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いせこい

「亡き恋人に似ている」と求婚された私ですが、私は亡き恋人ではありません

作者: 住処
掲載日:2026/11/04

 絵の中の女性は、鏡を見るまでもなく私と同じ髪型をしていた。


 耳の横で髪を二つに分けて、後ろの低い位置できっちりとまとめている。毎朝侍女が気の毒そうな顔で櫛を入れて、私の天然の巻き毛を無理やり伸ばして作ってくれた形だ。着ている淡い青のドレスも、膝の上で行儀よく重ねられた手の位置も、先週ヴァンサン様から細かく指定された通りだった。


 オルミエ侯爵邸の小さな客間で、私は花瓶を抱えたまま立ち尽くしていた。婚礼前の肖像画を描いてくれるはずの画家が遅れていて、待つ間の手持ち無沙汰さに任せて庭の花を運んでいたところだった。


 奥の壁に掲げられていたその肖像画を、私は今日この時まで見たことがなかった。


「リュセットだ。2年前に亡くなった」


 背後からかけられた声に振り向くと、ヴァンサン様が扉の脇で革の手袋を外していた。婚約を交わす前に、かつて深く愛した恋人を亡くしたという話は聞いていた。ご親族も、彼がようやく前を向いて新しい婚約者を探す気になってくれたと安心していたものだ。


 絵の中の女性は、少し灰色がかった瞳をしていた。私と同じ色だ。頬は私よりもすっきりと細く、唇の端に小さなほくろがある。膝の上の白い花を愛おしそうに見つめて、控えめな微笑みを浮かべていた。


「こちらの方と、以前お付き合いされていたのですね」


「ああ。君にも話した通りだ」


「お顔までは存じ上げませんでした。私の髪をこの形に結うよう仰ったのも、あの青いドレスをお勧めになったのも、この方に姿を合わせるためでしたの?」


 彼は私の髪と壁の絵を交互に見比べた。秘密を見咎められて慌てる様子もなく、ただ困ったように肩をすくめただけだった。


「君は彼女によく似ている。だからこそ、君を妻に選んだんだ」


 抱えていた花瓶の底が、急激に重たくなった気がした。近くの小机へ下ろそうとして敷布の端を引っかけてしまい、揺れた水が白い花びらへ跳ねた。慌てて手を引っ込める間も、彼は少しも悪びれずに話を続けた。


「最初の夜会で見かけた時は本当に驚いたよ。まさか、これほど面影の重なる女性に出会えるとは思ってもみなかった」


 春の夜会で、私が描いた野花の絵を熱心に褒めてくれた人だった。額縁まで贈ってくれて、身分の高い侯爵家の跡取り息子が子爵家の私に親切にしてくれるのが素直に誇らしくて嬉しかったのだ。彼が語る領地の美しい丘へ、いつか夫婦として一緒に出かける日を夢見て求婚を受けた。


 あの半年間の初めから、この人は私の顔を通して別の誰かを見ていただけだったのだ。


「笑う時に口を大きく開けないようにと仰ったのも、同じ理由でしたの?」


「その方が上品に見える。君に一番似合う姿を教えてあげているんだよ」


 先月のお茶の席で、焼き菓子の粉を鼻につけた母の姿がおかしくて、私はつい吹き出してしまった。帰りの馬車の中で、ヴァンサン様は眉を寄せて慎ましさが足りないと仰った。母のことまで恥をかかせたのかと落ち込んで、次に実家へ帰った時に母へ謝ったくらいだ。


 母は少しも気にしていないと笑ってくれた。母の言う通り、ただ家族で笑い合っていただけの些細な出来事だったのだ。


「では、私がもう嫌だと申し上げたらどうなさいますか」


 彼の手が止まった。


「何を嫌がるんだ」


「髪を伸ばして、この方そっくりに装うことです。好きな色の服を着て、おかしければ普通に笑う生活を、私はこれからも続けたいのです」


「髪型一つのことで、そんなに頑なにならなくてもいいだろう」


 彼は歩み寄ってきて私の肩に触れようとした。私は無意識に半歩後ずさった。ドレスの絹が擦れて冷たい音が鳴る。


「似ているから選んだと、ご自分の口で仰いましたわ。それを聞いて、誰が喜んで結婚式を迎えられるとお思いですか」


「落ち着いてくれ。私は君を妻として迎えるつもりで準備を進めている」


 その平然とした返事を聞いて、ようやく目が覚めた。彼にとって私は、好みの髪型に少し不満を漏らし始めた手頃な婚約者にすぎないのだ。2人の将来について真剣に悩んでいるつもりだったのは、私一人だけだった。


