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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

おかしな僕と普通な君

作者: 雨夜律
掲載日:2026/06/17











「愛なんてこの世に存在しない」


じゃあ、僕のこの気持ちは──


「そんなのまやかしよ」


そんなことない

どうしたら信じてくれるの


「……私のことを愛していると言うのなら示してみせて。もっともそんな方法があるとは思えないけれど」





そう言われた僕は──。




「そう、それを選んだの」











◆◆◆






 女は目の前に立っている男を見て大きく溜息をついていた。




 女が初めて男に会ったのは駅前の喫茶店だった。レトロな雰囲気のその喫茶店は女の行きつけだ。どこか懐かしさを感じるそこにその日も仕事帰りに立ち寄っていた。

 カラン、とベルが鳴る扉を押し開けて中に入ると、店は混んでいて待たなければいけないようだった。どうするか迷っているとレジの近くに座っていた男が声をかけてきた。


「お姉さん、良ければ相席どうですか?」


その男は可愛らしい見た目をしていた。相手に警戒心を抱かせないような風貌の男の好意に、女は甘えることにしたのだった。


 男は刹那せつなと名乗った。にこやかな刹那は親しみやすく、女は警戒心を解いていた。刹那がおかしなことを言い出すまでは。



 女はメニューをめくっていた。何を頼もうか考えていると、刹那に声をかけられる。


「×××ちゃん、メロンソーダじゃないの?」


「私はゆいだけど……?」


女──結は訝しげに刹那を見た。そもそもどうしてメロンソーダだと思ったのだろう。確かに結はメロンソーダは好きだ。けれど、人目を気にして滅多に頼まない。何故知られているのか、結はゾクッと背筋が震えるのを感じた。


「そっか。結ちゃんね」


ニッコリと笑った顔に恐怖で固まる。刹那を凝視して動けなくなった結の代わりに刹那は注文をした。届けられたのは結の幼い頃の好物ばかりで結は青ざめる。食べないの?と首を傾げる刹那が怖くて仕方なかった。けれど、元来律儀な結は、食べ物を粗末に残して帰ることができない。目の前の男の所為だとはいえ、それは結の良心が許さなかった。


 震える手で一口食べる。全く味がしない。それを無理矢理咀嚼して飲み込んだ。これを後何度繰り返したら終わるのだろう。結は絶望を感じていた。


「大丈夫。何にもしないよ?だからゆっくりお食べ」


刹那は慈愛のこもった顔で結を見ている。けれど、それが怖いのだ。何かしようがしまいが関係ない。結は今のこの状況が怖くてしかたなかった。

 刹那のまるで善意100%に見える表情に、恐怖が一周回って怒りに変わった結は刹那を睨みつける。


「あなた、誰なんですか」


「言ったでしょ?刹那だよ」


「そうじゃなくて!」


結が続けようとした時に手にメロンソーダのグラスが当たった。それを難なく受け止めた刹那は、危ないなあと言って、手が当たらない位置までそれを動かした。そして、少し困った顔をして、結を見つめる。


「きっと信じないだろうけどさ、僕と君は前世で恋人同士だったんだよ」


肩をすくめて見せた刹那に、結は耐え難い嫌悪を感じた。気持ち悪いと思った。もう食べ物を粗末になんて言っていられない。

 結は身の危険を感じて、早くこの場から去りたくて仕方がなくなった。鞄を掴みドアへ直行する。結は追いかけられる可能性なんて全く思いつかなかった。ただ、早く安全な場所に行きたいとそれだけで、走って電車に飛び乗った。

 家に着いてから、家を知られている可能性に気づいたけれどどうにもできない。結はただ怖くて、部屋の隅で物音に怯えて過ごした。

 その日は一睡もできずに朝を迎えた。



 朝、恐怖心を押し込めて結は家を出る。今日も会社だ。

 仕事は散々だった。書類をばら撒くわ、コピーの部数を間違えるわ、他にも色々と。自分のミスをカバーするために残業して、結はヘトヘトで会社を出た。刹那のことなんて頭から吹っ飛んでいた。

 結は亀の歩みで駅に向かって歩く。疲労で体が重い。ぼんやりとしていると後ろから声が聞こえる。


「結ちゃん」


その声を聞いた途端、結は走り出そうとした。


「ちょっ!ちょっと待って!」


けれど、刹那の声があまりにも必死で結は足を止めていた。

 得体のしれないものより正体を知っているものの方が恐怖心が軽減されるかもしれないと結は思った。昨日のように眠れずに過ごすのは嫌だった。

 ゆっくりと振り返ると昨日と変わらずににこやかな刹那がそこにいた。


「何か用ですか?」


「あの、僕ストーカーじゃないからね?」


何言ってるんだコイツ、と結は思った。全くもって信憑性のない言葉に眉を寄せる。


「やっぱり前世とか信じないよね?でも、事実なんだ。えっと、例えば、結ちゃん。コーヒーはブラックが好きでしょ?紅茶もストレートが好き。あ、でもミルクティーはうんと甘いのがよくて、レモンティーはあまり好きじゃない」


