ここから始まる物語
夜
少年は雨の降る道を傘も差さずに歩いていた。その足取りは重い。
傘は盗られ、金も盗られた。お陰で帰るためのバスに乗れなくなった。
鞄は取られてない。どうせ明日になれば帰ってくるだろうが。
おまけにまだ幼さが残る顔は痣だらけ。
どこからどうみても、いじめられっ子にしか見えない。
細い道を歩いて、誰もいない家に帰る。
「あれ?」
ふと、どこを歩いているか分からなくなった。いつも歩いている道じゃない。
「道間違えたかなぁ。」
頭がくらくらし、身体の節々が痛む。身体が痛いのは殴られたせいだけど、頭が痛むのは風邪かも知れない。
見知らぬ道をとりあえず進んでいく。道の両脇はいつの間にか家から木に変わっていた。
雨は降り続き、容赦なく少年の体温を奪っていく。
「はぁ……はぁ……」
白い息が口から漏れる。
目が霞むようになってきた時、遠くに小さな影が見えた。
「建物?」
丁度いい、ひとまずあそこで休ませて貰おう。
そう思い、歩く速度を上げる。
徐々に道は開けていき、広場に出る。
建物はその広場の中心に建っていた。木造の一階建てで、横に長く、窓からは光が漏れている。
少年は、近くまで駆け寄り、ドアを押す。
ギィィ、とドアが開く。
中には本棚が端から端まで並べられていた。どれも、古い物ばかりだ。
天井で点いている蛍光灯がチカチカと点滅し、たまに床が壊れて穴が空いている箇所がある。
不気味な場所だ。
ただ外は豪雨。時折落ちる雷がより一層不気味さを駆り立てる。
「誰かいませんか?」
恐れを全く感じさせない声で少年は言った。返事はない。
「誰もいないのかな。」
図書館のような建物をうろうろする。人の気配はしなかった。
本棚と本棚の間を行ったり来たりして人を探す。
おかしい。人がいないなら、なぜ電気が点いているのか。
どこかに出掛けてるだけって可能性もあるが。
「誰。」
静かに、幼い声が聞こえた。同時に本を閉じる音。そう遠くからではない。
何も答えないでいると、ギシギシと音が近づいてくる。
音は、隣の本棚の前で止まったようだ。
「誰だって言われてもね。ただの中学生だよ。」
少年は先程の質問に答える。
「じゃあ名前を教えてよ。君にも、名前くらいあるでしょう?」
「志摩」
「分かった。志摩くん、君はここに何しに来たの?」
声が近くで聞こえる。女の子のような声だ。
「雨宿りだよ。駄目だったら出ていくけど。」
「そんなことないよ。」
「じゃあ、僕も聞くけど、君はここで住んでるの?」
ガタガタと窓が音を立てる。
「うん、ぼくは、ここでやらなきゃいけないことがあるからね。」
志摩と言った少年は、向こうにいるであろう人物を見るために本棚を回ろうと歩く。
本棚の向こう側からも木が軋む音がする。
丁度、端まで歩いたところで二人は出会った。
「君、女の子だよね。」
背は志摩の胸くらいまでしかなく、手に分厚い本を両手で抱えて持っている。
黒いショートの髪とまだ幼い顔からは、活発そうなイメージがある。
だが、少女の出す雰囲気は大人のものだった。
本の表紙には、ところどころ掠れているが、『ディメイション・ブック』と大きく書かれていることが分かる。
「そうだよ。」
「自分のことぼくって言ったよね」
「うん」
「変わってるね。色々と。」
少女は一瞬驚いたといった顔をつくり、しかしそれはすぐ微笑に変わった。
「君も、相当だと思うよ。『欲望』を感じないからね。」
志摩は頭の上にハテナマークを浮かべた。
「色々あるんだよ。欲望って。金が欲しいとか、一番になりたいとかあるでしょ。それ以外にも、人を助けたいとか、彼女を幸せにしてやりたいとか、生きたいとか、夢を叶えたいとか……プラスの欲望も君から感じないんだよ。欲望がないってことは、生きたいっていう力がないってことだからね。つまり、君にはそういう力がない。」
「だから生きてて変って言いたいの?」
志摩は少女の話に割り込んだ。相変わらず、平然とした声で、怒りなどは少しも感じさせない。
だが、そこから少女は怒りという感情を読み取った。
少女はくすりと笑って続ける。
「でも、『欲望』がないってわけじゃないんだよね。今みたいに、「怒りたい」って思った訳だし。」
少女は不思議そうに続ける。
「なにか、過去にあったの?」
志摩は、居心地が悪い思いになりながら答えた。
「別に、何もないよ。まだ名前聞いてなかったね。何て言うの?」
少女はそれ以上の詮索を止めた。志摩のことを気遣ったわけじゃない。これ以上は聞いても無駄だと判断しただけだ。
「千夢。」
志摩の質問に、簡潔に答える。
「じゃあ千夢、ここは何なの?」
「ここは異次元の狭間。この本を使えば、どこにでも行けるよ。」
この本とは、抱えている本のことを指しているのだろう。
『欲望』がとても少ない志摩はそんなこと、どうでもよかったが。
「そうなんだ。」
大体、いきなり異次元に行けると言われて、信じる人は余程のお人好しだろう。適当に話を合わせておく。
「明日、またここに来てよ。」
少女が突然言った。外を見ると、すでに雨は止んでいた。
帰れということだろう。
「うん、分かった。じゃあね。」
「絶対だよ。」
志摩は図書館らしきところから出た。そのまま振り返らずに帰った。
身体の調子は、いつの間にか良くなっていた。