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なんで私だけ違うの?

作者: さくら
掲載日:2026/04/19

教室のざわめきは、いつも同じ音色をしているのに、明日香にはどこか遠くの世界のもののように感じられていた。


朝の光が差し込む窓際の席で、明日香は静かに教科書を取り出す。そして、机の左上の角にぴたりと揃えて置く。角と角がきちんと重なるように、ほんの数ミリのズレも許さない。


それが終わって、ようやく息が整う。


「またやってる」


誰かの声が、背後でくすくすと笑った。


明日香は振り向かない。聞こえないふりをするのも、もう慣れていた。けれど、次の瞬間、机の上の教科書が指で押され、わずかにずれる。


心臓が、ひゅっと縮んだ。


「やめて」


小さく言う。けれど、その声は軽く流される。


「なにこれ、儀式?」


「ずれても死なないでしょ」


笑い声が重なる。


明日香は、そっと教科書を元の位置に戻す。何も言い返さない。ただ、指先だけが少し震えていた。


——変わってる。


そう言われることには、もう慣れているはずだった。


けれど、「変わっている」と「傷つかない」は、同じじゃない。




その日の昼休み、珍しく明日香は女子グループの中にいた。


理由ははっきりしない。ただ、「ちょっと来なよ」と呼ばれて、断る理由も見つからなかっただけだ。


教室の隅、窓際に集まった数人の女子たちは、楽しそうに笑っていた。


「ねえ、髪結び合いっこしよ!」


長い髪の子がそう言って、隣の子の髪をくるくるとまとめ始める。


「いいね、それ〜!」


明るい声が弾む。


誰かが、明日香の方を見た。


「明日香もやろうよ」


一瞬、空気が止まった気がした。


明日香は、自分の髪に触れた。肩より少し長い、まっすぐな黒髪。


他人に触られるのが、どうしても苦手だった。理由はうまく言えない。ただ、ぞわりとした不快感が、全身に広がる。


「ごめん、その遊びは参加しない」


なるべく穏やかに言ったつもりだった。


けれど、その場の空気はわずかに変わる。


「えー、なんで?」


「ノリ悪くない?」


「ちょっとくらいいいじゃん」


笑いながら言っているのに、どこか棘がある。


明日香は首を横に振った。


「無理」


その一言が、決定的だった。




それからだった。


「触っちゃダメなんでしょ〜?」


「大事な髪なんだもんねぇ?」


からかうような声が、日に日に増えていく。


机の上の教科書は、相変わらず狙われた。わざと大きくずらされたり、別の机に移されたりすることもあった。


最初は笑って流そうとしていた女子たちも、次第にエスカレートしていく。


廊下ですれ違うと、肩をぶつけられる。


後ろから髪に触れられて、思わず体が跳ねると、それを見てまた笑われる。


「ほら、やっぱ変わってる」


その言葉が、何度も何度も繰り返された。




ある日の放課後。


教室には、まだ数人の生徒が残っていた。


明日香は、意を決して女子グループの前に立った。


胸の奥が、強く脈打っている。


けれど、逃げたくなかった。


「あのさ」


声が、少しだけ震える。


それでも、続けた。


「私たち、合わないと思う」


数人の視線が、一斉にこちらを向く。


「だから、友だちやめよう」


静まり返る教室。


一瞬の沈黙のあと、誰かが笑った。


「は?」


「なにそれ、自分から言う?」


「感じ悪」


言葉が、次々と飛んでくる。


明日香は、もう何も言わなかった。ただ、その場を離れた。


これで終わると思っていた。


少なくとも、関わらなくて済むと。




けれど、それは始まりだった。


次の日から、無視はさらに露骨になった。


いや、それだけではない。


机に落書きが増えた。


教科書が隠された。


筆箱がゴミ箱に捨てられた。


笑い声が、自分に向けられているのがわかる。


「友だちやめよう、だって」


「ウケるんだけど」


逃げ場は、どこにもなかった。


それでも、明日香は毎朝、教科書を机の左上に揃える。


どれだけずらされても、何度でも。


指先で、角を合わせる。


それだけが、自分を保つための、最後の小さなルールだった。


教室のざわめきは、今日も同じ音をしている。


けれど明日香は、その中で、確かにひとりだった。



——大人になってからも、それは変わらなかった。


社会人になり、明日香は小さな事務の仕事に就いた。


決まった時間に出勤し、決まった作業をこなす。

数字を揃え、書類を整え、ミスなく処理する。


仕事自体は、むしろ得意だった。


「丁寧だね」

「正確で助かるよ」


そう言われることもあった。


けれど、人間関係になると、途端に歯車が噛み合わなくなる。


雑談のタイミングがわからない。

冗談にどう返せばいいのか迷う。

誰かが突然距離を詰めてくると、体が固まる。


「ちょっと変わってるよね」


学生の頃と同じ言葉が、形を変えて繰り返される。


明日香は、ある日ふと思った。


——私は、なんでこんなに「普通」が難しいんだろう。


きっかけは、ほんの些細なことだった。


休日の午後、何気なく開いたスマートフォンの記事。


「大人になって気づく発達特性」


その文字が、妙に引っかかった。


スクロールしながら読み進める。


・こだわりが強い

・物の位置や順序に強い安心感を覚える

・感覚過敏(触覚や音など)

