004話 ~ 天色のスマホは嘘だらけだった
生き残るための唯一のルール。その言葉だけで、急に体を縛られたように動けなくなってしまった。まりんさんも同じだった。ただ、彩さん自身も言い方が強すぎたと思ったのか、少し声を和らげてまりんさんに言った。
「まりん、緊急放送まで五分よ。チェックお願いね」
それだけ言うと振り返り、自分の作業場へと戻っていった。
「結月子ちゃん、ちょっとごめんね。これ見ないといけないから」
彩さんに怒られたことなど、なかったかのようにまりんさんは言って、テーブルのリモコンで収納されていたテレビを引き出した。それからすぐ、いつもの番組の合間に割り込むように、その放送が始まった。テロップには「まさか!世界初のゾンビなのか?」と出ていた。
発症したのは「都内在住の五十代男性」とだけ報じられていたが、あの教師に違いなかった。しばらく見ていると、環境医学の博士が画面に現れた。体内のマイクロプラスチック数値は三十万。一般人の平均が十万程度とされる中、一見大きな差に見える。しかし博士は続けた。現代の食生活や生活環境では、数年で平均値が大きく上がる可能性が高い、と。つまり今は平均以下でも、何もしなければ誰もがあの教師と同じ数値に近づいていく。
やっぱりあれが、前から言われていたやつなんだ……どうして私たちの学校だったんだろう。
さらに博士は続けた。マイクロプラスチックが脳に蓄積すると、神経系に物理的な影響を与え、判断力や行動制御が失われる可能性があると。だからあのような「異常行動」が起きた、と。
あれ?でも父は、「石油由来のプラスチックが体の中で再び生き物に戻ろうとしている」と言っていたはずだ。それとは、なにか違う気がした。
「あ、結月子ちゃん。これも信じちゃダメよ」
まりんさんが、リモコンで音量を下げながら、悪戯が見つかった子供のような顔で笑った。
「先生から聞いているかもしれないけど、これは脚本通りか確かめるだけなのよ。実際のデータはまだ解析中だから、公共の電波なんてこんなものなのよ」
脚本通り。つまりヤラセということ?
何も考えずテレビを見ていた自分がバカみたい。深刻な顔をしている博士も、驚いているキャスターも、みんな決められた役を演じているだけなのか。
「パニックを制御するのも、私たちの仕事のひとつなのよ」
まりんさんはテレビを見ながら真剣に言った。そしておよそ十分。緊急放送は終わり、通常の番組に戻った。
「先生たちの検査も、もう終わると思うよ」
それを聞いて、私はふと思ったことを口にしてみた。
「ここって、秘密基地なんですか?」
良いものなのか、悪いものなのかわからない。でも話を聞いていると、どうしてもそんなことを考えてしまった。まりんさんは満面の笑顔で答えてくれた。
「ん? 秘密基地かぁ~。そうね、秘密じゃないけど、誰でも入れるわけではないわね」
「そうですか……」
私はそう呟いて、グラスの水面をぼんやりと眺めた。お父さんが、こんな場所で働いていたなんて知らなかった。感染症と統計が専門、とは聞いていたけれど、それがどういう意味なのか、今日まで深く考えたことがなかった。地下21階、カードキー、脚本通りの緊急放送。父の「仕事」は、私が想像していたものとはまるで違う場所にあった。
「結月子さん、こちらへどうぞ。お父さまがお呼びです」
気づかないうちに、彩さんがガラスドアを開けて待ってくれていた。まりんさんはグラスを片付け始めていて、軽く手を振ってくれた。
私は何も言わず、吸い寄せられるように彩さんの後を付いて行った。
さっきまで、薄い紗が掛かったように中が見えなかったあの部屋。今はその魔法が解けたかのように、ガラスの向こう側がはっきりと見通せた。白く清潔なタイル、機能的に並べられた棚。それは学校の保健室をどこか彷彿とさせたけれど、決定的に違うのは、中心に鎮座する巨大な精密機械だった。
「結月子、ここに座りなさい」
父が示したのは、背もたれのない丸い椅子だった。座ると、母が隣にやってきた。
「ほら見て、新しいスマホをもらったのよ。結月子のもね」
「え?」
母の手には二台のスマホ。撫子色と天色だった。
「ママが撫子色をもらったから、結月子は天色ね」
母はこんなとき、私に選ばせてはくれなかった。でも、元から寒色が好きだから問題はなかった。
「それはあとでいいから、ママ……」