当たってるでしょ?と褒めて欲しそうに刹那が言う。ここだけ見ると大型犬のように見えて可愛いのだけれど、いかんせん今までが怖すぎた。内容も相まって結の体は強張っていた。

 昨日もそうだったけれどその好みは幼い頃のものだ。


「……中学生くらいまではそうだったかもしれない」


「そっか……変わったんだね。じゃあ、もしかしてご両親も死んでない?」


「縁起でもないこと言わないで」


そっか、と刹那は泣いてしまいそうな顔で笑った。その顔に罪悪感が刺激される。別に何も悪いことはしていないのに、妙に可哀想に思う。


「よかったね結ちゃん」


眩しそうに目を細めた刹那は結から一歩遠ざかった。結は何も言えずに刹那を見ていた。何か言いたいような気がしたけれど、言葉にならない。だから、ただ黙ってみていた。不思議と恐怖心は治っていた。

 刹那は儚く笑って、また一歩遠ざかる。そして、満面の笑みになった。


「もっと結ちゃんの話聞かせてね!また明日!」


軽く手を振って、刹那は駆け出した。


「え、は!?」


結は返事をする間もなく言ってしまった刹那に唖然とした。いや、そもそも返事とはNO以外ありえないのだけれど、それでも結の反応を見なかった刹那に理解が追いつかなかった。

 そして、3分ほど、その場で固まった結は、またの意味を考えながら不安な気持ちで家に帰ったのだった。



 そうして次の日、本当に刹那はやってきた。その次の日も、その次の次の日も、やってきて結に話しかけた。初めは警戒していた結だけれど、会社から駅までの道をただ執拗に話しかけられ歩くだけなので、段々と警戒することが馬鹿らしくなってきていた。

 結局、結は呆れと諦めの滲む目で刹那を見るだけになっていた。






◆◆◆






 仕事が終わり会社を出ると、壁にもたれてスマホを弄っていた刹那が、結に寄ってくる。


「おかえり」


いつの間にかこの言葉に違和感を覚えなくなってしまった、と結は体力がゴッと削られたような気持ちになる。


「荷物持とうか?」


甲斐甲斐しく世話を焼こうとする刹那をあしらって、結は形骸化している文句を言う。


「いい加減来るのやめてくれる?」


「嫌だよ」


刹那が間髪入れずに答えるので、結は諦めるのだけれど、今日はあることを思い出した。自分の婚約者が出張から帰ってくるのだ。


「私、彼氏いるわよ?」


「そうなの?」


結の言葉に刹那はキョトンとした顔をして、そして、寂しそうに笑った。けれど、その表情は傷ついたようには見えなくて、結はわけがわからなかった。


「だから、もう来ないで」


「嫌だよ?」


「なんでよ。意味がわからない」


そう苦情を言った結は刹那を睨んだ。ストーカーの考えなんてわかるわけはないのだけれど、結には刹那の考えていることがさっぱりわからない。


「何がわからないの?」


「好きな相手に彼氏がいるなら普通諦めようってなるでしょう?私、彼と結婚予定なの」


自意識過剰な言葉に結は羞恥を感じたけれど、グッと飲み込んで刹那の答えを待った。


「うーん。そりゃ結ちゃんが他の人を好きだったら悲しいよ。でも、結ちゃんはそれで幸せなんでしょう?」


「そうだよ」


「なら、その話と僕が結ちゃんに会いにくるのは別の話だよ」


結は宇宙人と話しているようだと思った。

 結には刹那が化け物に見える時がある。言葉や行動の端々に人とは違う思想が見える時、結は背筋が凍るような感覚を覚えるのだ。


「僕は結ちゃんが」


「結!」


結は名を呼ばれて振り返る。そこには、車の中から手を振る結の婚約者がいた。


「会えてよかった」


彼はどうやら、出張帰りそのままの足で結を迎えに来たようだった。車をとめて、結の隣までやってきて刹那の顔をじっと見つめる。


「君は?」


「僕、結さんの会社の同僚なんです。いつも結さんにはお世話になっていて…」


刹那はペラペラと嘘を並べ立てる。結は唖然として訂正をすることもできずに刹那を見ている。


「しかし、すごいタイミングですね。丁度結さんの惚気話を聞いてたところなんですよ。お話の通り素敵な方ですね」


刹那は結に笑いかける。

 全くそんな話はしていなかった。誤魔化すためだとしてもやりすぎだ。というか、誤魔化す必要があったのだろうか。結にはもうよくわからない。ただ何かよくわからない感覚がゾワゾワと這い上がっていた。


