

 もう誰も失いたくない。真っ白な頭の中で、その言葉だけがぐるぐる回った。どうすればいいのだろう。自分には何ができるのだろう。

 必死で考えるが頭が動かない。わかったのは、ここにいても何も考えつかないということだけだった。結花の前に立てば何か思いつくかもしれない。瑠未はそう思い、机の上を片付け、急いで家へと向かった。

 グラウンドの隅の小さな花壇に、大きな向日葵が咲いている。瑠未はその横を走って通った。瑠未のつくった風によって、少しだけ向日葵が揺れる。太陽にただ従順に伸びる向日葵が、なぜか少しだけ地面の方を向いている気がした。黄色の花びらが数枚落ちている。


 家に着くと瑠未は着替えもせず、結花の写真を両手で持ち、考えた。しかし何を考えればいいのかさえわからない。

「どうしよう…」

 そんな言葉が無意識に発せられた。泣きそうな自分の声。

「さぁ~瑠未ちゃん。今日こそ占いの勉強しようね」

 場違いに明るい声が耳に入る。笑顔の薫が顔をのぞかせた。いつもどおりの笑顔がなぜか嬉しかった。張りつめていた緊張の糸がほどけたような不思議な安堵感を抱く。瑠未はそのまま薫に抱きつき、泣き出した。薫は一瞬驚いた顔をしたが「何があったの?」とは聞かず、瑠未の頭をさすりながら泣かせてくれた。

 ようやく涙が枯れると、瑠未は今日の出来事を薫に話した。話しが終わると薫は真剣な目を瑠未に向ける。肩を掴んで言った。

「瑠未ちゃん、考えよう。悠杜君がなんでそんなことしようとしているのか。どこでしようとしているのか。お母さんもう、瑠未ちゃんのあんな顔見たくないの。悠杜君がいなくなったら瑠未ちゃんまたあの顔になっちゃうでしょ?だから助けよう。結花ちゃんのためにも」

「…うん」

 再びこみあげてくる涙をこらえて言った。鼻の奥が痛くなる。瑠未は大きく深呼吸をした。

「瑠未ちゃん。神崎家の占いは、対象者が目の前にいなくては効力が発揮できないの。そのことは知っているよね。本当は、私やお父さんが占うのが一番いいのだけれど、でもきっと悠杜君はここには来てくれないわね。けれど、それでも他にわかる方法がないかお母さんの方でも考えてみる。瑠未ちゃんは瑠未ちゃんで考えてみて」

「わかった」

「じゃあ、お母さんは書斎にいるわ。何かあったらすぐに来てね」

「うん。…お母さん」

「何?」

「ありがとう」

「…頑張ろうね。絶対」

 薫の力強い言葉に瑠未は大きく頷いた。そんな様子を見た薫は小さく笑みを浮かべ部屋を出る。ドアが閉まる音を聞きながら瑠未は結花の写真に向かうように椅子に座った。

 なぜだろう。はじめに考えたのはそれだった。どうして悠杜が死を覚悟する必要があるのだろう。どうして死を受け入れようとしているのだろう。瑠未は部屋で何時間も考えを巡らせた。気がつけばいつの間にか空は真っ暗になっている。

「瑠未ちゃんどう?」

 パジャマ姿の薫が再び瑠未の部屋をのぞいた。黙って首を横に振る。

「そっか。じゃあ、明日、悠杜君に話しかけてみなよ?とりあえず、仕草だけで判断するよりははっきりとしたものがつかめるかもよ。…だから、今日はもう寝なさい」

「…うん。こうして考えているだけじゃ、何も始まらないよね」

「そうだよ。そんな情けない顔してたら、結花ちゃんに笑われちゃうぞ」

 瑠未は薫の言葉にうなずいた。それを見た薫は、微笑むと「おやすみ」と言い、部屋から出ていった。

 瑠未は何気なく、部屋を見渡す。結花の写真の隣にある、ほこりをかぶった小さな水晶玉が目にとまった。瑠未は急に立ち上がり、水晶玉のほこりを払う。

「…あ~あ」

 軽く自嘲的な笑みを浮かべ、そう漏らすと結花の写真とともに水晶玉を鞄の中にしまった。


 部屋に入ってくる光がまぶしく、瑠未は自然と目を開けた。ゆっくりと起き上がり、窓を開ける。静かな風が部屋に入ってくる。長い髪が揺れた。瑠未は軽く頬を叩き、気合を入れるように「よし」と声を出した。

「瑠未ちゃん、頑張ってね」

 翌朝、玄関で靴を履いている瑠未に薫が言う。

「うん」

「弱気な瑠未ちゃんは瑠未ちゃんじゃないぞ」

「…私、結局何をすればいいかわからないよ。占う気なんかないのに、水晶持っているし…。わからないけど、何か持っていたほうがいい気がしたの。占いなんて信じてないのに、自分にはそういう力があることは信じている。その力が水晶を持っていった方がいいって伝えているのかも、とか思ったの。変だよね」

 視線を落とす瑠未の肩を薫は掴んだ。覗き込むように瑠未と顔を合わせる。

「瑠未ちゃん、大丈夫。思ったままに行動すればきっと上手くいくよ」

「…」

「…たぶん力とかじゃないんだよ。瑠未ちゃんの助けたいって言う気持ちがそう思わせたの。瑠未ちゃんは信じればいい。力とかじゃなくて、瑠未ちゃんの思いの強さを、ね?」

 瑠未はうなずいた。薫の言葉を聞くと、瑠未は大丈夫だと思えた。上手くいく。もう絶対誰も失わない。心の中で、自分に言い聞かせる。

 薫に小声で「ありがとう」と言うと、一歩一歩踏みしめるように学校へ向かった。

 神崎家の庭にも向日葵が咲いている。学校のものよりはるかに大きい花壇だ。向日葵は瑠未の大好きな花。1年前、瑠未が泣きながら植えた向日葵の種は、今では綺麗な花を咲かせている。その向日葵は遠くにある太陽をしっかりと見ていた。瑠未の背中を見送る薫は、その向日葵を見て、少なからず安心した。


 暑い陽射しが照り付ける。瑠未は太陽をふと見上げながら、こんなに緊張していても一日は流れていくんだな、と他人事のように思った。

 放課後、悠杜に話しかけよう。瑠未はそう考えていた。ただ、そう意識すると、途端に時計の針の進む速度がいつもより遅くなるのはなぜだろうか。瑠未は手のひらの汗を制服のスカートで拭う。一日中、手が汗で湿っていた。緊張しているのだ。その張りつめた雰囲気が周りにも伝わっていたのだろう。いつも休み時間には、瑠未の席に友だちが集まるのだが、今日は誰も来なかった。

「それじゃあ、HR終わり」

 担任のその掛け声により、ようやく放課後となった。静まっていた教室が一気にざわめく。待ち望んでいたはずなのに、瑠未は逃げ出したい気持ちになった。けれどぐっと拳に力を入れる。鞄をほんの少し開け、結花の写真を見た。軽く頬を叩き、悠杜の席へ向かった。

「あの…話があるんだけど」

 脈絡のないセリフ。クラスメイトのざわつく声が耳に入った。何か理由をつけて残ってもらうつもりはずであった。けれどもう遅い。周りが何か期待したような目を向けているのは気のせいではないだろう。嫌な汗が出る。

