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マイクロプラスチックのせいで人がゾンビに!?~発症率0%の私のアラートは鳴らない~  作者: イニシ原


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003話 ~ 私の心はガラス越しに透かされていた

 私は車の後部席から窓に額をあてながら外を見た。そこには、いつもと変わらない街並みがあった。でも、さっきの出来事が夢のようで、じわじわと疲れが押し寄せてきた。


「はぁ~ぁ……」


 思わず漏れたため息が、ガラスを白く曇らせる。寄りかかるドアのひんやりとした感触が、火照った肌に気持ちよかった。そのままぼーっとしていた時だった。不意に、視界がトンネルに入ったように暗くなった。


 別に気にしていたわけじゃない。だけど、この琥珀色の中で車のスピードが落ると、一瞬だけ心臓の音が大きく聞こえた。


「結月子、着いたぞ」


 父の声にハッとして顔を上げると、そこはどこにでもある、ありふれたマンションの入り口だった。


 三人で車を降り、建物へと向かう。ここが研究所だなんて、言われなければ絶対に気づかないだろう。父は慣れた手つきで壁のリーダーにカードキーをかざした。ピッ、という短い電子音。開いた扉の先には、外観からは想像もつかないほど、何の変哲もない白い無機質な通路が奥へと伸びていた。


 チカ、チカ。天井の蛍光灯が、規則正しく瞬いている。さっきまでの、あの重苦しい琥珀色が嘘のように、視界に色が戻ってきた。


 でも、戻ってきたのは「いつもの世界」じゃなかった。窓ひとつない、冷たい白。私はなんとなく、ここに来たことを誰にも言ってはいけない気がした。エレベーターに乗り込むと、扉が閉まった瞬間、カチリと小さな音がした。


 見れば、誰もボタンに触れてもいないのに、パネルの『21階』の明かりが灯っていた。私は上へ向かうと思っていた。でも、エレベーターは私を取り残して「下」へと落ち始めた。この狭い部屋の中で、ふわりと飛んでいる感覚がした。


 ここが最下層のようだ。

 何事もなかったかのように扉が開くと、私たちは一歩、外へ踏み出した。


「……う」


 通路が、白すぎる。床も壁も天井も、塗りつぶされたような無垢な白。影さえも消し飛ばすようなその明るさに、脳が揺さぶられて頭が重くなった。母も同じ気持ちなのだろうか。隣で、そっと私の腕に彼女の指が絡められた。縋るようなその力に、ここが「逃げ場のない場所」であることを改めて突きつけられる。


 先を行く父だけが、迷いのない足取りで進んでいく。突き当たりの重厚な扉。父がまたリーダーにカードをかざすと、機械的な駆動音と共に、その扉が大きく、左右に割れた。


「えっ……?」


 私は、思わず声を漏らして足を止めた。白一色の世界から一転して、目に飛び込んできたのは、圧倒的な「茶色」と「紙」の山だった。


 そこには、見上げるほどの高さまで積み上げられた大量の本があった。まるで、本を愛してやまない誰かの書斎を、そのまま巨大化させたような空間。地下深くの乾燥した空気の中に、古本特有の、あの甘く埃っぽい匂いが微かに混じっている。


「……ここが、研究所?」


 私の戸惑いを無視するように、部屋の奥から、数人の人影がこちらを振り返った。私より少し年上に見える、私服姿の若者たち。彼らは、精密機械に囲まれているわけでもなく、ただ思い思いの場所で、本や端末を眺めていた。


「あ、先生おかえりなさい。雲母さんもお久しぶりですね」


 最初に声をかけてきたのは、近くのソファに腰掛けていた背の高い男性だった。その言葉に弾かれたように、部屋のあちこちで本や端末に向かっていた面々が、一斉に顔を上げた。


「……ええ。お久しぶり、橘くん」


 母――雲母が、私の腕を掴んでいた力を少しだけ緩めて、小さく微笑んだ。そのやり取りを見ているだけで、胸の奥がざわりとする。お父さんだけじゃない。お母さんも、この地下21階の住人たちと「知り合い」だったんだ。