・対人関係の距離感がつかみにくい

・冗談や曖昧な表現の理解が苦手


ひとつ、またひとつと、心当たりが重なっていく。


指が、止まった。


——これ、私のことみたい。


胸の奥が、ざわりと揺れた。


怖さと、安堵が、同時に押し寄せる。


「理由があるかもしれない」


そう思った瞬間、今までの記憶が一気に繋がった。


教室でのざわめき。

ずらされた教科書。

触れられたときのあの嫌悪感。

「変わってる」と笑われた日々。


全部が、意味を持ちはじめる。


それから、明日香は少しずつ調べ始めた。


本を読み、体験談を探し、専門機関の情報にも目を通した。


「アスペルガー症候群(現在は自閉スペクトラム症の一部として扱われる)」


その言葉を知ったとき、不思議としっくりきた。


知能に問題はない。

むしろ得意な分野もある。


けれど、人との関わりや感覚の部分で、どうしてもズレが生じる。


——これなら、説明がつく。


そう思った。


数週間後。


明日香は、専門の相談機関の前に立っていた。


ドアノブに手をかける。


少しだけ、震えている。


けれど、昔とは違った。


あの頃は、「変わっている」と言われることが怖かった。


今は、「自分を知ること」が、少しだけ楽しみでもあった。


ゆっくりと扉を開ける。


——あの日、教室でひとりだった自分へ。


もし、声をかけられるなら、こう言いたい。


「あなたは、間違っていない」


ただ、少しだけ、世界との感じ方が違うだけだと。


明日香は、静かに息を吸い込んだ。


そして、一歩、中へと踏み出した。


受付の小さなカウンター越しに、柔らかな声がした。


「ご予約の方ですか?」


明日香は、一瞬だけ言葉に詰まる。


けれど、ここで引き返したくはなかった。


「はい」


それだけを、はっきりと答える。


自分の名前を伝え、案内された椅子に腰を下ろす。

待合室は静かで、教室のざわめきとはまったく違う種類の空気だった。


壁の時計の音が、規則正しく響いている。


——大丈夫。


心の中で、そう繰り返す。


やがて名前を呼ばれ、小さな相談室に通された。


向かいに座ったのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。


「今日は、どんなことで来てくださったんですか?」


その問いに、明日香は少しだけ考える。


何から話せばいいのか、わからなかった。


けれど——


「自分のことが、よくわからなくて」


言葉は、思っていたよりも自然に出てきた。


「昔から、変わってるって言われてきて…でも、どう変わってるのか、自分ではちゃんと説明できなくて」


指先が、無意識に揃えられていく。

膝の上で、左右の指をぴたりと合わせる。


相談員は、それを止めなかった。

ただ、静かに頷きながら聞いている。


「最近、発達の特性についての記事を読んで…もしかしたら、自分もそうなのかもしれないって思って」


言い終えたあと、胸の奥が少し軽くなった。


初めて、自分の中にあった違和感を、言葉にできた気がしたからだ。


面談は、いくつかの質問と簡単なチェックを含めて進んでいった。


子どもの頃の様子。

学校での出来事。

人との関わり方。

感覚の過敏さや、こだわりについて。


明日香は、一つひとつ丁寧に答えた。


途中で、何度か言葉に詰まることもあった。

けれど、急かされることはなかった。


沈黙も、そのまま受け止めてもらえた。


「いくつか、特性として当てはまる部分はありそうですね」


面談の終わりに、相談員は穏やかにそう言った。


「ただ、正式な診断は医療機関での評価が必要になります。もし希望されるなら、ご紹介もできますよ」


明日香は、小さく頷いた。


「……知りたいです」


その言葉には、迷いがなかった。


怖さが消えたわけじゃない。


でも、それ以上に——


曖昧なままでいることの方が、ずっと苦しかった。


数週間後。


専門の医療機関での検査を終え、明日香は再び同じ部屋にいた。


机の上には、いくつかの資料が並べられている。


医師が、ゆっくりと口を開く。


「結果をお伝えしますね」


心臓の音が、少しだけ大きくなる。


「明日香さんには、自閉スペクトラム症の特性が認められます」


静かな声だった。


けれど、その言葉は、はっきりと届いた。


不思議なことに、涙は出なかった。


代わりに、長い間ずれていたものが、ぴたりと揃ったような感覚があった。


——やっぱり。


そして同時に、


——これでいいんだ。


そう思えた。


帰り道。


明日香は、いつもよりゆっくり歩いていた。


世界が急に変わったわけではない。


人の視線も、社会のルールも、これまでと同じままだ。


それでも、自分の見え方が少し変わっていた。


「できないこと」ではなく、

「特性として難しいこと」。


「変わっている」ではなく、

「感じ方が違う」。


ほんの少し、言葉が変わるだけで、受け取り方も変わる。


その日から、明日香は少しずつ試し始めた。


苦手な雑談は、無理に長く続けなくていいと決めた。

その代わり、仕事の報告や連絡は、より丁寧にする。


触れられるのが苦手なことも、勇気を出して伝えてみた。


「驚いてしまうので、急に触れられるのが苦手なんです」


最初は戸惑われた。

けれど、理解を示してくれる人も、確かにいた。


「そっか、知らなかった。ごめんね」


その一言に、胸が少しだけ温かくなる。


ある日の朝。


いつものように机に向かう。


教科書——ではなく、仕事の書類を取り出す。


そして、左上の角に揃える。


ぴたり、と。


その感覚は、今も変わらない。


けれど、もうそれは「おかしな癖」ではなかった。


自分を整える、大切な方法のひとつだ。


ふと、昔の教室を思い出す。


ざわめきの中で、ひとりだったあの頃。


もし、あの時の自分にもう一度会えるなら——


きっと、こう言える。


「そのままでいい、とは言わない」


世界は簡単には変わらないから。


でも、


「自分のことを、知っていい」


それだけで、少しだけ生きやすくなるから。


窓の外から、朝の光が差し込む。


明日香は静かに息を整え、次の作業に手を伸ばした。


今も、ざわめきの中にいることに変わりはない。


それでも——


もう、「ひとり」ではなかった。

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