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マイクロプラスチックのせいで人がゾンビに!?~発症率0%の私のアラートは鳴らない~  作者: イニシ原


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002話 ~ 母のフリックは私より速かった

 体育館の中は、整列という言葉が、床に落ちて踏まれていた。


 怒鳴る者。泣く者。声がぶつかり合って、意味を失っていた。そして、それらを塗りつぶすように、無数のスマートフォンからZアラートが鳴り響いていた。


 私がさっきまで座っていた椅子は、逃げ惑う生徒たちの足に蹴られ、転がり、人波にのまれてどこかへ消えた。誰かが転んだ。誰かがその上を踏んで走った。踏まれた誰かの声が、体育館の天井まで届いた。


「避難口から校庭へ向かいなさい!」


「落ち着きなさい!」と落ち着かない男性の声がした。


 正面入り口には、あの先生がいる。それ以外にも何か所か出入口はあった。避難訓練の通りにすればいいのだろうけど、みんなが押し合うからそこからも悲鳴があがっていた。


 みんな何を慌てているの?

 ……そう考える自分も頭が回らない。


 あの男性教師だ。五十代の、スーツが窮屈そうな。さっきまで少し怖いと思っていた。いまはとんでもなく怖い。吸血鬼のように保護者の女性の首に噛みついて、その首筋から血が噴き出していた。


 でも、血を吸っているというより、むさぼり食べている感じだった。肉を喰らうというより、その女性の中にある何かを吸い出そうとしているような。


 ――いやらしい。


 何かわからないけど、人間が人間を襲っているというより、得体の知れない「生き物」が、自分たちと同じ形をした殻を無理やりこじ開けようとしているような、そんな悍ましさだった。


「結月子」


 その時、うるさい中で、母の声がしっかりと聞こえた。辺りを見渡す。


 保護者たちが立っていた後方の壁際に、母がいた。逃げ惑う人波の中で、ひとりだけ動いていなかった。こちらを見ていた。


「こっち」


 口が動いた。声は聞こえなかったけど、わかった。人をかき分けた。転びそうになった。誰かの肘が顔に当たった。それでも母の方向だけを見て動いた。母が手を伸ばした。その手を掴んだ。


「出口、こっちよ」

「え、お父さんは?」


 見回しても父は見えない。母があっちと示した方向を見ると、体育館の隅で、父が他の教師と一緒にさす又を構えていた。あの男性教師を壁際に追い込もうとしていた。


「誠一さんは大丈夫、車で待つのよ」


 母に手を引かれ、体育館から出ると駐車場へと走って向かった。

 車に乗り、後部座席で母にケガはないかと聞かれていた。けれど、お父さん平気かと外を見回していた。


「結月子、こっちを見なさい」


 顔を掴まれた私は、母の顔を見て落ち着くことが出来た。


「スマホ出してみなさい」

「うん」


 スカートのポケットから取り出したスマートフォン。一度も鳴ることなく、私の手の中で静かに待ち受け画面を映していた。母は何も言わず手を出してきたので、ロックを外して渡した。


 母は画面を見ながら、ためらいもなく指を滑らせていった。

 ……え?母のフリックする速さは私以上だ。固形石鹸で皿を洗い、布の袋を縫っている時のゆっくりとした手つきとは、まるで別人のようだった。

 何をしているのか見たかったけれど、彼女の指先が踊るのを眺めているうちに、スマホはすぐに返された。


「……あ、おか……」


 お母さん、今何を見たの。そう聞こうとした瞬間に、ドアロックが弾ける音がした。


 ……ピィ……ガチャ。


 車のドアのロックが上がり、運転席の扉から父が乗り込んできた。


「よし、いくぞ。シートベルトを締めなさい」


 父はまるで外食に行くような口ぶりで、車を静かに走り出した。


「お父さん平気?」

「はは、なんだそれは。平気に決まっているだろう。それより結月子はケガはなかったのか?」


 父は鼻で笑ったけれど、だいぶ疲れたのか、頬にはじっとりと汗が浮かんでいた。無造作な手つきでエアコンのスイッチを押すと、風もないのに父の辺りだけ少し涼しいのがわかった。


 この車は、昔からこうだ。エアコンをつけても、普通の車みたいに「ゴーッ」と嫌な風が吹いてきたりはしない。ただ静かに、気がつくと熱気だけが消えている。


「うん、ケガとか何にもないよ」

「それはよかった。ママも平気か?」

「私も平気ですよ。最初はもう、誠一さんが『捕らえてくる』なんて言った時は、心臓が飛び出るかと思いましたけどね」

「あの状態ではかなり緩慢な動きになるとわかっていたからな」


 父はため息交じりで続けた。


「……あの方は病院に運ばれたよ。助かればいいんだけどね」


 あれほど血を出しても生きているものだろうか?私の疑問に答える者はなく、車内にはただ、エアコンの「しん」とした冷たさだけが満ちていく。


「それにあのゾンビ――リ・オーガニック体と言うんだが、もっと知っておいて欲しいことがあるんだ」


 父の声が、一段と低くなる。


「リ・オーガニック……?」

「石油由来のプラスチックが、体の中で再び『生き物』に戻ろうとしている状態だ。

 研究所で、詳しく見てもらう必要がある」


 え、戻るの……?


 戻ったら、ああなるの?


 体育館の光景が、勝手に浮かんだ。

 濁った目。ずれた関節。

 そして、あの甘ったるい匂い。


 どうしたらいいのか、わからなかった。


 ……研究所で話を聞こう。


 幼い頃、ぼんやりと覚えている場所。

 白い壁。消毒の匂い。


 そして――

 腕に刺された注射の痛みだけが、はっきりと残っていた。

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