 私は左手の手袋を脱ぎ捨てて、銀の指輪に指をかけた。焦ったせいで関節に引っかかって痛みが走ったが、力任せに引き抜いた。


「婚約を解消いたします。本日の肖像画の制作もお断りさせてください」


「ロザベル、馬鹿なことを言うな」


「亡くなった方を忘れろと無理を言うつもりはありません。ですが、私をその方の身代わりに仕立て上げるのは金輪際おやめください」


 外した指輪を小箱へ押し込む間、彼は何度も落ち着いて話し合おうと引き止めてきた。私は返事もせずに、別室で待機していた母を呼んでほしいと使用人に頼んだ。廊下から駆け込んできた母は私の青ざめた顔を見るなり、何があったのかとすぐに察して腕を取ってくれた。


 帰りの馬車に乗り込んだ途端、喉の奥が詰まって息が苦しくなった。絵の瞳の色や髪の形のことを説明しようとするのに、うまく言葉がまとまらない。


「私、母様に、笑ってごめんなさいと謝りましたでしょう。あれも、全部……」


「いいのよ、もう言わなくていいわ。あんなこと、私は元から気にしていないのだから」


 母の手が私の背中を優しく撫でてくれた。余計な問い詰めをせずにただ抱きしめてくれたことがありがたくて、窓の外の流れる街並みを見つめながら膝の上に涙をこぼした。


 屋敷に戻ったその晩、私はすぐに侍女を呼んで結い上げられた髪をほどいてもらった。櫛を通すと、無理に撫でつけられていた巻き毛が跳ねて、いつものように私の頬をくすぐった。


 鏡に映る元の自分の顔を見て小さく笑ったら、そのすぐ後に情けなさがこみ上げてきた。


 婚約が決まった時、私は私自身を好いてもらえたのだと信じ込んでいた。その純粋な喜びさえも土足で踏みにじられたように思えて、ベッドに入ってからも夜明けまで何度も目を覚ました。


 翌朝、私は肖像画を手がけるはずだった画家へ短い手紙を認めた。私の事情で予定を狂わせてしまうことへの謝罪と、今後私が制作の場に出向くことは絶対にないという連絡だ。


 数日後に届いた返信には、下絵の段階で面会は中止になったこと、手付金の扱いは注文主であるヴァンサン様と直接精算する旨が淡々と記されていた。私はその便箋を母に見せて、ようやく冷めた朝食のスープを口に運んだ。


 それから5日後、伯母同士の付き合いがある親族の茶会が開かれた。欠席しても構わないと母は言ってくれたが、私は自室に引きこもって世間の噂に怯え続けるような生活を早く終わらせたかった。


 髪は本来の癖を生かした自然な巻き毛に戻し、からし色の鮮やかなドレスを選んだ。ヴァンサン様から似合わないと苦言を呈されて、クローゼットの奥にしまい込んでいたお気に入りの一着だ。あの人の言われるがままに捨ててしまわなくて本当によかったと思う。


 会場の広間の扉へ近づくと、中からヴァンサン様のよく通る声が聞こえてきた。


「髪型の好みが合わなかっただけで婚約を投げ出すと言い出して、私も頭を抱えているのです。少し気が立っているだけでしょうから、時間を置けば戻ってきますよ」


 持っていた扇を握りしめる手にぎゅっと力が入った。踵を返して逃げ出したい衝動を堪えて、私は一歩前へ出た。ここで沈黙してしまえば、私は身勝手な理由で良縁を棒に振ろうとしている我が儘な娘として社交界で笑い者にされてしまう。