「みんな、紹介するので集まってくれ」


 父の低い声が、高い天井に反響する。その合図で、まるで吸い寄せられるように、六人の若者たちが私たちの周りに集まってきた。


「娘の結月子だ。今日からしばらくここにいることになる」

「あ、萱野結月子です。よろしくお願いします」


 私が頭を下げると、六人は口々に名乗り始めた。


「橘蓮です。よろしく」最初に声をかけてきたのは、さっき「おかえりなさい」と言った男性だった。背が高くて、少し眠そうな目をしている。


「私は上原彩。わからないことあったら何でも聞いてね」女性が一歩前に出た。ショートカットで、笑うと目が細くなる。


「神田拓海です。よろしくどうぞ」穏やかな声の男性。眼鏡をかけていて、本を手に持ったままだった。


「田所まりんです。結月子ちゃんって呼んでいい?」元気な声の女性。返事を待たずにもう笑っていた。


「工藤悠斗です」短く言って、軽く手を上げた男性。愛想はないけど、目は優しかった。


「最後に私。白石このはです。よろしくね」一番背の低い女性が、丁寧にお辞儀をした。


 紹介もつかの間、父はすぐに「では、戻って作業を続けてくれ」と厳しい声を出した。そして、元気そうな短髪の女性――田所まりんさんを呼び止めた。


「まりん、悪いんだが……私たちの値を計りたい。まずは私と雲母の二人だ。結月子の案内を頼めるか」


 父の言葉に、隣にいた母の肩がわずかに強張った。二人は一瞬だけ視線を交わすと、私を置いて部屋の奥へと歩き出す。


「もちろんです!」


 まりんさんは、重苦しい空気を振り払うようににこっと笑って、私の方へ向き直った。


「じゃあ結月子ちゃん、こっち。ついてきてください」


 遠ざかっていく両親の背中。地下21階。窓のない、本に囲まれたこの奇妙な広間で、私は生まれて初めて「一人ぼっち」になったような気がした。


「先生たちは、あそこで検査だから平気よ。すぐに終わるから」


 まりんさんの指し示す方を見れば、そこは薄い紗が掛かったガラス張りの部屋のようだった。中がぼんやりと霞んで見えるその光景は、私の不安な心そのものみたい。なぜだろう。私の考えも、あのガラス越しにすべて透かし見られてしまったような気がした。


「……あ、はい」


 まりんさんの声は、この重苦しい地下の空気には似合わないほど軽やかだった。でも、その軽さに縋るように安心したのも、本当のことだった。


「さ、こっち。結月子ちゃんの部屋……は、まだ準備中だから、まずは先生の仕事部屋で休んでて」


 まりんさんのスニーカーが、硬い床を小気味よく叩く。彼女の背中についていき、私は山積みの本と本の間を縫うようにして、その後に続いた。


 その部屋も、ガラス張りの小部屋だった。父の仕事部屋のひとつだと、まりんさんが教えてくれた。そのさらに奥に続く場所が、父の控え室らしい。


「ここで少し待っててね」


 促されて中に入ってみると、そこは本が数冊置かれているだけの、驚くほど簡素な部屋だった。むき出しの合板で作られたテーブルと、座面の冷たいスチール椅子。壁際にある腰の高さのスチールキャビネットの上には、読みかけのような専門書が数冊、無造作に積み上げられていた。


「今、飲み物をお持ちしますね。結月子ちゃんはジュースがいいかな?」

「あ、はい。ありがとうございます」


 まりんさんはそう言って、パタパタと小走りで部屋を出ていった。私は、そのスチール椅子の縁を指先でなぞった。指の腹から伝わるひんやりとした感覚が、ここが夢ではないことを、無言で告げているようだった。


 まりんさんは、すぐに戻ってきた。お盆に乗せた二つのグラスを私の前に置き、自分も向かいのスチール椅子を引いて座った。


「びっくりしたでしょ、今日。大変だったね」


 その、飾らない労いの言葉に、自分でも気づかないうちに強張っていた肩の力がふっと抜けた気がした。


「先生の娘さんだって聞いてたけど、会うのは初めてだね。私、田所まりん。改めてよろしく」

「……萱野、結月子です。よろしくお願いします」


 私は、差し出されたグラスにそっと手を添えた。


「あの……。まりんさん。皆さん、ここで……こんな深い場所で、何をしているんですか?」


「リ・オーガニック体の研究だよ」


 まりんさんは、迷いのない口調で答えた。

 リ・オーガニック。さっき、車の中でお父さんも口にしていた、あの奇妙な言葉。


「リ・オーガニック……。さっきもお父さんが言っていました。それって、一体何なんですか? 病気か何かなんですか?」

「病気……うーん、そう呼ぶ人もいるかもしれない。でも、もっと根本的なことなの。私たちが知っている『人間』の形が、根こそぎ作り変えられようとしている……って言ったら、信じられる?」

「作り変えられる……?」

「そう。外で起きていたパニック、見たでしょ? あれはね、体が『有機的オーガニック再構成』されちゃった成れの果て。一度リ・オーガニック化したものは、もう元の人間には戻れない。知性も、記憶も、全部溶けて混ざり合ってしまうから」


 まりんさんの声はどこまでも穏やかだった。


「それに重要なのはマイクロプラスチックだけじゃないのよ」

「……他にも、何かあるんですか?」

「アウトガスよ。……リ・オーガニック化した『彼ら』の体から、絶えず漏れ出している正体不明の気体。それが空気に混ざると、吸い込んだ人間の細胞を内側から強引に書き換えてしまうの」


 まりんさんは、自分の喉元を指先でなぞった。


「……一息でも『汚れた空気』を吸い込めば、もう自分じゃなくなっちゃうから。だから、近いうちにここへ『サンプル』を――」

「そこまでにしなさい、まりんさん」


 冷徹な声が、ガラスの向こうから響いた。顔を上げると、そこには上原彩さんが立っていた。乱れのない白衣の襟元と同じように、その眼差しには一切の隙がない。


「決定事項ではない推測を、部外者に吹聴するのは感心しないわ。それはただの『恐怖の煽動』よ」

「……すみません、上原さん。つい、ね」


 まりんさんは肩をすくめて、いたずらが見つかった子供のように小さく笑った。でも、彩さんの表情はぴりりとも動かない。彼女にとって、この場所での「適当」は、死に直結する過失なのだ。


「結月子さん。彼女の言ったことは忘れて。……今のところはね」


 彩さんは私に視線を移すと、事務的な、けれど拒絶できない強さで告げた。「忘れて」と言いながら、最後に付け加えられたその一言が、私の肺をさらに重くした。


「今は、自分の『値』を維持することだけを考えなさい。それが、ここで生き残るための唯一のルールよ」


 私は、自分の肺に溜まった空気を、吐き出すことさえ怖くなって、ただ黙って彼女を見つめ返した。

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