「なんか瑠未のお母さんの占いで、早瀬のこと占えって出たらしいよ。それやらないと不幸になるんだって。だから付き合ってあげて」

 助け舟を出したのは麻紀だった。短いスカート、茶色い髪、濃い化粧の麻紀は教師から問題児として見られがちだが、困っている人を放っておけない優しい少女だ。いつも一緒にいるというわけではないが、瑠未の親しい友人の1人である。

 瑠未は麻紀に今日のことを相談しているわけではなかった。それでもこんな助け舟を出してくれる麻紀に感謝をし、麻紀を見る。麻紀が小さくうなずいた。

「いいじゃん、話聞いてあげなよ。十分もあれば終わるでしょ?」

「え?あ、うん。大丈夫」

「ほら、そう言ってるし、早瀬、いいでしょ?人助けだと思ってさ。ね、瑠未」

 瑠未にだけ見せるよう麻紀がウインクする。そのしぐさを見て確信した。麻紀は勘違いをしていると。以前、言われたことがあるのだ。「瑠未って早瀬のこと好きだよね。バレバレだよ?」と。瑠未には、そんなつもりは全くなかった。けれど麻紀はそう断言し、瑠未の言葉を聞き入れようとはしなかった。そしてその勘違いのまま放置していたのだ。

 瑠未は聞こえないようにため息をつく。麻紀は瑠未が告白するつもりだと思っているのだ。そしてその告白の場をつくる協力をしているつもりなのだとわかった。事実とは違う勘違いにどうしていいかわからなくなる。けれど、都合のいいことに変わりはない。占うことになってしまったけれどこの際しょうがない、と開き直り、麻紀のついた嘘に自分ものった。明日、今日の顛末を問いだされ、くたくたに疲れるだろうことは、今は考えないでおく。

「えっと…、そうなんだ。だから、あの…協力してくれると非常に助かるんだけど」

 嘘が苦手な瑠未の声は微妙に震えていた。それが真実味を増したのだろうか、悠杜は嫌な顔せず、「いいよ」と言った。その言葉を聞いた麻紀は嬉しそうに笑い、みんなを教室から出させる。

「じゃあ、頑張ってね、瑠未」

 軽くウインクをして麻紀が最後に外に出た。教室は一気に静けさを取り戻した。

 瑠未は悠杜と同じクラスであっても、仲のいいどころか言葉を交わしたことさえあまりない。変な噂が流れてから瑠未は迷惑がかからないようにと、できるだけ関わらないようにしていた。沈黙が痛かった。

「えっと…神崎。…おばさんの占いってなんて出たの?」

「え?あ…えっと…不幸になるんだって」

「不幸?」

「うん。早瀬君のこと占わないと、……大切なものを失うんだって」

「…」

「…早瀬君?」

「…それは困るね。俺でよかったら付き合うよ」

「ありがとう」

「…だって、失うのは嫌だからね」

 悠杜は下を向いて顔をそらした。きっと同じことを思い浮かべたのだろうな、と瑠未はその姿を見て思う。

「本当にありがとう。…あ、ごめんね。部活に遅れちゃうでしょう?」

「いいよ。部活は無理やり入らせてもらっている感じだし、俺は来たいときに来ていいって言われているから。大丈夫」

 優しい笑みを浮かべた。その笑顔を見て、瑠未は改めてこの人を失いたくないと思った。

「そっか。じゃあ、お言葉に甘えるね」

「どうぞ」

「じゃあ、やるね。…座って」

 悠杜の席の前に瑠未も座った。鞄の中から水晶玉を出す。見られないように写真を見た。結花の笑みに小さくうなずく。「大丈夫」自分に言い聞かせた。

「ここに手を置いて」

 水晶玉を指さして言う。悠杜はうなずくとゆっくりと手をのせた。緊張しているようで手が少し震えている。

「緊張しないで。大丈夫。深呼吸して、目を閉じて。…それだけでいいの」

 目を閉じた悠杜の手の上に、自分の手をのせた。瑠未も同じように目を閉じる。


 瑠未の目の前に鋭い閃光が走った。目を開ける。瑠未は空を飛んでいた。小さく息を吐く。そこは、今までいた場所とは違う世界。悠杜の未来だった。身体が未来に飛ぶ。この占い方法は瑠未特有のものである。

 瑠未はあたりを見渡す。はっきりとした情景が見えた。瑠未はぐっと拳を握る。未来がはっきりと見える。それはその未来が訪れる可能性が高いことを示唆している。怖いと思った。けれど、目を閉じている時間はなかった。

 不安を抱えながら、あたりを見回す。目に入ったのは、赤いランプだった。2台のパトカーが止まっている。その横には、1台の救急車。泣き崩れる女性とその肩に手を置き、白い封筒を握りしめている男性。男性は目の前のビルを見ていた。

 瑠未はビルの真上に飛んで行く。ビルの屋上は、濃い緑色の柵。綺麗に並べて置いてあるのは男物の靴だ。

胸が苦しくなった。何があったのかすぐにわかる。そして、これは悠杜の未来だ。限りなく訪れる可能性の高い未来。

 瑠未は出てきそうになる涙を必死でこらえた。泣くぐらいなら手がかりを探せ、自分に強く言い聞かせる。

一瞬、目の前が真っ暗になった。もうすぐ現実に引き戻されるという合図だった。瑠未は頬を軽く叩いた。急いであたりを回る。

 日捲りのカレンダーがあった。日付は2日後の土曜日を示している。その日は瑠未にとっても特別な日だった。

 そうか、と瑠未は思った。悠杜が何を考えているのか瑠未にはわかった気がした。再び目の前が暗くなる。時間切れだった。ゆっくりと濃くなる闇。

 瑠未は自分の唇を噛んだ。神崎家の誰もが、こんな短い時間で占いを強制終了させられることはない。今まで逃げてきたつけが回ってきた。「どうして、もっと」今更言ってもどうしようもない。今の瑠未には自分を責めることしかできなかった。

 目の前の暗闇は消え、光が差し込んだ。目を開けると、そこはもうすでに現実であった。目の前には目を閉じたままの悠杜がいる。

 瑠未は、少しの間、悠杜の顔を見つめていた。短い黒い髪。整った顔。よくわからない占いなんてものに付き合ってくれる優しさ。そのすべてを失うことになるかもしれない。それがとても怖かった。

 

「もう。いいよ」

 目を閉じている悠杜にそう告げる。ゆっくりと開かれた瞳に自分の姿が映っていた。

「えっ?もう終わり?…なんか占いされたって感じがしないんだけど」

「私の占いの仕方だと、占いをされた方は放心状態みたい」

「へぇ~」

「早瀬君、気分とか悪くなってない?」

「大丈夫」

「よかった」

「ねぇ、なんて出たの?俺の占い」

 真剣な目が瑠未を見つめる。

「…今、早瀬君の歩こうとしている道は行き止まりでその先には進めないの。その道に進むことを望んでいる人なんて1人もいない。だから他の道を見つけて。新しい道はきっとあるから。……こんな感じかな」