「結がそんな話をするなんて、仲が良い人がいて嬉しいよ。でもそれが男性というのは少し焼けるな」


結の婚約者は蛇のようにじっとりと刹那を観察していたけれど、全く害意がない様子を見て早々に敵ではないと判断をしたようだった。

 それどころか、二人は和やかに話していて、連絡先を交換しようとまでしていた。現実逃避気味だった結はそれに気づいて慌てて会話に割って入る。


「ね、用があったから来てくれたんでしょ?」


「ちょうど良い時間に帰ってこられたからご飯でもどうかなって」


「そうなんだ!じゃあいこう?」


結は引き攣りそうな顔を笑顔に固定して、婚約者に話しかける。早くこの場から去りたい。けれど、そうは問屋がおろさないらしい。


「刹那君も一緒にどう?」


結は絶句した。この三人でご飯だなんて冗談じゃない。けれど、結が何かを言う前に刹那が返事をする。


「いえ、久しぶりの逢瀬を邪魔するような恥知らずにはなりたくないのでやめておきます。もしよければまた今度誘ってください」


丁寧に断る刹那の姿に、結は苦い気持ちになった。断ってもらえて安堵しているけれど、今だけ切り取るとあまりにも好青年すぎて、気持ちが悪い。


 結と話している刹那はいつも笑っている。その屈託のない笑顔から、それが本心だと結は思っている。けれど、今の刹那はどこか遠い。透明な壁ではなく、透明で柔らかく形を変える何かがあった。結にはそれが薄寒く思えた。

 結は今まで刹那の言葉を異常だと思っても、嘘だとは思ったことがない。それは、刹那が結に何も隠そうとしないからそう感じていたのだろう。刹那は素性が知れないけれど、語りたくないことはヘラヘラと流して、本心だけを口にする人間のように見えていた。

 けれど、今の刹那を見ていると、刹那が嘘ついたなら、何が真実か結にはわからないと思ってしまった。

 それくらい刹那の婚約者への対応はスマートだった。



 震え出した体を誤魔化すために、結は婚約者を促す。手を振る刹那と別れ、車に乗り込んだ。

 結はお店に着くまで、表情を作ることが出来なかった。恐怖で末端が冷え切っている。

 けれど、結は自分が何に恐怖を感じているのかわからなくなっていた。

 刹那が怖いのは正しい。初めから一貫して刹那という人間を結は恐ろしいと思っている。けれど、それだけの恐怖ではないような気がするのだから、怖気が走る。

 どうしてだか結は今まで話していた刹那が作られたモノであったかもしれないことにも恐怖していた。オオカミ少年だったのだと思えばいいだけなのに、どこか裏切られたかのような気持ちがあって、そんな自分が悍ましい。

 結局、車の中で婚約者が話しかけるのも適当にあしらってしまった。そんな結を婚約者はじっとりと見ていたけれど、結を送り届けてすぐに可愛らしい着信音が鳴って慌てて帰っていった。

 結はよくわからない焦燥感を抱きながらも、次の日刹那に会うまで上の空のままだった。






◆◆◆






 次の日、いつも通り刹那は結の前に現れた。結は逃げ出して二度と会いたくない気持ちでいっぱいだった。だから、刹那を視界に映すことすらせずに早足で歩く。


「待ってよ!」


刹那は結にならんで話しかける。


「怒ってる?昨日、嘘ついたことだよね?結ちゃんが嘘嫌いなのは知ってたんだけど、他の人につくのもやだった?ごめんね?」


刹那は的を射ているようでいて、どこかズレたことを一生懸命謝っている。結は別に怒ってなんていない。


「結ちゃんが嫌ならこれから誰にも嘘なんてつかないよ!」


それでも結は立ち止まらない。結にとって今は刹那の言葉の真偽なんて重要じゃない。刹那の言葉に絆されそうな自分が問題なのだ。

 そんな結に焦れたのか、刹那は結の前に回り込んでスマホの画面を結に向けて突き出した。

 結は刹那が邪魔で足を止めざるを得ない。


「このアプリ!」


結は眉を寄せて、刹那を見る。けれど、いつまで経っても諦めなさそうな刹那に溜息をついた。


「なに」


「このアプリを入れて。結ちゃんお願い!」


刹那のらしくない様子にたじろぎながらも結は首を振った。けれど、刹那は引かない。往来で言い合いをするのが嫌になって結は渋々アプリをダウンロードした。


「それで、このQRコード読み取って」


きっと連絡先を交換させられるのだろう、と結は思った。そして、それぐらいは許してもいいのかもしれないと思った。得体がしれないから怖いのだ。知れば多少はマシになるかもしれない。


