夜の手前で、声はまだ壁の中にいる
夜の手前で、声はまだ壁の中にいる
部屋の隅から、音がした。
最初は、冷蔵庫の駆動音だと思った。古いアパートでは、何かが鳴っていても不思議ではない。水道管が軋むこともあるし、隣室の生活音が壁を薄く伝ってくることもある。だから私は、いつものように気にしないふりをした。
けれど、その音は少し違った。
規則的ではなく、不規則でもない。
耳を澄ませば聞こえるのに、意識を向けると遠ざかる。壁の向こうから届く音というより、壁そのものが何かを覚えていて、それをうまく発音できずにいるような、そんな気配だった。
私は机の上のノートを閉じた。
時計は午前一時を過ぎていた。窓の外には、向かいの建物の非常階段だけが白く浮かんでいる。雨は降っていない。でも、空気には雨の前みたいな重さがあった。
もう一度、音がした。
こと。
乾いた、小さな接触音。
私は立ち上がって、部屋の隅に近づいた。そこには背の低い本棚と、引っ越してきたときから開けていない段ボール箱が二つ積まれている。そのあいだの壁紙が、少しだけ浮いていた。
こんなだっただろうか、と思う。
前からそうだった気もするし、今夜初めて見つけた気もする。記憶は曖昧で、曖昧なままのほうがしっくりくるものもある。
私は浮いた壁紙の端に指を伸ばしかけて、やめた。
触れた途端、何かが決まってしまう気がしたからだ。
そのとき、背後でスマートフォンが震えた。
机の上に置いたままの画面には、通知がひとつ表示されていた。送信者名はない。番号もない。あるのは短い本文だけだった。
「まだ、はがさないで」
私はしばらく動けなかった。
いたずらだろうかと思った。けれど、この番号にメッセージを送ってくる誰かに心当たりはない。そもそも番号の表示自体がなかった。アプリの不具合かもしれない。深夜の疲れで見間違えたのかもしれない。
そう思って画面を見直したが、本文は消えていなかった。
まだ、はがさないで。
私はスマートフォンを伏せた。見なかったことにしたかった。けれど、見てしまったものはもう戻らない。
壁の前に立ったまま、息を整える。
何かがおかしい。
でも、おかしいのは今夜だけではない気もした。もっと前から、ずっと薄く続いていた違和感が、今ここで少しだけ濃くなっているだけなのかもしれない。
私はこの部屋に越してきて三年になる。駅から遠く、日当たりもよくなく、家賃だけが妙に安かった。内見のとき、不動産会社の担当者は「静かな部屋ですよ」と言った。たしかに静かだった。静かすぎるくらいに。
住み始めてから、何度か思ったことがある。
この部屋は、物音が少ないのではなく、音を飲み込むのだと。
笑い声も、独り言も、ため息も、どこか途中で薄くなる。吸われる、というのとも違う。音が部屋の中に沈んで、そのまま底に溜まっていく。そんな感覚。
私はそれを気のせいだと処理してきた。
今夜までは。
また、こと、と音がした。
今度は壁の内側からではなかった。本棚の上。細い額縁に入れた写真立てが、わずかに揺れている。
写真の中には、空のホームが写っていた。数年前、旅先で撮ったものだ。誰もいないローカル線の駅。夕方で、ベンチだけが長く影を落としている。気に入って飾っていたはずなのに、なぜそれを飾ったのか、はっきり思い出せない。
私は写真立てを手に取った。
ガラスの向こうのホームは、相変わらず静かだった。
ただ、ベンチの端に、以前はなかった影が見えた。
人が座っているように見える。
輪郭は曖昧で、拡大しても判別できないくらい小さい。撮影時には気づかなかっただけかもしれない。光の具合でそう見えるだけかもしれない。
でも、私はなぜか確信した。
あれは、今できた影だ。
写真の中の空間が、今夜になって少しだけ更新されたのだ。
その確信に、理由はなかった。
理由がないのに、確かだと思ってしまうことがある。感情はだいたいそういうものだし、記憶も案外そうだ。
「あなた、誰」
思わず声に出していた。
質問した相手が壁なのか、写真なのか、あるいはこの部屋そのものなのか、自分でも分からなかった。
返事はすぐには来なかった。
代わりに、伏せていたスマートフォンがもう一度震えた。
「ここに残った声です」
私は喉の奥が乾くのを感じた。
「誰の」
問い返す。画面の向こうの何かは、少し間を置いてから答えた。
「あなたのものだけではありません」
部屋の温度が少し下がった気がした。エアコンはつけていない。窓も閉めている。それでも、何か見えないものが通り過ぎたような冷えが、足首のあたりを撫でた。
「ここにいた人たちの声です」
画面の文字はそれだけだった。
私は椅子に座り直した。立っていると、自分の重さがどこにあるのか分からなくなりそうだった。
ここにいた人たち。