「なんか本物っぽいね。でも俺的には最初の道の方がいい道だったりして…」

 まっすぐに瑠未を見て、悠杜はそう言った。しかし、すぐに「なんてね」と笑う。

「…」

「そういえば占い、十分もかからなかったな。これなら部活に出れるよ。まあ、後輩にまた来たとか言われるんだろうけど。それじゃあ俺、部活行くわ」

「つき合わせてごめんね。ありがとう」

 瑠未の言葉に悠杜は笑みを浮かべ、小さく手を振った。教室から出て行く悠杜の背中に、瑠未は誓った。

「絶対にもう誰も失わない」

 瑠未は軽く頬を叩く。風に当たるため、窓の近くに立った。下を見れば、花壇が視界に入る。大きく強い向日葵がこちらを見ているように見えた。

 向日葵と同じ世界を見てみたくなり、瑠未は左の窓枠をつかみ身体をほぼ半分外に出す。そして空を見上げた。太陽を見るが、まぶしすぎて何も見えない。目を細める瑠未の脳裏に先ほどの映像が浮かんだ。急に心細くなる。身体を戻し、机の上に出したままの水晶玉を鞄の中にしまった。急いで教室を飛び出す。

 学校を出て、家とは反対方向へ足を向けた。軽く走りながら向かう瑠未の額に汗が流れる。その汗を制服で雑に拭った。


 やけに涼しい風が、瑠未の火照った身体を冷ます。夏場でも薄暗いこの場所は、結花には似合わないなと瑠未は思った。ゆっくりと歩みを進める。そして止まった。

 一つの墓の前に立つ。そこには結花がいた。生けている花が少しだけ枯れている。瑠未は手ぶらで来たので後で何か買ってこようと思った。しゃがんで手を合わせる。

「結花、私どうすればいい?何をしてあげられるのかな?」

 決して返っては来ない返事を待つように瑠未は口を閉じた。静かな空間。瑠未は結花が側にいる気がした。ふと目を閉じる。結花の笑顔が脳裏に浮かんだ。

「結花、あのね…」

 そう言って結花に話しかけるのが、瑠未の癖だった。結花が生きているときも、死んだあともだ。そして、今日の出来事を結花に話すのだった。しかし、今、開きかけた口は、誰かの足音で壊される。

 瑠未は、とっさに近くにあった大きな木の陰に隠れた。少し涙ぐんだその顔を見られたくはなかったのだ。近づいてきた足音が止まる。誰だろうと、不思議に思いそっとのぞいた。

 悠杜だった。向日葵の花を生ける手つきは慣れている。悠杜は目を閉じ、数秒の間手を合わせた。目を開け軽く微笑む。幸せそうな顔に瑠未の胸は苦しくなった。そしてすぐに背を向け、去って行く。よく見れば、枯れていた花も向日葵である。おそらくそれも悠杜が持ってきたものだろう。

 結花の前に立った悠杜は優しさのあふれる目をしていた。瑠未の好きな目だった。

「結花に会いに行くんだね。…だから二日後」

 悠杜の幸せそうな顔を見て、瑠未は確信した。なぜ悠杜が死に向かおうとしているのかを。瑠未は隠れた木に寄りかかり滑るように座り込む。曲げた膝に腕を回し、自分の方に強い力で引き寄せた。涙でゆがんでくる視界を強制的にまぶたで塞ぐ。まぶたの裏に、結花の姿が浮かんだ。

「失うのは嫌だって言ったのに。どうして自分がいなくなったら悲しむ人がいることに気がつかないの?どうして…他の人にも同じ思いさせるの?…そんなことをして結花が喜ぶわけがないってわかっているでしょう?」

 もうこの場にいない悠杜に訴えた。

 結花の墓に飾られたばかりの数本の向日葵が綺麗に咲いていた。風が吹くたび揺れる。その姿は、結花に寄り添っているように見えた。座り込んでいた瑠未は立ち上がり、その光景を見る。結花と悠杜に見えた。幸せそうに見えてしまった。一瞬、瑠未は結花と悠杜が、天国で仲良く寄り添っている光景を想像してしまった。現世ではかなわなかった結花の夢。それでもいいのかもしれないとふと思った。

 しかし瑠未はすぐに首を横に振る。結花は自分のことより、他人の幸せを願うことのできる人だ。悠杜が死ぬことで得られる幸せなど望むはずはない。そのことを瑠未が一番よく知っているはずだった。

 瑠未は頬に残る涙を何回も拭う。深呼吸をすると、結花の前に立った。

「結花、ごめん」

 墓石に向かって深々と頭を下げる。頬を二回叩いた。悩んでいても仕方がない、そう言い聞かせた。自分のできることを精一杯やろう。結花の笑顔が絶えないように。

「結花、私、頑張るから」

 瑠未は握った拳をさらに強く握りしめ、そう誓った。

 オレンジ色の夕陽が世界を覆う中、瑠未は家に着いた。自分の部屋で心の中で整理し始める。悠杜が結花の命日に、結花に会いに行くつもりであること。そして、時間はおそらく、悠杜が結花に会いに行っていた時間であるだろうと目星をつけた。


 高校生活が始まって間もない頃だった。悠杜はサッカーの練習中に足を痛めた。重傷というものではなかったが、数回の通院が必要な怪我だった。「しばらくの間、安静にしていればもとに戻る」そう言われ、気持ちが焦るのを押さえながら悠杜は病院に通っていた。そしてそこで悠杜は出会ったのだ。色白で儚げな結花と。

 制服姿の悠杜に結花から話しかけたと瑠未はあとから聞いた。結花が通おうとし、病気のせいで通えなかった学校。そこの制服を着ていた悠杜に気がつけば話しかけていたという。

 結花は同じ高校に行きたかったこと。けれど、病気のせいでできなかったことを悠杜に話した。そしてその病は治らないとされていることを。それはひどく重い話であったが、結花は笑いながら親しげに話したのだ。悠杜はそんな結花をとても強いと感じた。その一瞬で、好意を持ったのである。

 結花も突然話しかけてきた病人の話を聞いてくれ、そして自分を周りと同じように扱ってくれる悠杜に好意をもった。「強い」と言ってくれたことがひどく嬉しかった。

 悠杜が病院へ行く日は必ず会うようになった。しかし通院が終わると2人は思いを告げることなく別れたのだ。けれど、結花は悠杜のことを知りたかった。だから、親友の瑠未に悠杜のことを毎日聞くようになったのだ。

 悠杜は何度も結花のお見舞いに行こうとした。しかし数回話をしただけの自分が訪れてよいのか悩み、行動に移せなかったのである。しかし悠杜の「会いたい」という気持ちはどんどん膨れていった。だから夏休みのある日、思い切って向日葵を持って病室に行ったのだ。向日葵は悠杜が好きな花だった。

 意を決して入った病室。けれどそこには寝ている結花の姿があった。通りかかった看護師によると、薬の副作用でこの時間はいつも寝ているらしい。それを知った悠杜は決めたのだ。明日からこの時間に訪れようと。少しの時間でいい。寝顔を見られるだけでいい。それでも会いたかった。ほんの数分、結花の顔を見る。それだけで悠杜は幸せだったのである。

 一方で、結花は目が覚めるたびに置いてある向日葵を持ってくる人物が誰か知りたかった。自分のことを知る人物ならば、向日葵を持って来るわけがないとわかっていたから。そしてどこか悠杜であってほしいという想いがあった。けれど期待した分、答えを聞くのが怖くて、誰にも向日葵の人物について聞けなかったのである。

 もやもやしたまま、1か月が過ぎようとしていた時だった。医師の都合で薬を飲む時間がずれたことがあった。そのとき結花は初めて知ったのだ。向日葵を飾る人物は悠杜だと。そうであってほしいと願っていた分、嬉しかった。幸せだと思った。けれど結花は悠杜だとわかっただけでよしとしたのだ。悠杜が病室にいる間、ずっと寝たふりをして過ごし、話しかけることはなかった。