「よし!これでいつでも僕の位置がわかるよ!あ、もちろん僕から結ちゃんの位置はわからないから安心して!これで急に現れることはないし、嫌なら逃げられるよ。だから、ちゃあんと逃げてね」


結は喉がギュッとしまって息が苦しくなった。全然理解なんてできない。それどころか、得体のしれなさが増しただけだった。


「……あなたおかしいわ」


結は思わず呟いていた。

 刹那は自分のことを語らない。隠しているのではなく語る気がないのだ。それをはっきりと突きつけられた気がした。


「結ちゃんは普通だね」


刹那は笑う。

 それは馬鹿にしているわけではなく、心の底から祝福していた。まるで、悲願が達成されたかのような反応に、結は言葉が見つからない。


「僕は結ちゃんが普通で嬉しいよ」


刹那は結を見ることなく譫言のように続ける。


「幼い頃の好みが変わって、人を好きになって、幸せに生きてる。これで愛があれば完璧だ」


刹那は一人で大きく頷き、勝手に納得して、結を覗き込む。


「結ちゃんは婚約者を愛してる?」


問われて、結は即答出来なかった。頭に愛ってなんだ、と過って口を開くのを躊躇った。けれど、刹那に隙を見せるのは絶対に良くない。どうにか無理やり言葉を捻り出す。


「……愛して、るわよ」


結は今どんな顔をしているかわからなかった。けれど、刹那が満足そうに笑っているから、ちゃんと笑えているのだろう。

 刹那の所為で結は自分がわからなくなっていく。それがどうしようもなく苦しい。


「それなら報われるね」


何が報われるのか、なんて結は聞けなかった。

 刹那はどこか遠くを見ていた。見たことない表情で、瞳で、結以外のことを考えている。それは初めてのことで、結はどうしていいかわからない。そして、その姿に突き放されたように感じている自分に気づいて、ショックをうけていた。

 だから、刹那が呟いた「普通になれたよ。よかったね×××ちゃん」という言葉を聞くことはなかった。

 刹那はとても寂しそうだった。






◆◆◆






 刹那は夜の繁華街を歩いていた。ふらふらと歩きながら、結のことを考える。

 結はあの婚約者を愛していると言った。そう言えるならきっとこの先も真っ当に生きていけるのだろう。幸せな生涯を送ることができるのだろう。それならば、自分のすることはない、と刹那は思う。自分の役目はきっと前世で終わっていたのだ。

 けれど、と思う。刹那は結の近くにいることをやめることは出来なさそうだった。自分は結を愛していて、結が幸せでなければ嫌なのだ。だから、結の幸せを妨げるモノが現れた時に、排除する役目を担いたい。幸せにする役目が自分のものではないのなら、露払いが刹那の仕事だ。