「その事実と異なるご説明は、おやめいただけますか」


 部屋に入った私を見て、彼はまるで機嫌を直した小鳥を迎えるかのように安堵の笑みを浮かべた。


「来てくれたのか。ちょうど君の寛大さについて話していたところだ」


「ええ、廊下までよく聞こえておりました。私の単なる我が儘だと周囲に仰っていましたね」


「その件については、もう私から蒸し返したりしない。君もいつまでも意固地にならずに」


 勝手に一人で納得して、私を許した気になっている。


 あまりの身勝手さに呆然とする私の横で、母が静かに扇を閉じた。私は母の腕にそっと触れて合図を送った。親に庇ってもらうのではなく、自分の言葉で白黒をつけなければ、また彼の都合のいい話に捻じ曲げられてしまう。


「亡くなられたかつての恋人に似ているから妻に選んだと、あの日ご自分の口で仰いましたね。私の髪型も選ぶドレスも、すべてその方に寄せるための指示だったと伺いました。だからこそ私は婚姻をお断りしたのです。私がお話しした事実に、何か間違いがございますか」


 広間のあちこちで、ティーカップの触れ合う乾いた音が止まった。ヴァンサン様の父親である侯爵が険しい顔で立ち上がったが、私の口調の真剣さに気圧されたのか口を挟むことはしなかった。


「彼女のプライベートなことまで、わざわざ人前で晒す必要があるのか」


「お名前までは出しておりませんわ。ですが私には、婚約を解消した正当な理由を皆様に知っていただく権利がございます。気まぐれで理不尽な娘という汚名だけを背負わされる筋合いはありません」


 言葉の最後が少し震えてしまったので、深呼吸をして姿勢を正した。ヴァンサン様が私のからし色のドレスを見下ろして不快そうに眉をひそめる。その視線に怯みそうになる自分を叱りつけて、まっすぐに彼を見返した。


「君を妻に望んだのは本心だ。家の格式も結納の準備も、何一つ手抜きはしていなかったはずだ」


「ええ、そのお心遣いには感謝しておりました。私の描く絵や、私のくだらないおしゃべりを、あなたが好きになってくださったのだと信じておりましたから」


 彼の視線が、何も身につけていない私の左手へ落ちた。


「絵なら、今でも部屋に飾って大切にしている」


「私が差し上げた絵の隅に描いた小鳥を、目障りだから消してくれと仰いましたね。庭先によく遊びに来る可愛い鳥だからと、私がお話ししたあの小鳥です。……覚えてもいませんか?」


 亡くなった恋人が鳥嫌いだったのかどうか、私には知る由もない。けれど彼女の好みがどうであれ、私の絵から私の思い出を削り取っていい理由にはならなかったのだ。


 ヴァンサン様は唇を引き結び、周りの親族たちの冷ややかな視線に気づいて肩を強張らせた。


「婚約解消の申し入れを、正式に受け入れていただけますね」


「……父と、後で話し合う」


「それから、本日皆様にお話しされた嘘の釈明も撤回してください。私が髪型一つで駄々をこねたなどという作り話を――二度と誰にも吹き込みませんように」


 彼はすぐには答えなかった。気まずい沈黙が流れる中、同じテーブルにいた伯母の一人が紅茶に口をつけながら、私も今のお話には驚きましたわ、と冷ややかに呟いた。ヴァンサン様は顔色を悪くして、ようやく私に向き直った。


「私の配慮が足りなかった。彼女の姿に……昔の面影を重ねようとして、傷つけたのは事実だ」


「すでにあることないことお話しされた方が他にもいらっしゃるなら、全員に同じように訂正をお願いいたします」


 彼が屈辱に耐えるように小さく頷いたのを確認して、私は主催者である女主人の元へ歩み寄って中座の挨拶をした。お茶を一杯いただく予定だったが、これ以上この空気を吸い続けるのは御免だった。


 侯爵様が玄関の馬車止めまで見送りに来て、息子の虚偽の報告を鵜呑みにしていたことを丁重に詫びてくれた。私は礼儀正しく頭を下げて、正式な書類のやり取りは後日父を通じて行う旨を告げた。ヴァンサン様は客間から一度も出てこなかった。


 翌週には正式に婚約破棄の手続きが完了した。画家に支払われていた手付金は全額あちらが引き受ける形となり、我が家への金銭的な負担は一切発生しなかった。画家からは母宛てに、前金で用意したキャンバスは別の静物画に転用したという簡潔な通知が届いた。