 言葉を交わさなくても、悠杜が側にいてくれる。それがたとえ短い時間でも、結花には幸せだった。でも、自分感じていいのはその幸せまでだと思った。これ以上仲良くなれば、大好きな人をより傷つける。そう思った。それが結花にとって一番つらいことだった。

 自分の背負った運命を聞いたとき、恋なんてできないと思った。でも、今恋をしている。静かでゆっくりだが、しかしちゃんと動いている恋を。その事実だけで結花は幸せだった。

 結花は医師に頼み、薬の時間を変更してもらった。悠杜が来る時間にちゃんと起きていられるように。そしていつも寝たふりをした。けれど何日も寝たふりをしていれば、悠杜も気づく。そして悠杜が気づいていることに結花も気づいていた。それでも2人はそのまま2人だけの時間を続けた。言葉を交わすことなく。それは、悠杜がロードワークを口実に部活を抜け出し会いに来る、たった10分間のデートだった。

 瑠未はその話を結花から聞いていた。結花に会いに行くならば、悠杜はきっとその時間にする。根拠はないが瑠未は確信していた。自分ならきっとそうするから。

 あとは場所だった。その場所に行き、悠杜を思いとどませる。それが瑠未の考えた作戦である。しかし、ビルという手がかりしか今はない。手当たり次第に占いで見たビルを探すしか方法が見つからなかった。瑠未は今できることをやろうと心に誓う。久しぶりの占いで疲れ切っていたため、目を閉じるとすぐに意識は瑠未から離れていった。


 朝から生暖かい風が髪を揺らした。乱れた髪を直しながらふと、空を見上げる。綺麗な空の青が視界に入った。

 瑠未はいつもと同じ時間に学校へ行き、いつものように朝練中の悠杜を見ていた。そこには、昨日と変わらない悠杜がいた。向日葵に似ている悠杜は、太陽をまぶしそうに眺めている。朝でも暑くなってきたこの季節にも手を抜かない悠杜を、瑠未は改めてすごいと思った。少し悠杜から目を離し、背中を窓に向けて座り直す。長い髪を持ち上げ、首にかいた汗を風によって乾かした。

 人の気配に、瑠未はドアの方向に目をやった。入ってきたのは麻紀だった。まだこの時間には、瑠未の他に教室に来るクラスメイトはいないはずだ。

「瑠未、昨日どうだった?」

 やけに楽しそうな麻紀に瑠未はため息をつきそうになる。そんなことを聞くためだけに早起きしてきたのかと思うと瑠未は呆れ、また感心した。

「どうって?占いは…上手くいったような…。いや、途中で終わっちゃったから成功とは言えないかな」

「そんなことどうでもいいの!…もしかして本当に占いだけやったわけ?」

「うん。そう言ったの麻紀じゃん。本当は占いしようかどうか迷ってたんだよ。麻紀すごいね」

「ってことは告ってないの?」

「告るもなにも、私早瀬君のこと好きなわけじゃないし」

「せっかくのチャンスだったのに…何してるの?」

「話、聞いてる?早瀬君のこと好きじゃないんだって」

「なら何でいつも見てるの?」

「前に話さなかった?」

「結花って子の話?」

「うん」

「瑠未、その子に遠慮することないと思うよ。もっと正直に生きようよ」

 真剣な麻紀の言葉に呆れながら瑠未は言葉を返そうとした。けれど、麻紀は瑠未の言葉の上にかぶせるように言った。

「だって瑠未、笑顔だもん」

「え?」

「瑠未、早瀬を見てるとき笑顔だよ。すっごくかわいい笑顔」

 瑠未はほんの一瞬だけ戸惑ったように口を閉ざした。しかしすぐに首を横に振る。

「それはきっと結花のこと思い出しているからだよ。結花ならこんな顔かなって無意識にしてるんじゃない?」

「そんなんじゃないよ。あれは、恋している顔だよ」

「それはないよ。…早瀬君に恋をすることだけはないよ」

「やっぱり、気にしてるの?好きになっちゃいけないって自制してる?……でも、それを結花って子は喜ぶかな?」

 苦しくなる。なぜか泣きたくなった。けれど瑠未はそれに気づかないふりをして首を横に振る。

「そんなんじゃないよ。私が早瀬君を好きになることは絶対にないってだけ」

「…」

「でも、いろいろありがとうね。昨日は本当に助かった。麻紀が私のこと心配してくれるのも嬉しいよ」

「瑠未ってばかなんだね」

「え?」

「好きなら好きって言っていいのに。好きになっちゃいけない人なんていないんだよ」

「…」

「でも、この話はもうおしまいにしてあげる。ただ、あんまり自分を責めないでね」

 麻紀の言葉に瑠未は小さく頷いた。

「今度なんかおごってよね」

「了解です」

 瑠未がそう言うと、膨れ面の麻紀が笑い出した。つられて瑠未も笑う。ここ数日の変な疲れが取れた気がした。早く来て損した、笑顔の麻紀が軽く瑠未を叩いて言った。

 その後教室に人が次々と入ってきた。その中には汗をふいたタオルを首に巻いている悠杜もいる。

 悠杜はこの一日、いつも以上にクラスの中に溶け込み、クラスを盛り上げた。笑い声がいつもより大きい。それは、明日で世界が終ることへの反動からだろうか。そんな悠杜を見ていると瑠未は苦しくなった。見ていられなくて視線を逸らす。瑠未は明日のことを考えた。

 自分に悠杜を止められるのか。何度も繰り返した問いだった。悠杜と結花が交わした会話は少ない。それでもこれからの長い人生を終わりにしてでも会いに行こうとする悠杜の気持ちは、大きすぎるほど大きい。瑠未にはその強い気持ちを止める自信はなかった。また自分に止める権利があるのかも考えた。瑠未だって結花に会いたい。結花が望んではいないとわかっていても会いたい衝動に駆られることがある。

 それでも瑠未には結花の写真があった。2人で遊んだ時記憶も、撮ったビデオの映像もある。自分は悠杜に比べれば恵まれ過ぎていた。そんな自分が悠杜を止めていいのだろうか。

 しかし途中でその思考を停止させた。権利なんてどうでもいい。結花に幸せでいてほしい。悠杜にだって笑って欲しい。結花がこれからも優しい笑顔を絶やさないように、自分にできることを精一杯やろう。いつも以上の悠杜の笑顔を見ながら、瑠未は決意を固めた。

 

 学校が終わると、瑠未は急いであのビルを探し始めた。今日中に見つけなければならない。時間がなかった。その事実が瑠未を焦らす。

 瑠未はまず、なんとか担任から聞き出した悠杜の家に行ってみた。しかし悠杜の家の周りには、ビルどころか大きな建物もない。学校からさほど遠くはないのだが、一気に自然が増していた。ここではない、悠杜の家の付近を見て回った後、瑠未は確信した。

 次に、結花が入院していた病院の周りを探す。いくつかビルがあり、屋上つきの高い建物も数えきれないほどである。けれど、瑠未はその一つ一つに登った。病院の周囲、と言っても一直線に対象物が並んでいるわけではない。結局、一時間半経っても半分以上、残っていた。あの特徴的な緑色の柵のあるビルは見つけられない。

 瑠未は人目を気にせずしゃがみ込んだ。脚が痛い。休むことなく動いていた脚が悲鳴を上げている。ここ最近、運動らしい運動をしていなかったことも原因の一つだろう。またそれ以上に、焦る瑠未には変な力が入り、余計に疲れが増すのだ。休みたい。早く探さなくては。その矛盾した思いが瑠未から冷静さを奪っていく。