 少し苦しい気がしたけれど、刹那は本気だった。



 ふと、向こうに見知った背中を見た。刹那は駆け寄って声をかける。


「こんばんは」


振り返った結の婚約者は、刹那の顔を見て、酷く焦ったように笑顔を作った。


「刹那君じゃないか。こんなところで一体」


「どっちを愛してるんですか?」


刹那は人畜無害な笑顔を貼り付けて、問いかける。

 婚約者の腕には若い女がぶら下がっていた。


「いや、これは」


「おかしいなって思ってたんだよ?僕を見る目が初めから疑いだったことも、結ちゃんの様子を気にしてたのも」


刹那の目はどんどんと鋭くなっていく。


「自分がそうだから疑うんだよ。自分がするから相手もするかもしれないって。それで疑心暗鬼になるんだ」


刹那は手を握りしめる。血が出るほどキツく。

 今の刹那の中にあるのは殺意だけだった。結の幸せを壊す人間がまさか結が愛していると言ったこの男だなんて。早く排除しないと。


「刹那君、何か勘違いしてるようだけど」


気圧されていた男は慌てて女の手を振り払った。

 けれど、刹那の表情は変わらない。激烈な笑顔を浮かべている。


「大丈夫だよ、安心して。愛し合ってるんでしょ?」


刹那は小首を傾げて表情を緩める。まるでそれは何もかもを許して包み込むような慈愛の笑みで、さっきまでとの落差に男は息を呑んだ。


「ちゃあんと送ってあげる」


そこまで言って、刹那の表情はスコンと抜け落ちた。


「二人一緒に地獄に落としてやるよ!」


刹那は男に飛びかかった。

 殺してやるつもりだった。そうすれば、結は幸せになれる。怒りに染まった刹那の頭の中にはそれしかなかった。

 勝てるかどうかなんていう勘定はなく、絶対に殺すという心だけしかない。


 だけれど、刹那は男を殺すことは出来なかった。


 そもそも体格が違う。押し倒すことすらできず、刹那は地面に転がっている。男は一緒にいた女を連れてどこかに消えていた。


「あー、僕は何にもできないままだな」


刹那はぼんやりと空を見上げる。


「結ちゃん信じてくれるかな。……無理だよね」


乾いた笑みを漏らしながら、刹那はぼやく。

 殴られた時に切れた額から血が止まらず片目が赤く染まった。


「嫌われてもいいけど避けられるのはやだなぁ」


前世の結──×××は嘘が嫌いだった。嘘をつくことも、嘘をつかれることも、許せない子だった。だから、刹那の言葉を嘘だと断じたなら、結の世界から刹那は消されるだろう。


 刹那は笑いだした。ケラケラと笑う姿は狂人のようで、けれど瞳からは血に紛れて涙が流れていた。

 迷子の子供のような刹那は、何かを求めるように手を伸ばした。そして、何も掴めずに手を落とす。刹那はそのまま目を閉じた。



 どれくらいそうしていただろう。声が聞こえて目を開ける。そこにいたのは結だった。


「……なんでここにいるの?」


「あなたが居場所がわかるアプリ入れたんでしょう」


「そうだけど、そうじゃなくて」


「いいから起きて、ほら」


刹那は結に差し出された手を見て、困った顔をした。刹那は結に触れたくなかった。触れるのが怖かった。だから、手を借りず自分で立ち上がった。

 そして、結が悲鳴をあげた。


「血、どうしたの!?怪我してるじゃない!」


刹那は言われて額に触れる。ぬるりとした感触がして手を離すと、手が真っ赤だった。血が出ている。

 それを認識すると、さっきまで気にならなかった錆臭くて甘い匂いが鼻についた。刹那が眉を寄せると、垂れてきていた血が口の中にまで入ってきた。不味い。


「ほら、これで拭いて傷口押さえて」


結にハンカチを握らされた刹那は緩く首を振る。


「汚れちゃうよ」


「それどころじゃないでしょ!早くして!」


結があまりにもピシャリというものだから、刹那は目を丸くして、言われた通りに傷口を押さえる。そして、胸がくすぐったくなって笑った。

 結に心配されるのが懐かしくて、そして、嬉しかった。


「何笑ってんのよ。いいから行くわよ」


「どこに行くの?」


「……どこでもいいでしょう。黙ってついてきて」


いつにない結の様子に刹那は素直についていくことにした。


 結の背中を見ながら歩く。

 どうしてきてくれたんだろう。刹那は不思議で仕方なかった。そして、来なくたって別によかったのにと思った。

 こんなの結に手間をかけさせるようなことではない。刹那は結に迷惑をかけたいわけではないのだ。

 ぐちぐちとどうでもいいことを考えていると、結がマンションに入っていこうとする。


「待って、結ちゃんどこいくの?」


「家」


「……家!?ダメだよ結ちゃん!知らない人家にあげちゃダメなんだよ?危機感ちゃんと持って」


刹那は至極真面目にそう言った。刹那と結は知り合いではないのだから、と。けれど、その言葉に結は呆れたように溜息をついた。


「お互い名前を知ってるんだから知らない人でもないでしょ。いいから早く。ご近所さんに見られたくないの」


結はそう言って入っていってしまう。刹那は情けなく眉を下げて悩んだ末に、結の後ろに続いたのだった。



 結の部屋は意外なほどシンプルで、モノが少なかった。モデルルームとまでは言わないけれど、それを連想するくらい、整っている。

 刹那はそれを玄関からぼんやりと見ていた。血みどろの自分が中に入るのは躊躇われた。結はそんな刹那の腕を掴んで無理矢理部屋に入れた。そして、椅子に座らせ救急箱を持ってきた。