 茶会に出席していた伯母からも丁寧な手紙が届いた。ヴァンサン様は身内の集まりで正式に謝罪し、私を貶めるような発言を取り消したそうだ。手紙の追伸には、あのからし色のドレスはあなたにとてもよく似合っていた、と温かい言葉が添えられていた。


 その2日後、ヴァンサン様から分厚い封書が届いた。中を開くと、もう一度だけあの低い位置で髪を結って会いに来てほしい、今なら落ち着いて2人でやり直せるはずだという独善的な懇願が綴られていた。


 あの女の人の形に戻ってくれれば、自分の気が済むと言っているにすぎない。


 私は返信用の紙に、二度とお目にかかることはありません、と一行だけ書いて送り返した。あちらの屋敷に預けていた私物の絵もすべて返却を求め、届いた荷物の中から小さな木の額縁を取り出した。彼が消せと命じた小鳥は、変わらず枝の先で得意そうに胸を張っていた。


 言われるがままに塗りつぶさなかった当時の自分を、心から褒めてやりたかった。


 10月の終わり、私は半年ぶりに写生会の集まりへ出かけた。


 ハルトヴィヒ公爵の伯母様が広大な私邸の庭園を開放してくれる、趣味人たちの気軽な集いだった。3年前から通い詰めていたお気に入りの場所だったが、婚約中は良家の令嬢として派手に出歩くのは控えるようにと釘を刺され、絵の具箱をずっとクローゼットに封印していたのだ。


 今朝久しぶりに道具箱を開けたら、黄色い絵の具のチューブがすっかり固まってしまっていた。水に浸してもびくともせず、出発の時間を遅らせる原因になった。一度手放した日常を取り戻すのは、思っていた以上に手間がかかる。


「ロザベル嬢、お久しぶりです。今日は何を描かれるのですか」


 木漏れ日が揺れる庭園に入ると、大きな樫の木の下からアクセル様が顔を上げた。若くして公爵位を継いだ方で、政務の忙しい合間を縫ってはこの写生会にふらりと姿を見せていた。


 彼が侯爵家よりもずっと格式の高い家の当主である事実を、これほど心強く感じたことはなかった。私に関する社交界のくだらない噂話を耳にしていたとしても、顔色を窺って気まずそうにする必要がまるでない立場の人だったからだ。


 私が近くの木製ベンチに腰を下ろそうとすると、彼は慌てた手つきで膝の上の画板を裏返した。


「何か隠しましたね」


「まだ制作の途中なんです。ちゃんと仕上がってからお見せしようと思いまして」


「以前も同じことを仰って、結局私が引き止めるまで見せてくださらなかったではありませんか」


「そんなことまで覚えておいでですか」


「足が4本もある雀の絵を忘れる方が難しいですわ」


 彼は参ったなと苦笑いして、観念したように画板を元の向きへ戻した。相変わらず不思議なバランスの小鳥が描かれている。今日の鳥は足がちゃんと2本になっていたが、よく観察すると、もう2本の足が細い木の枝と同化していた。


「前よりずいぶん進歩なさいましたね。足と木の枝の色がきちんと塗り分けられています」


「そこは一番気を使って描いた部分ですから」


 私は久しぶりに、腹の底から声を立てて笑った。笑った後で無意識に口元を手のひらで覆いそうになり、アクセル様が不思議そうに首を傾げた。なんでもありませんと首を振って、手を自分の膝の上へと下ろした。


「私はあちらの低木の花を描くつもりです。黄色い絵の具が固まって使えなくなってしまったので、白と緑ばかりの地味な絵になりそうですが」


「黄色なら私のパレットに余っていますよ。まだ手をつけていない部分ですから、よろしければ使ってください」


 彼から絵の具を分けてもらう際、彼が持っていた筆の先が私の袖に触れて、小さな黄色い染みを作ってしまった。彼が血相を変えて謝罪するので、これで私が黄色を忘れてきた証拠が皆様に残ってしまいましたわ、と笑い飛ばして、お礼の代わりに私の緑の絵の具を差し出した。2人で同じ水入れの水を分け合いながら、私は秋の柔らかな草花へと向き直った。


 後片付けの最中、アクセル様は筆を拭いながら、婚約解消の顛末は伯母から聞いたと静かに告げてくれた。私は筆を洗う手を止めずに、そうですか、とだけ返事をした。誰かを悪く言うような陰湿な会話は、もう二度としたくなかったのだ。