「どうしよう…」

 今にも消えそうな声が何度も出た。暑さから出てくる汗と、冷汗が背中を流れる。少しの間そのままの状態でじっとしていた。しかしすぐに、立ち上がる。足はある場所に向かっていた。

 瑠未の視線の先には、大きな建物があった。白を基調とした清潔感の漂う建物。それは、結花のいた病院だった。何か案が浮かぶかもしれないと思い足を運んだ。藁にもすがる思いだった。

 瑠未は病院の入口の前に立つ。人を感知した自動ドアが瑠未を迎えた。入った途端、ひんやりとした冷気が、瑠未の火照った体を冷やしてくれる。1年前とほとんど変わってないその場所。瑠未は自然と懐かしさを覚えた。思い出に浸りながら、あてもなく歩いていく。

 この病院に瑠未は何年も毎日のように通い続けていた。それが瑠未の日課だった。けれど、結花が死に、病院自体が嫌いになった。

 どうして、結花を助けてくれなかったのか。そんなことを喚いても、結花は喜ばない。けれど、思わずにはいられなかった。だから、今、自分が抵抗なく病院の中にいることが、瑠未には不思議だった。結花が呼んでいるのかもしれない。そんな非科学的な事さえ考えてしまう。

「…あれ?どうしたの?」

 歩いていた瑠未の耳にそんな声が入る。振り向けば、綺麗な看護師が軽く右手を挙げ、笑顔を浮かべていた。それは、結花を担当していた看護師の春香だった。瑠未は軽く会釈する。

「瑠未ちゃん、どこか悪いの?」

「えっと…そう言うわけではないんですけど」

 ピンピンしている自分の姿を見て、診察という嘘はつけなかった。適当に誤魔化そうとしたのだが、上手くいかない。目の前の春香は軽く首を傾げた。

 何か言葉を発してしまうと、逆効果を与えてしまいそうだったので、瑠未は、苦笑いを浮かべたままやり過ごすことにした。それを見た春香は少し涙目になる。そして瑠未の手を引いた。

「ちょっと来て」

「…え?」

 戸惑う瑠未を無視し、春香は先を進んでいく。

「え?ちょっと…。春香さん?」

 瑠未の戸惑いの声は、春香の耳に届いていないようだ。仕方なく、瑠未は春香の後についていく。気がつけば、見慣れた部屋に案内されていた。そこは、結花のいた病室。

「今ね、結花ちゃんの後にこの病室に入った患者さんが奇跡的に回復して、大部屋に移ったの。だから、ここでゆっくりしてってもいいよ?」

「…え?」

「結花ちゃんに、会いに来たんでしょ?ここが一番、結花ちゃんとの思い出が詰まっているもんね」

「…」

「もう、明日で一年なんだね」

 春香の言葉に思わず驚いて瑠未は春香の顔を見た。命日を覚えているとは思わなかったからだ。表情で読み取ったのか「憶えてるよ、結花ちゃんのこと」と一言告げた。どこか悲しくなる声だった。

 瑠未は周りを見渡す。確かにそうだと思った。病院が思い出の場所だった。それは、なんだか心地よくない響きだが、事実そうなのだ。瑠未と結花がともに多くの時を共有した場所。きっと、この部屋にはどこよりも、結花の想いが詰まっているのだろう、と瑠未は思う。

 病院なんて、大嫌いだ。けれど、ここが思い出の場所なのだ。瑠未は、矛盾している想いの整理がつかず、言葉を失っていた。

 春香はその部屋を片付けている最中の職員を外に出させた。結花の部屋だったその病室に瑠未1人を残す。

「ゆっくりしていっていいからね」

 もう一度そう言う春香に、「ありがとうございます」となんとか返すことしかできなかった。瑠未は1人残されたその部屋で一度大きく息を吐く。予想もしていなかった展開に混乱していた。しかし、次第に自分の中の焦りがなくなっていくのがわかった。

 ベッドに触れてみる。置いてあるテレビも部屋の雰囲気も何も変わっていなかった。首や脇の汗が、病院の涼しさによって乾かされていく。

「このテレビで、2人でいろんな番組見たな。あ、…この傷まだ、あったんだ」

 自然と言葉が口から出た。それは、何年も前の鮮やかな思い出のようだった。

「まだ、たった1年…か」

 ベッドに腰掛けた瑠未の口から勝手にその言葉が出た。思いがけないその言葉に軽く苦笑いをし、部屋をもう一度見渡す。何気なく目に入った窓の外の景色に、瑠未は思わず息を飲んだ。

 病院の近くにはいろんな建物が密集している。しかしこの病室から見える先は視界を邪魔するものがなかった。この窓の幅ほどの、建物と建物でつくられた道ができている。そしてその道の先には、屋上がこの部屋と同じ高さのビルが見えた。

 病室から見えるそのビルの屋上にある柵は緑色に見えた。ああ、そうかと瑠未は思った。あの場所か、と。結花との思い出の詰まったこの部屋が見える場所で悠杜は死ぬつもりなのだろうと瑠未は確信した。

 瑠未は急いで立ち上がる。結花との思い出の詰まったその場所から離れた。向かいのビルに急ぐ。迷うことはなかった。行き方は簡単なのだから。まっすぐ進めばいい。瑠未は半ば走るように目的地に向かった。

 瑠未は息を切らしながら、ビルの入り口の前に立つ。ゆっくりと、あたりを見回した。

「あそこには、パトカー。あそこで女性が泣いていた」

 瑠未が見た光景を声に出してみる。瞼に浮かんだ占いの映像がやけにリアルで苦しくなった。一度、自分の頬を叩き大きく息を吐く。屋上に続く階段を登った。

 屋上には気持ちいい風が吹いていた。その風が瑠未の長い髪を揺らす。病院を目の前にして立ち、瑠未は柵をつかんで下をのぞいた。多くの車や人が通っている。瑠未は病院を背にし、反対側へ行き同じように下を見た。その下は、空き地のようになっており、誰もいなかった。薄暗く、子どもの遊び場にもならない場所。

 悠杜の性格からどちらから飛び降りようとしているかすぐにわかる。頭の中で、嫌なイメージが流れた。瑠未は数回激しく頭を横に振る。そしてまた病院の方に体の向きを変えた。緑色の柵。ここから見えるあの病院。すべてがつながった。瑠未は大きく深呼吸する。

 大丈夫、自分に言い聞かせた。眺めた空の色が変わっている。そう言えば、何時間も探し回ったな、と他人事のように思った。

 瑠未は明日ここに来て、悠杜を止めよう、と決意を新たにする。ビルから見える結花のいた病院が、夕日に照らされオレンジ色に染まっていた。その光景がどこか神秘的に見える。

「ねぇ、結花…。私、頑張るね」

 そう告げる瑠未の髪もオレンジ色に染まっていた。


 朝の7時。目覚まし代わりの薫が来る前に、瑠未は目を覚ました。今日は大事な日だ。1年前、結花が、瑠未や結花の両親また瑠未の両親に見守られながら息を引き取った日。ずっと、一緒にいようと言っていた結花が動かなくなった日。忘れるわけがないと思う。泣きそうになるのを瑠未は堪えた。薫は瑠未を起こしには来なかった。瑠未が起きることがわかっていたのだろう。