「僕、自分でできるから」


「黙ってて」


冷たく言われて、刹那は肩を落とした。刹那の様子を確認した結は器用に手当てをしていく。結は昔から異様に怪我の手当てが上手かった。


「結ちゃん上手だね」


「なんでか昔からできるのよ」


この言葉に刹那は目を丸くして、そして、薄く笑った。結はそれに気づかず、手当てを続ける。刹那の怪我は額だけでなく、腹や背中に赤く熱を持った部分がたくさんあった。

 結は息を呑んだことを悟られないように無心で手当てをした。



 手当てが終わって、刹那は結に渡されたマグカップを両手で握っていた。


「ねえ、結ちゃん。なんであそこに来たの?」


ずっと気になっていた。結が何の理由もなく刹那のところに来るはずがないことは刹那自身がよくわかっている。


「……電話があったのよ。あなたに絡まれたって。あなたが言う言葉は妄言だから何を言われても信じるなって」


「そんなことで来てくれたの?」


「嫌な、予感がしたの。……それで何があったの?」


刹那は結にじっと見られて、苦笑した。そして、事のあらましを話す。

 結はその話を聞いて唇を噛んだ。


「結ちゃん…信じてくれる?」


刹那はそういいながらも信じてもらえるとは思っていなかった。ただ肩をすくめ、ふざけた色を混ぜて笑う。そんな刹那を結は睨みつけた。


「馬鹿なの」


刹那はヘラリと笑った。けれど、頭の中ではこれからどうすれば結との関係を断たずにいられるかを必死で考えていた。愛する人を殴る相手を結はきっと許さない。


「初めから疑ってないわ。……あの人のこと、もともとおかしいと思うことはあったし」


刹那は結の言葉が信じられなかった。だから、こぼれ落ちそうなほど目を開いて、小さく呟く。声は掠れ、驚くほど震えていた。


「でも、愛してるんでしょう?」


刹那は希っていた。自分でもどう答えてほしいのかわからない。けれど、それでもどうか、と祈るような気持ちで結を見つめる。

 結は小さく息を吐いて、脱力した。


「愛なんてわかんないよ。……あの時は少し意地を張ったの。あなたに正直に話すのがなんだか癪で」


その言葉に刹那は自分がどんな感情を抱いているのかわからなかった。

 求めていた答えを得られない苦しさもある。結の幸せが遠のいた悲しさも。けれど、あるはずのない安堵もそこにはあった。それを刹那は認められない。

 そんな刹那に気づかずに結は両手で顔を覆った。これからどうすればいいのか考えたくなくて目を閉じる。心がどうしようもなく重い。

 結は現実逃避をするように言葉を紡いだ。


「あなた馬鹿ね。あの人、空手黒帯なのよ」


結は刹那を見た。刹那は神妙な顔で納得したように頷いた。


「それはナイフがいるね」


刹那は次からナイフを持ち歩こうと心に決めた。排除できない事は往々にしてあるということを今回でよくよく理解した。

 そんな刹那に結は顔を引き攣らせた。気を許しかけていたけれど、怖い人間に変わりはないのだ。それと同時に少しおかしくもあった。

 結はなんだか浮気男のことなんてどうでもいいような気がしていた。それよりも刹那を自然と受け入れかけている自分の方が大問題のように感じて。

 だから、浮気を知って、ショックも受けているし、腹立たしいし、悲しいけれど、泣き喚くほどではない。ただ、これからのことを思うと重苦しい気持ちにはなる。浮気男と別れ話をして、現実に戻る労力を思うと疲れてしまう。

 今、結が一番しんどいのはそこだった。

 きっとこれが刹那に出会う前なら一人で泣き暮らし、なんなら泣き寝入りまでしたかもしれない。一人は怖いから。けれど、刹那がいるから結は切り捨てることが出来る。

 この時、結はその事実を認めざるを得なかった。刹那について明確に定義してしまったのだ。

 結は溜息をついて立ち上がった


「ご飯作るけど食べる?」


「え、食べ、たい……けど、ダメだよ!僕帰るよ」


「いいから大人しく座ってて」


叱られた刹那はしゅんと肩を落として、その場で大人しくしている。その姿が結には大型犬のように見えて、少し可愛く思えてしまった。

 口元が緩んだ自分が許せなくて、結は唇を尖らせる。そして、料理をして忘れてしまおうと集中した。



 食べ終えて、結は刹那を玄関まで見送る。その時に、思い出して声をかけた。


「ねえ、スマホ出して」


「え、うん」


刹那は言われた通り結にスマホを差し出した。それを受け取った結は連絡先を勝手に交換する。


「あの、結ちゃんよくないよ。危ないよ」


あわあわと慌てている刹那に、結は呆れたように笑った。


「あなたの場合は知らない方が危ないの」


はい、と返されたスマホを両手で受け取った刹那は困ったように視線を彷徨わせてから、小さくありがとうと言った。そうして、帰っていく。


 チグハグだと思った。刹那も自分も二人の関係も全部チグハグだと。けれど、不思議とそれが不快ではなかった。仕方がないなとそう諦めてしまえるような優しい何かが存在していて、それだけでもういいような気がした。