「来月も、またこちらへいらっしゃいますか」


「そのつもりです。道具も買い直さなければなりませんし」


「お見せしたい本があるんです。以前、あなたが面白いと言っていた昔話の挿絵集なのですが」


「尾羽が長すぎて、地面を引きずって歩く鳥の絵ですか?」


「そうです。続きの巻をようやく見つけましてね。あの鳥、最新の挿絵では尾羽を自分で抱えて歩いていました」


「鳥が自分の手で抱えるのですか。それはぜひ拝見したいです」


 屋敷に帰り着いた後、私は手帳を開いて次の写生会の日程を真っ先に確認した。半年もの間、自分の中に会いたい人や楽しみにしたい予定がこんなにも眠っていたのだと、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 冬には、伯母様が管理する温室の中で顔を合わせた。借りた本に載っていた挿絵は本当に滑稽で、2人でそれを真似してスケッチしたら、今度は私の描いた鳥の方が足の数が多くなってしまった。アクセル様は声を上げて喜び、その失敗作を記念に譲ってほしいと言い出した。


「駄目です。もう少し上手に描けたものを差し上げます」


「私はこの鳥がいいんです」


 彼は片方の翼を大きく広げた歪な鳥を指差して、歩きにくそうに頑張っている姿が愛らしいと褒めてくれた。私の描いた絵に対して、そんな風に肩肘を張らずに楽しんでくれる人がいることが嬉しくてたまらなかった。


 完璧な淑女として振る舞わなければならないという強迫観念が、少しずつ剥がれ落ちていく。そのスケッチには日付を入れて、そのまま彼の手のひらに渡した。


 回数を重ねるごとに、私の方から話しかけたい話題が自然と増えていった。彼が領地の湖を描いた風景画を見せてもらい、暖かくなったらその場所を見てみたいとねだった。彼が甘すぎて苦手だという蜂蜜入りの焼き菓子を、私がお茶の時間に最後の一つまで平らげるのがいつの間にか定番になった。


 それでも2月のある曇った日、彼が何気ない調子で、淡い青色の服を着たあなたも見てみたい、と口にした瞬間、私の背中が凍りついたように強張った。


「……青い服は、当分の間着るつもりはありません」


 私の硬直した横顔を見て、アクセル様は何かを察したようにハッと口を噤んだ。


「あ、すみません。冬の庭の景色とあなたの瞳の色を思い浮かべて、つい口走ってしまいました。不快な思いをさせましたね」


「好きな色を仰っただけですから、謝らないでください。ただ、私は今のこの色が一番落ち着くのです」


 着ていた焦げ茶のウールの上着を見せると、彼はホッとしたように頷き、自分の身につけている上着を見下ろした。


「困りましたね。私の上着とまったく同じ色です」


「アクセル様がお着替えなさいます?」


「今日のところはこれで勘弁してください」


 顔を見合わせて笑い合った後、冷めかけた紅茶を口に含んだ。自分の好きなものを素直に伝えても、相手を不機嫌にさせたり自分の好みを押し付け合ったりせずに済む。そんな当たり前の人間関係を、私は彼の手を借りて最初から作り直していた。


 3月の写生会が終わり、帰りの馬車を待つ間、アクセル様は屋敷の正門まで私を送ってくれた。母と伯母様が少し離れた前方を歩きながら、春の花壇の手入れについて熱心に語り合っている。


 私は抱えていた画板の重みを腕に感じながら、隣を歩く彼の横顔を見上げた。この人が来ると分かっている日は、朝起きた瞬間から胸が浮き立つ。そうでなければ、彼が少し遅れて現れた時に門扉ばかり気にしているはずがなかった。


「アクセル様。来週の週末、絵の具を持たずにお出かけになりませんか」


「どこか行きたい場所でも?」


「以前お話しした、公爵領の湖です。絵を描くことに夢中になるより、お話しすることに時間を使いたいのです」


 彼は歩みを止めて、少し驚いたように目を瞬かせた。


「それは、私ひとりを相手にしてくださるという意味でしょうか」


 耳の奥まで一気に熱くなった。絵の構図の相談だと冗談めかして誤魔化せば、いつもの気楽な関係に戻れるだろう。けれど来月もその先も、彼が私をどう見ているのかを確かめられないまま庭の木々を見つめ続けるのは嫌だった。