父が銃のような器具を手に、こちらへ近づいてきた。どうやらその機械で検査をするらしい。彩さんが消毒薬を持ってくると、父は「痛くはないはずだから」と言って私の袖をめくり、腕を丁寧に消毒してくれた。
それは何度かポンポンと手首あたりを叩かれた感じで、思ったよりあっけなく終わった。
彩さんが機械の前でノートに何かを書き込んでいた。それから「はぁ……」と小さな吐息が聞こえた気がした。
「先生……結月子さんですが、0.0022 Zasです」
彩さんの声が、静かな部屋に淡々と響いた。ノートにペンを走らせる音が止まり、彼女は眼鏡の奥の瞳で、信じられないものを見るように私を見つめた。
「……え?」
思わず声が漏れた。
Zas。あの時の知らない単位だ……。
「……すいません先生」
突然、彩さんは俯いたまま、早足で部屋を出て行ってしまった。
「お父さん、彩さんはどうしたの?」
私の問いに、父はすぐに答えなかった。ただ、彩さんが叩きつけるように置いたノートの端に目を落としている。そこには、彼女自身の測定値も、比較用として走り書きされていた。
【上原:0.712 Zas】
「……彩はな、誰よりもこの世界の『ルール』に従って生きてきたんだ」
父がぽつりと、自分に言い聞かせるように呟いた。
「あいつは、食べるものから着るもの、吸う空気のすべてに気を配ってきた。体内にプラスチックという『生物』を入れないよう、徹底的に自分を律して……この地下21階で、最も『清浄』であることに心血を注いできたんだよ。その彼女が、心臓を削るような思いで維持してきた数値が、その『0.7』だ」
父は一度言葉を切り、今度はデバイスに表示された私の数値を見つめた。
【結月子:0.0022 Zas】
「この値での発症率は0%だ。アウトガスの中でも問題ないな」
父はデバイスの画面を見つめたまま、独り言のように呟いた。
発症率、ゼロ。
テレビで博士が言っていた「誰もがあの教師と同じ数値に近づいていく」という絶望的な未来が、私にだけは適用されない。
「それって私は、ゾンビにならないことでいいのね?」
確認するように尋ねると、父はゆっくりと頷いた。
「ああ、だけどな、気をつけないといけないことはある」
「あ、うん」
父が私の肩に手を置き、視線を真っ直ぐに合わせてきた。その目の奥にある光が、単なる親の心配を超えた、何か巨大な「秘密」を守る者の鋭さに変わる。
「この数値を、誰にも言ってはいけないんだ。わかるか?」
父の問いかけに、私は言葉を詰まらせた。良いことのはずなのに、隠さなければならない。その矛盾が胸に閊える。
「……たぶん」
消え入るような私の返事に、父はさらに声を潜めて続けた。
「そのために持たせた新しいスマホなんだ。そこに出る数値はただの平均値で、結月子には関係のない数値だからな」
手の中にある、天色のスマホ。画面を点けると、そこには「0.352」という、ありふれた、けれど真っ赤な嘘の数字がデジタルで刻まれていた。私の本当の体温も、本当の呼吸も、この機械が吐き出す「平均」という仮面の下に隠されてしまうんだ。
「わかった。……誰にも言わない」
私がそう答えると、父は憑き物が落ちたように、いつもの穏やかな表情に戻って私の頭を撫でた。
「ママのおかげだな」
その言葉の響きには、感謝というよりは、何か大きな代償を払って手に入れた安堵のようなものが混ざっていた。
「お母さんのスマホもそうなの?」
思わず尋ねると、父は隣で撫子色のスマホを大切そうにポーチに仕舞っている母をちらりと見た。母は相変わらず、新しいおもちゃを手に入れた子供のような無邪気な顔で、液晶画面をハンカチで拭いている。
「ああ。ママの数値も、世間の平均に合わせてある。……お前たち二人が、この世界で『普通』でいられるように、パパが手を尽くしたんだ」
「パパが……」
「そうだ。だから結月子、そのスマホは肌身離さず持っていなさい。それが、お前を守るための盾になる」
父の言葉は、まるで戦場に送り出す兵士にかける言葉のように厳かだった。お母さんも、私も。この地下21階という、真実を隠すための巨大な箱の中で、さらに「偽りの数値」という小さな箱に守られて生きていくんだ。
「さあ、お喋りはこれくらいだ。まりんが待っている。部屋に案内してもらおう」
父に背中を押され、私は重い足取りで検査室を後にした。手の中の天色のスマホ。そこには今も、私のものではない「0.352」という嘘の鼓動が、静かに、規則正しく刻まれている。