「瑠未ちゃん、おはよう。御飯できてるよ」

 部屋から出ると、下の階から、薫の声が聞こえた。

「はい」

 瑠未は朝から両親とともに結花の一周忌の法事に出てることになっている。食事を済ませると、もう一度部屋に戻り、黒い喪服に身を包んだ。線香のにおいが染み付いたはずのその服は、何のにおいもしなかった。薫がクリーニングに出してくれたのだ。何のにおいもしないただ黒いだけの服。クリーニングになんか出さなきゃよかったのに、と瑠未は黒い服に身を包んだ自分を鏡越しに見ながらそう思った。


 瑠未と結花の出会いは、記憶にもない小さな頃だった。瑠未の両親と結花の両親同士が仲良く、自然といつも一緒にいた。瑠未の両親は結花を、結花の両親は瑠未を自分の子どもと同じようにかわいがっていた。本当にいつも一緒だった。まだ言葉を発する前から本当にずっと傍にいたのだ。

 瑠未にとって結花は友だちであり、家族だった。だからこそ、本来身内のみでやる一周忌にも参加している。結花の両親もそれを望んでくれたからだ。

「瑠未ちゃん、ありがとう」

 同じように喪服に身を包んだ結花の両親が頭を下げる。瑠未は首を横に振った。お礼を言われることなど何もしていない。

「あの子、きっと天国で幸せに暮らしているわ」

 空を見上げ、結花の母が言う。

「…うん。そうだよね」

「瑠未ちゃん。…今も、結花の友だちでいてくれて、ありがとう」

「そんなこと、言わないで。おばさん。感謝なんかしてもらいたくないよ」

「…そうね。…ごめんね」

「……私たち、ずっと、友だち。…いいでしょ?」

 瑠未は泣きそうだった。その瑠未の頭を大きな手がなでてくれる。結花の父親の手だった。

「ああ」

 彼はそれだけ言った。目は、潤んでいるようだった。

「うん」

 瑠未もそれだけを告げた。結花の母は耐えられなくなったのか、薫の胸を借りて泣いている。結花は、本当に愛されていた。瑠未はそれを改めて思った。


 瑠未は午前中だけで切り上げ、急いで着替えを済ませると、その足で墓参りに行った。2日前の向日葵の花がほんの少しだけ枯れ始めている。けれど、綺麗に咲いていた。空高くにある太陽だけをひたすら見つめている。もうすぐ結花の両親が新しい花を持って来るだろう。そう思ったが、瑠未は、側にある木の下に咲いていた蒲公英を一本摘んだ。向日葵と一緒に生ける。

 その光景は結花と悠杜に見えた。小さくでも懸命に生きる蒲公英は結花らしい。結花の優しい笑顔も蒲公英のようだった。瑠未はしゃがんで手を合わせた。結花に軽く笑みを送る。

「大丈夫だよ」

 結花と自分に言い聞かせた。

「それからね…ずっと、友だちだよ?何年経っても。…おばさんは『ありがとう』って言ってくれたけど、『ありがとう』なんていらないからね」

 瑠未の声に反応するように、蒲公英が少し揺れた。それに笑みを向けると、立ち上がった。しばらく向日葵と蒲公英が寄り添う姿を眺めていたかった。しかし時間が気になった。

 左手に付けている時計を一瞥する。まだ余裕はある。それでも、足は勝手に動き始めた。足を懸命に動かしながら、瑠未は、結花のことを思い出していた。

 瑠未と結花の両親は大学で知り合った友だち同士だ。その縁もあり、結婚し、家を建てるときにはできるだけ近くに立てるようにしたのだという。瑠未と結花は生まれてからは毎日のように、お互いの家を行き来した。だから瑠未は結花と本当に小さい頃からずっと一緒にいた。

 どこにでもある一般的な家庭だった。けれど、結花がやっと立てるようになったころだった。40度を超える高熱を出し、病院に運ばれたのだ。原因はわからなかった。結花はその頃から入退院を繰り返すようになった。そのため結花は学校にほとんど行ったことがない。友だちもできなかった。だから結花にとって瑠未が唯一の友だちであった。

 瑠未は結花の病院を毎日のように訪れた。結花の体調がいい時は、病院の庭で遊んだ。体調が悪い時は、ただ側にいて話をした。

 瑠未には他にも友だちはいた。でも瑠未にとって結花が親友であった。結花にしか言えないことがたくさんあった。結花にとって瑠未が心の支えであったように、瑠未にとっても結花が心の支えだったのだ。

 しかし中学2年生になったとき、瑠未は結花の両親の会話を聞いてしまった。結花の命は奇跡が続いても3年続くかどうかだと。原因不明の病に加え、弱くなった結花の身体はほかの病にも侵されていたのだ。

 つらかった。その事実を正面から受け止められるほど、瑠未は大人になりきれていなかった。けれど、自分が悲しそうな顔をすれば、結花も同じ顔をする。瑠未が悲しめば、結花はそれ以上に傷つく。だから瑠未は自分の心の中で誓った。笑って暮らそうと。そして、学校に行けない結花のために、瑠未は学校帰りにいつも病院に行くと、今日の出来事を結花に伝えた。結花は知らないことを、瑠未の目を通して知っていった。

 瑠未は時間があるときは、できるだけ結花に会いに行こうと決めていた。そしてそんな時、悠杜という存在が現れたのだ。悠杜の話を聞く結花は、本当にかわいかった。照れて笑う結花。結花の新たな一面を見ることができた気がして嬉しかった。また結花も悠杜のことを瑠未に話してくれた。

「今日は、ちょっと元気がなかったみたい。大丈夫かな?」

 会話をしなくても、結花と悠杜は通じ合っていた。会話のない2人だったが、その中を流れる雰囲気は温かかった。その雰囲気で、結花は悠杜の心情を見抜いていた。だからこそ結花は同じ気持ちであることを声に出さなかった。

 悠杜に話しかけていれば、もっと仲良くなれたはずだ。もっと、「好き」だと思えたはずだ。それでも、結花は声には出さず、心の中だけで、悠杜に語りかけていた。どこか元気のないときは、心の中でずっと励ましの言葉を送り、元気なときは一緒に喜んだ。そこまで結花に想われている悠杜は幸せだ、と瑠未は思った。

 だからあるとき、瑠未は結花に言ったのだ。

「好きなんだから話しかければいいのに」

 瑠未の言葉に結花は微苦笑を浮かべながら、しかし強く首を振った。

「好きだからだよ。…好きだから、これ以上仲良くなっちゃダメなの。好きだから。これからも笑顔を絶やさないでいてほしいから」

 そう言った結花の目は、優しかった。


 瑠未は左手につけている腕時計を見る。あと一時間だった。瑠未はビルの目の前に立った。階段を登る足が一瞬止まったが、すぐに動き始めた。徐々に近づいてくる空を見上げながら進んで行く。階段を登り終えると、そこにはもう時計を気にしている少年がいた。

