005話 ~ 私の部屋には窓がなかった
あれから1週間。
私と母が避難生活で住んでいたのは、地下9階にある、窓がないだけのマンションだった。2LDKの間取りに最新の家電、ふかふかのソファ。不自由なんて何一つなかった。けれどテレビに流れてくる話には、毎日驚かされた。
私の学校に出たゾンビを皮切りに、世界で百人以上が確認されているらしい。
「発症者」という言葉に置き換えられてはいるけれど、画面の隅で流れるボヤけた映像には、あの教師と同じ、意思を失った瞳が映り込んでいた。
どうやらそれが特徴のようで、白く濁った瞳と石油の匂い。近づくとわかる低い唸り声。テレビの音量を上げると、マイクが拾ったその「音」が、リビングの静寂をかき乱した。それは言葉というより、古い機械が軋むような、あるいは粘り気のある何かが喉の奥で蠢くような、生理的嫌悪を呼び起こす響きだった。
「……気持ち悪い」
思わず独り言が漏れた。画面を食い入るように見ていると、アナウンサーは最後に、今までの発症者の数をもう一度言い直した。そこには新たに十名ほどが加えられていた。
リアルタイムで増えていく発症者。
その数字が更新されるたびに、あの体育館で見た、あの教師の白く濁った瞳がフラッシュバックする。恐怖の記憶が、胃の奥からせり上がってくる。
ただ、今日、私が地上に出る勇気を持てたのには、理由があった。あれから一週間、発症者が原因の「死者」は、まだ一人も報じられていないからだ。
噛みつかれた人はいても、食べられた人はいない。襲いかかってはくるけれど、命を奪うまでには至らない。それがこの「病気」の奇妙な特徴として、ネットでは次第に楽観的な空気さえ生まれ始めていた。
「よかったわね、あの方も助かったみたいで」
母は、まるでドラマのハッピーエンドでも見届けたかのように、穏やかに微笑んだ。あの方――それは、あの体育館で噛まれた、保護者の女性のことだ。
喉元を食い破られ、噴き出すような鮮血の中で崩れ落ちた、あの人。遠くからでもわかった、あのどす黒い赤。あれほど血が流れていたのに、とても無事でいられるようには見えなかったのに。
「……ふーん、助かったんだ……」
シャツが深紅に染まりきっていたのに……。
母の言葉をなぞりながら、私は拭いきれない薄ら寒さを覚えていた。
「助かった」という言葉は、普通なら「元通りになる」という意味だ。でも、あの体育館で見たものは、そんなに簡単に修復できるものには思えなかった。映画やゲームに出てくるゾンビだって、そういえば「死んでいる」わけじゃない。心臓が止まっていても動いているのか。それとも、死ぬことさえ許されずに、ただ変質してしまったのか。
(……あの保護者の人も、死んでいないだけで、もうゾンビになっちゃったのかな)
もしそうなら、「死者ゼロ」というニュースは、救いでも何でもない。世界中に、あの濁った瞳をした「死ねない人たち」が百人も増えたことになる。
本当のことが知りたくて、お父さんに聞きたいことは山ほどあった。あの日、私に「0.0022」という数値を突きつけ、偽物のスマホを渡したお父さんなら、この「死なない奇跡」の裏側を知っているはずだ。
けれど、この一週間、私は一度もお父さんに会えていない。地下21階にあるという彼の研究室は、今や世界中から集まった専門家や政府関係者であふれかえっているらしく、食事の時でさえ帰ってこなかった。
「パパは世界を救うために頑張っているのよ」
母は誇らしげにそう言うけれど、私には、お父さんが世界を救っているのか、それとも「手遅れになった世界」に蓋をしているのか、わからなかった。
「さあ、そろそろ行きましょう。テレビはしまっておいてね」
すっかりおめかしをした母が、明るい声で私を呼んだ。母のその姿は、一週間前、あの惨劇に向かった時と同じように完璧で、少しの乱れもなかった。
「……うん。今、行くよ」
一週間ぶりに袖を通した制服は、少しだけ以前より重く感じた。月白色の生地に、鮮やかな碧のリボンを結ぶ。鏡に映る私は、あの日、期待に胸を膨らませていたはずの新入生の姿そのものだった。