 結はきっとこの日を一生忘れないだろう。






◆◆◆











「愛なんてこの世に存在しない」


じゃあ、僕のこの気持ちは──


「そんなのまやかしよ」


そんなことない

どうしたら信じてくれるの


「……私のことを愛していると言うのなら示してみせて。もっともそんな方法があるとは思えないけれど」





 そう言われた僕は──。




 「そう、それを選んだの」





 刹那は汗だくで目を覚ました。手が震えている。何度も繰り返し見る夢。それは刹那と結──ゆかりの最後の日の記憶だ。

 刹那はこの夢を見るたびに自問する。あれは本当に正しかったのか、と。未だに悩んで答えが出ない。だから、結に踏み込みきれない。触れられない。

 刹那はずっとそんな自分が消えてしまえばいいと思っている。だから、結が愛する人と幸せになる姿を見られたなら刹那は満足して未練なく逝けるだろう。出来れば結の不幸を引き受けて逝けたら最高だ。

 そんな馬鹿みたいに幸せな空想をして、刹那は息を吐いた。




 縁はひとりぼっちだった。両親は死んでいて、天涯孤独の身で一人暮らしていた。そんな縁に拾われたのが刹那だ。

 刹那は縁の家の近くに住んでいて、拾ってもらったのは家から這う這うの体で逃げ出した日だった。

 縁の家の前で力尽きたように倒れていた刹那を縁は家に招いて手当てをしてくれた。静かで冷たそうな縁は不器用で包帯を巻くのが下手だった。思わず刹那が笑うと、縁は口を尖らせる。その姿がとても人らしくて、刹那は縁ともっと一緒にいたいと思った。

 それから刹那は縁の家に避難するようになった。刹那は日常的に親に殴られていて、できるだけ寝静まった頃に家に帰りたかった。だから、大人がいない縁の家はちょうどよかった。

 縁は刹那を嫌がらずに家にあげてくれた。だから、毎度傷だらけで来る刹那の手当が上手くなるのも早かった。

 刹那という名前も縁がつけた。刹那は名前が呼ばれることがなく、咄嗟に思い出せず、縁がつけてくれたのだ。

 そんな風にして二人は一緒に過ごしていた。お互い身の上話はほとんどしなかった。


 そんなある日、縁が珍しく自分のことを教えてくれた。刹那はその話を一字一句聞き逃さないように神経を尖らせた。心を話すことはとても怖いことだから。

 縁の両親は心中して死んだらしい。幼すぎて理由はわからないけれど、母親が言った言葉が脳裏にこびりついて離れないのだと縁は言った。


『あなたは生きなさい。死ぬのは愛する人とよ。これは最大の愛の告白だからね』


なんと惨い言葉だろうかと刹那は思った。死ぬことで愛を証明するなんて馬鹿げていると思った。

 けれど、その後の縁の言葉に考えが変わった。


「私ね。あの日から愛がわからないの。愛されて育ったはずなのに、本当に愛されていたのかすら信じられない」


縁は死を持ってしか愛を受け入れられないのだとこの時刹那は思ってしまった。

 けれど、刹那はそうでない未来を願った。刹那にとって縁は初めて見つけた幸せそのもので、一緒に生きていく世界を望んだ。だから、刹那は縁のそばにいた。そばにいればいつか伝わると信じた。