「はい。私は、あなたとお話しする時間が何より大切です。月に1度の集まりだけでは、もう足りなくなってしまいました」


 最後の方は息が足りなくなって早口になった。アクセル様は驚きから一転して相好を崩し、心の底から安堵したように深く息を吐き出した。


「私も同じ気持ちでした。あなたからいただいたあの鳥の絵を机の上に飾って、次の写生会まで指折り数えていたくらいです」


「あんな不格好な絵を見て待っていらしたのですか」


「ええ。あなたが楽しそうに笑ってくれた瞬間を思い出すので」


 あの足の多い鳥は、思った以上にいい仕事をしてくれたらしい。手放してよかったと胸を撫で下ろしながらも、もっとちゃんとした絵を渡しておけばよかったと今更ながら赤面した。


 彼が柔らかく目を細めて右手を差し出してきた。私は画板を左腕でしっかりと抱え直し、空いた右手をその広い手のひらに重ねた。


 春の公爵領の湖には、結局2週続けて足を運ぶことになった。1週目は突然の春の嵐に見舞われて、母たちを含めた全員で近くの宿場町へ転がり込む羽目になった。アクセル様が暖炉の前で濡れた上着を乾かしている横で、来週は晴れるといいですねと笑い合った。2週目は絵の具道具を完全に置いていき、ボート小屋の桟橋に腰掛けて日が暮れるまで語り合った。


 その日の夕暮れ時、波の音を背景にして彼から結婚を申し込まれた。


 手元に持っていたパンのかけらを湖に落としそうになった。私の返事を待つ彼の首筋まで真っ赤に染まっているのを見て、胸がいっぱいになって視界が滲んだ。


「私も、あなたとこれからの時間を一緒に過ごしたいです」


 声に出した途端、彼と過ごすこれからの生活が鮮やかに思い浮かんだ。湖が見える部屋に新しい画材を並べること。彼が苦手な蜂蜜のケーキを半分こにすること。誰の真似でもない私自身の好きな服を着て、仕事から戻ってくる彼を笑顔で迎えること。


 私は彼の手を両手で包み込んで、自分の体温を伝えるようにぎゅっと握り返した。


 正式に婚約が調った後、結婚の記念として2人の肖像画を残す話が持ち上がった。昨年の秋、私の身勝手な制作中止の手紙を受け取ってくれたあの画家の元へ、今度はアクセル様と2人で訪問した。


 アトリエの主人は私の顔と名前を確認すると、以前の依頼の下絵はすべて処分済みであること、あの時に用意されていたキャンバスには今では見事な林檎と葡萄が描かれて売却されたことを教えてくれた。


 過去の痕跡が綺麗さっぱり消えていることを知って肩の荷が下りた私は、新しい一枚を笑顔で依頼した。


「どのようなお姿で描きましょうか」


「髪の毛はこの巻き毛のままで結ってください。ドレスは、からし色のものを新調してまいります」


「手元には何か花をお持ちになりますか」


 尋ねられて、私は隣のアクセル様を見上げた。彼は当たり前のような顔で、あなたの好きな花にしましょう、と私に選択を委ねてくれた。


 半年前に庭の片隅で一緒に描いた、あの名もなき黄色い野花を膝の上に置きたい。そう答えると、彼があの日は私の袖に絵の具をこぼした大失態の日でしたねと懐かしそうに笑い、私は、こぼしたのはアクセル様の方ですわ、と軽やかに言い返した。


 イーゼルの前で構えていた画家が、ふと筆を動かす手を止めた。


「その表情です。できればその笑顔のまま、少しだけ静止していただけますか」


 私は口元へ上がりかけた手を引っ込めて、そのまま膝の上に下ろした。隣ではアクセル様が、吹き出すのを無理やり我慢しようとして変な顔をしている。


 2人の肖像画が完成するまでには、笑いすぎて何度も筆を止めさせてしまうことになりそうだ。

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絵のことや破談時に女側に瑕疵を擦り付けるやり口とか、実はヴァンサン亡き恋人にも内心うざがられてたら追加ざまぁかも。
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