 悠杜だ。さわやかな風が悠杜の短い髪を揺らす。その髪はどこか、結花の墓に生けられていた向日葵に似ていた。悠杜は静かに空を見上げている。

 ビルの屋上から見えるこの街は静かだった。車の騒音が騒がしく響き渡っている。それでも、瑠未にはその音が小さい音に聞こえていた。

 瑠未は3回深く息を吸い、吐き出した。自分に気合いを込め、悠杜に近づいて行く。瑠未の足音に気付いたのだろうか、悠杜が振り返った。

「え…?」

 瑠未を見て悠杜は動揺した。その悠杜に瑠未は笑みを向けた。

「止めにきたの」

「…何を?」

「早瀬君がしようとしていること」

「…占い…か?」

 疑うような、少し軽蔑するようなそんな顔を瑠未に向けた。瑠未は首を横に振る。占いでわかったことも確かにある。でもこのことを一番初めに教えてくれたのは占いではない。

「じゃあ?」

「結花が教えてくれたよ。…結花は私の親友なの」

 結花、という名前に悠杜は反応した。悠杜の顔に驚きの色が出る。しかしそれはすぐに消えた。

「なら、神崎だって俺の気持ちがわかるだろ?行かせてくれ。結花さんに会いたいんだ」

「私は、…私が一番結花のことわかっているつもり。結花はそんなこと望む子じゃないよ」

 悠杜は、しばらく黙ったまま、瑠未の目を見つめていた。瑠未は、その視線から逃れたかった。いつも優しい悠杜の目ではなかったから。

 怖かった。けれど、瑠未もまた、悠杜の目をずっと見つめていた。視線を外すことはなかった。

「わかっているよ、そんなこと」

 沈黙を破ったのは、悠杜だ。

「それなら…」

 瑠未は、言葉を続けようとした。しかし、それは遮られる。

「俺だって…交わした言葉は少ないけど、でも、結花さんのことちゃんと見てきた。誰かが死ぬようなこと望む人じゃない。そんなこと言われなくてもわかっているよ」

 どこか泣きそうな声。

「じゃあなんで?早瀬君死んだら結花、悲しむよ。」

「それでも!」

 悠杜の声が大きくなる。怒鳴るようなその声は、今までため込んでいたものを、はき出すようだった。

「それでも、俺は結花さんに会いたい!…結花さんのこと忘れてしまいそうだから」

 悠杜の目がうるんでいるようだった。しかし、逆光で表情はよく見えなかった。

「…」

「…結花さんだけをずっと想っていようって決めたんだ。結花さんがいなくなったあの病室で、結花さんに約束したんだ」

「…」

「でも…俺は結花さんがいなくなっても、笑うことができた。結花さんのいない毎日に慣れてきた。…結花さんの顔を、声を上手く思い出せなくなってきたんだ」

「…うん」

「忘れたくないんだ。結花さんを忘れるくらいなら、死んだほうがいいんだよ!」

 つらいのだと瑠未は思った。苦しくて、つらくて、どうしようもないのだと。結花を忘れそうになっている自分が許せないのだと。

 悠杜に本音をぶつけられ、瑠未は返す言葉が思いつかなかった。言えるわけがなかった。瑠未も同じように感じたことがある。結花のいない毎日に慣れてしまう自分を心の底から恨んだことがあった。

 けれど、瑠未はまっすぐ悠杜の目を見て言った。

「どうして、忘れちゃいけないの?」

「え?」

「どうして、忘れたらだめなの?」

「神崎…何言ってんだよ?忘れたら、だめに決まってるだろ?結花さんは、俺らの中にしか生きていけないんだよ。俺は、…結花さんをずっと好きでいたいんだ」

「そうだね」

「それに、それが結花さんにちゃんと気持ちを伝えられなかった俺の罪滅ぼしでもあるんだから」

「…罪滅ぼしなんて言わないで」

 声を荒げることはなかった。けれどそこには確かな怒りがこもっていた。

「…」

「罪滅ぼしなんて、言わないで。結花は、早瀬君を好きになったこと、誇りに思っている」

「…」

「言葉を交わさなくても、2人は通じ合っていたでしょう?」

「…罪でなくても、…でも、忘れたらだめだろ?」

「そうだね。でも、忘れたらだめなんて思わなくても、早瀬君は忘れたりなんかしないでしょう?」

「…」

「もし、それでも忘れちゃうなら、忘れてもいいってことなんじゃないの?」

「そんなこと、…言うなよ。忘れてもいいなんて…。俺は、…忘れたくなんかない。結花さんを好きでいたい」

 こらえきれなかった涙が、悠杜の頬を伝う。けれど、それ以上に瑠未は泣いていた。『忘れてもいい』なんて、本当は言いたくない。絶対に忘れないでほしい。けれど、忘れてしまうような想いであったのだろうか。あんなにかわいい顔をして笑う結花の想いは、そんなに小さいものだったのだろうか。

「結花はきっと早瀬君の中で生きているよ。だって、2人の絆は強いから。言葉がなくたって、繋がってたじゃない」

「…」

「ねぇ、曖昧な記憶とかそんなものに惑わされないで。大丈夫だよ。早瀬君の中の結花に顔がなくなっても、声がなくなっても、それが結花だから。写真とかじゃなくて、私や早瀬君の中にいる結花が本物の結花なんだから」

「…」

「いいの。忘れても。…心の中に結花がいれば、それでいいの」

「…」

「お願い。自分の気持ち信じて。結花の気持ち信じてあげて。…結花は早瀬君のこと本当に好きだったの。その気持ち、疑ったりしないで」

 こぼれてくる涙が止まらなかった。けれど拭うこともせず、言葉を続ける。

「…結花、言ってたんだ。息を引き取る何日か前に。きっと自分の死期がわかってたんだと思う。…悠杜君が好きだって。幸せでいてほしいって。自分以外の誰かといてもいいから幸せになってほしいって」

「…結花さん」

「結花は最後の最後まで早瀬君の幸せを願っていたの。…結花は本当に早瀬君が好きだったから。だから、早瀬くんも結花を本当に好きなら、生きてあげて。それが結花の願いなの」

「…それが結花さんの願いでも、俺は、…俺を許せない」

 まっすぐな視線が、瑠未に注がれた。瑠未は視線を少し逸らし、結花のいた病院を見つめた。

「結花、向日葵大嫌いだったの」

「…え?」

「なんで何の見返りもないのに、ひたすら太陽を目指し続けられるのかわからないって。そんなの自分は嫌だって。限られた時間、太陽だけをただ見て、結局何も手に入らないなんて嫌だって」

「…そうなんだ」

「でもね、早瀬君が向日葵を持ってきてくれたから、結花は向日葵を大好きになった。明るく笑う早瀬君そっくりだって。向日葵を見ていると、早瀬君といるみたいだって、少し恥ずかしそうに言ってた」

「…」

 悠杜は黙っていた。そんな悠杜に、瑠未がさらに続ける。

「早瀬君は結花にとって太陽だったの。例え届かなくても、それでも目指したいって少しでも近づきたいって思える太陽だったの。早瀬君にとってもそうだったんじゃないの?だから自信持って。結花を信じて」

「…」

「あの向日葵嫌いの結花を、向日葵好きにしたんだよ?早瀬君は。…早瀬君は、結花に想われてた。悔しいくらい、大切にされてたの。…だから、あなたは、生きて。結花と一緒に」

 悠杜は右手で、涙を拭った。そして、一度振り返る。結花のいた、結花と悠杜の思い出の詰まった病院を見た。病院を見つめたまま、悠杜が瑠未に語りかける。

「…俺は、結花さんが大好きだった」

「…うん」

「でも…いつかこの想いがなくなってしまいそうで怖いんだ。明日も結花さんに会いに行く。そう思うだけで俺は一日頑張れた。でも…もうそれがない」

「…」

「怖いんだ。結花さんの姿を思い出せなくなって、結花さんを忘れていく…。好きって想いが、義務になりそうなことが怖い。そんな気持ちのまま想われることを結花さんは望まないのに」