 そうして、迎えたあの日。


「愛なんてこの世に存在しない」


その言葉に刹那は絶望した。そして──諦めた。

 刹那は縁を押し倒した。そして、両手を首に当てる。


「そう、それを選んだの」


縁は無だった。怒りも悲しみもしない。ただガラスのような目で刹那を見ている。それがことさら刹那の心を抉った。

 刹那は震える手で縁の首を絞める。世界を遮断するように刹那の瞳は涙でぼやけていた。鼻を啜り、口で荒い息を吐きながら、首を絞め続ける。

 だから、音のない声で呟いた縁の言葉に刹那は気づかなかった。


──母と同じにはなりたくなかったのに


そのまま刹那は縁を殺し、その場で首を括った。











◆◆◆






「おかえり」


刹那が結に駆け寄る。

 あの日からも変わらずこんな日常が続いている。よくわからない距離感でよくわからない関係のままに。

 けれど、今日は少し違った。


「あのね。ちゃんと別れたよ。あの人と」


結は覚悟を決めた顔で刹那に言う。

 刹那は凍りついたように固まってしまった。ただ、呆然と結を見ている。


「それ、どういう顔?」


結は腹立たしそうに刹那を睨みつけた。


「え、ううん。なんでもないよ。……おめでとうでいいの、かな?」


「うん。それで、……いろいろ、ありがとう」


結は羞恥を堪えながらなんとか言い切った。それを見た刹那は、急に穏やかな顔になった。


「そっか、結ちゃんは一人で幸せになれるんだね」


結は言葉の意味がわからなかった。結は今、刹那に歩み寄る言葉を告げたつもりだった。けれど、刹那は頓珍漢なことを言っている。会話をする気がないのだろうか、と結は溜息が出そうだった。


「どうにも僕は結ちゃんの邪魔ばっかりしてるみたいだ。きっといつも僕が間違えてるんだね。だから、もう僕はいらないや」


一人で言い切って一人で納得した刹那は結に笑いかける。それは初めて見るほど明るい満面の笑みで、結は思わず刹那の頬を打っていた。


「……え?」


刹那はポカンと結を見た。結は自分の手を見つめる。自分の行動が信じられなかった。

 刹那相手に咄嗟に手が出るほど苛立った自分に結は呆れる。刹那の行動にいちいち振り回されるのは結にとって屈辱だ。けれども、咄嗟にそうして正気に戻さなければいけない気がするほど刹那がおかしかったのもまた事実で。


「あなたが何を思ってそんな結論に達したかなんて知らないけど、まさか消えようなんて思ってないよね?」


「……僕と関わっても碌なことないよ。縁ちゃんもそうだったし、結ちゃんもそうでしょ?」


刹那はまるで引き止めるかのような結の言葉に困惑していた。結の考えていることがわからない。

 刹那がそばにいるメリットは結にはないはずだ。縁にも結にもそんなものは存在しない。


「押しかけてくるストーカーの分際で今更それ言うの?」


結は呆れ返っていた。今更という言葉しか頭には浮かばない。そんな風にしおらしく思う心があるのならば、初めに来るなと言われた段階で諦めろと言いたい。


「そう言われると返す言葉もないんだけど……僕結ちゃんの世界を圧迫してるでしょ?」


「……いてもいなくても一緒だからいればいいわよ」


結の言葉に刹那はキョトンとしてから、破顔した。その言葉は結の最大限の許しだと刹那にはわかった。


「じゃあ、結ちゃんが愛する人を見つけるまではここにいるね」


刹那はウインクしそうなほどテンション高く返事をした。

 結はそんな刹那に驚きながら、けれど、子供のような刹那の反応に思わず笑っていた。


 二人はとても楽しかった。そして、結はこの日々が続くことを想像し、刹那は終わることを想像した。


 二人はこれからも相容れぬまま生きていくだろう。それが幸か不幸かはわからないけれど。






◆◆◆











「ただいま」


「おかえり…?」


困惑したような刹那の返事に結はこれ見よがしに溜息をつく。


「いい加減慣れたら?」


「僕、いまだにどうしてこうなったのかわからないんだけど……」


刹那と結は今、同じ部屋で生活していた。


 別に何か特別なことがあったわけではない。二人が恋人や夫婦になったという事実はないし、友人であるかも怪しい。

 ただ、つい最近たまたま結の転勤が決定して、家賃節約を理由に結が刹那を連れてきただけだった。つまり、所謂ルームシェアというものを結と刹那はしていた。


 思えば遠くまで来たものだ。刹那と出会ってからもう十年も経っている。初めて話した時は怖くてたまらなかったというのに、今では刹那を困惑させることも揶揄うことも躊躇なくできるようになっていた。

 これが結の恐怖心の麻痺によるものなのか、刹那の尖っていた行動が丸くなったからなのかわからない。けれど、結は結構この関係を気に入っていた。そして、きっと一生こんな風に暮らすのだろうという予感がしていた。

 けれど、刹那は往生際悪く、結に好きな人はできないのかと聞く。その時の刹那は怯えているくせに、まるでそうあることを望むように振る舞うものだから、結はいつか刹那をやり込めてやろうと虎視眈々と狙っていた。






 初めの頃と反転して、怖がりになった刹那と強くなった結。二人の世界は優しく穏やかであり続けるだろう。死が訪れようとも永遠に。











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