「準備はいい? 結月子。時間が決まっているんだからね」
背後から母の声が飛んできた。この施設の居住者には、秒単位で決められた移動スケジュールが割り振られている。他の居住者と鉢合わせないように計算された、完璧な回遊路。だから、重厚な玄関ドアを開けて廊下に出ても、そこには私たち以外の人影はひとつもなかった。
どこまでも続く、窓のない無機質な通路。自分たちの足音だけが反響するその空間は、マンションというよりは、巨大な回路の中を歩いているような気分にさせた。
エレベーターが地上に到達し、エントランスの自動ドアが開いた。一週間ぶりの外気。けれど、そこに広がっていたのは、私の知っている賑やかな街並みではなかった。
「……タクシー、来てるわね」
母が指差した先。ロータリーに静かに停まっていたのは、運転席に人型のロボットが座っているタクシーだった。
「……これってやっぱ、完全に秘密基地だよね?」
タクシーに乗り込み、シートの冷たさを感じながら思わず呟いた。地下9階のマンション、決められた移動時間、そしてこの無機質な車。あの日までの「普通」が遠のいて、まるでスパイ映画のセットの中に放り込まれたような錯覚に陥る。
母は、私の言葉に「ふふ」と小さく苦笑いするだけだった。その横顔は、秘密基地の住人であることを特権として楽しんでいるようにも、あるいは単に順応しているようにも見えた。
「……あれ、運転手さん、顔が変わった?」
窓越しに運転席を覗き込む。以前街で見かけた同型のロボットは、人間に似せたシリコンの皮膚を纏い、不気味なほどリアルな表情を浮かべていたはずだ。けれど、今目の前にいる「彼」は、鈍く光る金属のフレームを、そのまま剥き出しにしていた。
シリコンの肌を捨て、機械であることを隠さないその姿。愛想を振りまくように、カクカクと頭を下げる動作だけが、かつての名残を留めている。
今の世界では――中途半端に人間に似ていることよりも、徹底して「菌もウイルスも持たない無機質」であることの方が、ずっと“感じがいい”と判断されたのだろうか。
「さあ、出発よ。学校までお願いね」
母がスマホを端末にかざす。
それだけで、タクシーは音もなく滑り出した。
窓の外を流れる景色は、驚くほど――一週間前と変わっていなかった。
変わったのは、桜の花びらが道端に溜まっていることくらいだ。コンビニの前にはトラックが荷を降ろし、信号待ちの自転車が退屈そうに足を地面についている。テレビで流れていた「世界で百人以上の発症者」というニュースが、まるで遠い異国の出来事だったのではないか――そう思わせるほど、街は平穏そのものだった。
清白高等学校に着くと、校門は一週間前と同じように開放されていた。物々しい検査も、防護服を着た警備員もいない。登校してくる生徒たちは、まるであの惨劇なんて無かったかのように、談笑しながら校舎へと吸い込まれていく。
あまりの「普通」さに、私の記憶の方が間違っていたのではないかと錯覚しそうになる。
教室に入ると、黒板には『祝・入学』の文字がそのまま残っていた。あの日、隣の席で泣き叫んでいた女の子も、今は楽しそうにスマホを弄っている。彼女の首元に貼られた小さな白いテープだけが、私に「あの日」が現実だったことを突きつけていた。
やがて、スピーカーからノイズ混じりの音が流れた。本来なら体育館で行われるはずの入学式は、各教室での放送という簡素な形に変更されていた。
『えー、新入生の皆さん。一週間、大変な不安の中にあったこととお察しします。しかし、政府と研究機関の尽力により、事態は完全に収束へと向かっています』
スピーカーから流れる校長先生の声は、どこか遠くの国の出来事を話しているように平坦だった。
『……現代の医療は、もはや「死」を克服しつつあります。発症した方々も、適切な処置によって全員が回復に向かっています。皆さんは、この「清い白」の校舎で、安心して新しい生活を始めてください』
「安心して」――その言葉が、教室の静寂に残った。
誰も、何も言わなかった。