「結花は、早瀬君に他に好きな人ができても、責めたりしないよ?」

 悠杜は振り向き、瑠未に向かって頷く。

「…うん。わかってる。わかってるからこそ、結花さんを好きでいたいんだ。だから、忘れたくなんかないんだ。だから忘れるのが怖いんだ」

「…」

 瑠未は何か言わなくてはいけないと思った。しかし上手く言葉が出ない。そんな瑠未を見て、悠杜はかすかに笑った。

「…でも、結花さんが生きて欲しいって言うなら、…もう少し頑張ってみよう…かな」

「え?」

「死ぬのは止める。…思い出の中でも、結花さんはいるから。だから俺は…きっと大丈夫…だと思うから。けれど…やっぱり怖いよ。結花さんのこと忘れて、誰かを好きになるかもしれない。…それが怖い」

「結花はきっとそのことを望んでいるよ。結花は誰よりも、きっと私なんかよりも早瀬君が幸せになることを望んでいる」

「…」

「でもさ、…向日葵を見るときだけは思い出してあげて。たぶん、それだけで十分だと思うの」

「うん。…でも」

 うつむいたままの悠杜。瑠未は結花に言われた言葉を思い出して言う。

「…私ね、結花に頼まれたことがあるの。自分の分まで幸せに生きてって。いっぱい笑ってって。でも、2人分の幸せをつかむのは難しいから、半分請け負ってくれない?」

「結花さんの…幸せ?」

「うん。2人で3人分、それ以上の幸せを掴もうよ」

 悠杜は考え込むようにうつむいた。その姿を瑠未はただ見つめていた。悠杜の後ろにある病院が視線に入ってくる。瑠未は、結花の笑顔を思い出した。悠杜が笑ってくれば、またあの優しい瞳に戻ってくれれば、結花はずっとあの笑顔でいられる。瑠未は、そう思う。

 たとえ、誰か他の人を好きになっても。たとえ、自分より幸せになっても。悠杜の幸せを結花は祈っているはずだから。

 悠杜は結花の笑顔を思い出した。なぜ、忘れるなどを思ったのだろう。こんなにも鮮明に憶えているのに。忘れたくても、忘れられるはずがないのだ。

 喧嘩をしてみたかった。好きだと目を見て伝えたかった。怒った顔も、泣いた顔も、色んな彼女をこの目で見たかった。どれもこれもできなかった。結局彼女のことを何も知らない。けれど、それでも好きになれた。それだけでもう、幸せなのだ。

 しばらくの沈黙の後、悠杜は顔を上げた。その顔には笑みが浮かんでいる。

「…俺、結花さんの分も幸せになるよ」

 まっすぐにそう言った。涙の跡が頬に残っている。それでも、大きな太陽を見つめる向日葵のような笑顔だった。

 悠杜はズボンのポケットに手を入れた。封筒を取り出す。中から一枚の手紙を出し、それを細かく破り、上に投げた。風によってその紙が舞う。季節はずれの雪に見えた。

 ありがとう、瑠未は心の中で結花に言う。自分だけでは悠杜はきっと止められなかった。結花がいてくれたから、結花が本気で悠杜を好きだったから、悠杜が今ここにいてくれる。笑顔を絶やさないでいてくれる。瑠未は嬉しかった。

 そのころ結花の両親が結花の墓に新しい花を生けていた。大きい花びらの黄色い向日葵だ。風が向日葵を揺らす。向日葵が気持ちよさそうだね、と、結花の両親は結花に語りかけていた。笑顔のような向日葵は、太陽を見つめていた。たとえ遠くても、届かなくても向日葵はただあの太陽に近づこうとしている。


 瑠未と悠杜はビルから降り、別れを告げた。しかし瑠未はまだ心配で、少しの間悠杜の背中を見ていた。その背中が瑠未から2メートルほど離れた場所で急に振り返る。振り返り、瑠未の前に戻ってきた。悠杜はいつもの笑みを浮かべている。

「…神崎、ありがとう。俺はもう大丈夫だ。俺、結花さんの分まで幸せになるから」

「うん」

「だから心配しなくてもいいよ。結花さんは俺の中にいるから」

「そうだね。そうだった」

「あ、そうだ。ずっと聞きたかったんだけど、神崎が俺の事観察してたのって、やっぱり結花さんが関係するの?」

「え?…知ってたの?」

「いや、あれだけわかりやすければな」

「…早瀬君のことを結花に話すのが日課だったの。…でも、もうやめるよ」

「そっか」

「嫌な思いさせてごめんね」

 瑠未の謝罪に悠杜は首を横に振った。

「嫌だと思ったことはないよ。…観察はしなくてもいいから、時々サッカー応援に来てくれよな。大学でもサッカー続けるつもりだから」

「…いいの?」

「ああ。そうしてくれると嬉しい。神崎が見てくれてる日は、いつも以上に動ける気がするんだよ」

「…ありがとう」

 なんだか泣きそうになって瑠未は俯いた。

「あと、一つ訂正」

「何?」

「結花さんが自分なんかより俺の幸せを願ってるって言ったけど、違うと思う」

「え?」

「たぶん、結花さんにとって神崎が一番大切な人だったと思うよ。結花さんと話をしたときには、いつも神崎の話が出てたから」

「…」

「あの『瑠未ちゃん』って人が神崎だとは思わなかったけど」

 悠杜の言葉に瑠未は再び泣きそうになった。瑠未の頭に悠杜は手を乗せた。髪を梳くその手つきが優しかった。

「じゃあ、月曜日にな」

「うん」

 うなずく瑠未に悠杜は軽く手を振った。離れていく悠杜の背中が大きく見える。瑠美は、「よしっ!」と拳を握った腕を曲げ、自分の方に引き寄せ気合いを入れた。

「私も頑張るぞ!!」

 人混みの中、大きな独り言を言い、大股で家に向かう。


「ただいま」

 ここ数日にはなかった元気な声で言った。その声に反応して薫が瑠未を出迎える。

瑠未の笑顔を見ると、薫のこわばっていた表情が和らいでいった」。

「上手くいったのね、瑠未ちゃん」

「うん。結花のおかげ」

 瑠未はとびきりの笑顔を見せた。そのかわいい笑顔に薫は少し戸惑う。それは恋をしている顔のように見えた。しかし、その続きを考えようとして、思考を中断させる。もう子どもではないのだ。

 それにしても瑠未は幸せ者だと薫は思った。いなくなった今でも結花は瑠未にとって大切な友だちだった。そんな友だちを持てることは一生の内そうないことである。だからこそ、考えてしまうことがある。もしも結花が生きていてくれたら、瑠未はどのくらい今よりも大きな幸せをつかめたのだろうか、と。けれど、瑠未の笑顔を見て、十分に大きな幸せをつかめているのだと薫は思った。

 その時、瑠未が薫の方を振り返った。

「…お母さん。私やっぱり占い師になるね」

「え?」

「でも条件があるけど」

「…条件って何?」

「運命は変わるって信じている人だけ占うの。…どう?」

「…本当に瑠未ちゃんは頑固ね。誰に似たのかな?…でも、瑠未ちゃんらしい」

 そう言って薫は、年に似合わないかわいい顔で笑った。

 でも、と瑠未はその笑顔を見て、思う。どんなに頑固でも、結局は、お母さんの言うことに私はうなずくんだよな、と。


 その日、庭の向日葵がほんの少し太陽に近づいた。

瑠未にはそんな気がした。風に揺れる向日葵はいつか太陽に届く、根拠もなくそう思った。




ここまで読んでいただきありがとうございました。「恋愛」のくくりで大丈夫でしょうか?

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