この部屋には、私の前にも誰かが住んでいた。何人も。笑った人、泣いた人、電話を切れなかった人、言わないまま諦めた人。壁はそれを聞いていたのだろうか。床は覚えていたのだろうか。窓ガラスは、外へ出ていけなかった声の輪郭を、薄く映していたのだろうか。
馬鹿げている、と思う。
でも、その馬鹿げた想像は、不思議と恐ろしくなかった。
むしろ少しだけ、救いに近かった。
消えてしまったと思っていたものが、本当は消えていないかもしれない。届かなかった言葉も、最後まで言えなかったひとことも、どこかで完全には失われていないのかもしれない。
私はスマートフォンに打ち込んだ。
「それで、どうして今夜、出てきたの」
返事はすぐに来た。
「あなたが、やっと静かになったから」
その一文を見た瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
静かになった、という言葉に覚えがあった。
この部屋に来た頃の私は、たぶん今よりずっと騒がしかった。仕事の愚痴を言い、過去の会話を何度も反芻し、誰にも送らない長文を下書きに溜め、眠れない夜ごとに何かを言葉で埋めようとしていた。
空白が怖かったのだと思う。
沈黙してしまうと、自分の中に何も残っていないことが露呈しそうで。だから音を立てていた。言葉を並べていた。意味のあるふりをして、意味のない焦りを隠していた。
けれど最近、私はあまり話さなくなった。
諦めたわけではない。ただ、前ほど急いで説明しなくなった。誰かに伝わる前に、自分の中でまだ形を持たないものがあると知ったからだ。
それを、静かになった、と呼ぶのなら。
たぶん私は今夜、ようやくこの部屋に聞こえる速度になったのだ。
私は立ち上がって、本棚の前に戻った。
浮いた壁紙を見つめる。
「この中に、あるの」
返信はない。
代わりに、壁の向こうから、かすかな気配がした。言葉ではない。音でもない。けれど、それは拒絶ではなかった。どちらでもいい、という沈黙だった。
私は今度こそ、壁紙の端に触れた。
ゆっくりと引く。
ぺり、と乾いた音がして、古い接着面が少しだけ剥がれた。中から出てきたのは穴でも秘密の箱でもなかった。ただ、壁紙と壁のあいだに挟まっていた、薄い紙切れが一枚、床に落ちた。
私はそれを拾う。
黄ばんだメモ用紙だった。文字は鉛筆で書かれていて、半分以上かすれている。読めるのは一行だけだった。
「言えなかったことは、なくなったわけではない」
私はその紙を見つめた。
見覚えはない。自分の字でもない。
なのに、どこかでずっと知っていた文章のように思えた。誰かの遺書でも、告白でも、詩でもない。ただ、途中で置かれたままの事実。説明しきれなかった心の切れ端。
それがどうしてこんなところにあるのかは分からない。
誰が残したのかも分からない。
でも、分からないまま受け取ってしまうものもある。
私は机に戻り、ノートを開いた。白いページの上に、さっきまで書こうとしていた言葉の続きはもう必要ない気がした。
代わりに、新しい一文を書く。
部屋は静かだった。 けれど静けさは空ではなく、 言えなかった声の置き場だった。
書き終えて、少しだけ呼吸が楽になる。
写真立てを見る。ホームのベンチに見えていた影は、もうほとんど分からなくなっていた。最初からなかったみたいに薄い。でも、たしかに一度そこにいた。そう思うこと自体が、今夜の出来事の証拠になる気がした。
スマートフォンの画面は暗いままだ。
もう通知は来ないのかもしれない。
それでも私は、最後にひとつだけ打った。
「ありがとう」
送信先のないメッセージは、宛先不明のまま画面に残った。
数秒後、文字がひとつだけ返ってきた。
「どういたしまして」
それきり、何も起こらなかった。
壁はただの壁に戻り、本棚は黙り、部屋はいつもの深夜に戻る。冷蔵庫の低い駆動音だけが現実らしく鳴っていて、その現実のほうが少しだけ頼りなく感じられた。
私はメモ用紙をノートに挟んだ。
残しておこうと思った。証拠としてではなく、なくならなかったものの形として。
言えなかったことは、なくなったわけではない。
その一文は、たぶん誰かのものだった。もうここにはいない、名も知らない誰かの。けれど今夜だけは、それが少しだけ私の言葉にもなった気がした。
窓の外で、始発前の街が薄くほどけはじめる。
夜が終わるのではなく、夜の中にあった輪郭のいくつかが、朝に渡されていく。そんなふうに見えた。
私はスタンドライトを消した。
暗くなった部屋の中で、壁はもう何も喋らない。
それでよかった。
全部を聞き取れなくていい。全部を言い切れなくていい。残る声があるなら、それは欠落ではなく、まだ形を持つ途中なのだ。
そう思いながら目を閉じる。
夜の手前で、声はまだ壁の中にいる。
そしてたぶん、朝になっても、完全には消えない。




