001話 ~ 私のスマートフォンは鳴らなかった
私のお弁当箱は、木だった。
母の雲母は、私が生まれた時から神経質で、プラスチックの物を近づけようとはしなかった。父に聞いた話だけど。
遠足できた公園で、お昼ご飯を食べる時に言われた言葉。「結月子ちゃんの〝それ〟変わってるね」悪気がないのはわかったけれど、私の心に木の棘が刺さった気がした。曲げわっぱの弁当箱、木のスプーン、ガラスの水筒。スーパーの袋は布、保存容器は琺瑯、ラップの代わりに蜜蝋シート。クラスメイトに見られるのが、恥ずかしかった。
母、萱野雲母は、パート勤めの主婦で、市の広報誌に「脱プラスチックで豊かな暮らし」というコラムを月一回書いていた。読者は百人いたかどうかわからない。名前だけ聞けば軽やかで今風なのに、やることはといえば台所から琺瑯の鍋を磨き、布の買い物袋を縫い、固形石鹸で皿を洗う。商店街で、母のことを『変わってるね』と言う人を見た。当の母は気にしなかった。
父は萱野誠一。感染症と統計が専門らしいけど良く知らない。「父さんもプラスチックはダメなの?」そう聞いた事があった。それを「内緒だぞ」と言って教えてくれたことがある。研究室ではどうしても使い捨てのプラスチック手袋を使うし、コンビニのコーヒーはどうして飲まないとダメらしい。
でも、出張先のホテルのアメニティを使うことは、帰宅するたびに母に話していた。報告するように。懺悔するように。母は「しょうがないわね」と言った。怒った顔では言わなかった。
小学六年の遠足で、クラスメイトの田中ももかさんが透明なタッパーにゼリーを持ってきた。ぷるぷると揺れる、ミルク味のゼリー。「交換しよ」とももかさんが言った。私の曲げわっぱを覗いて、「たまごやきかわいい」と言ってくれた。
ゼリーのカップを受け取ったとき、一瞬だけ躊躇した。受け取った。食べた。おいしかった。帰って母に言わなかった。これが私にとって最初の、小さな裏切りだった。
中学に入ると、母の〝こだわり〟は学校中で知られるようになった。体育祭の打ち上げで行ったファミレスで、私はストローを断った。母に言われたからではなく、断らないと後で何か言われる気がして、それが嫌だったから。「エコ活動?」と友達に聞かれた。違う、と思ったが何も言えなかった。
でも、そんな私にも追い風が吹いてきた。
マイクロプラスチックという言葉が、テレビに出るようになった。ニュースで、ワイドショーで、健康番組で。「体内蓄積が〇〇に影響」「プラスチックフリー生活のすすめ」。母が何年も前から広報誌に書いていたことが、急に世間の言葉になっていた。
クラスの女子がエコバッグを持ち始めた。ステンレスのストローが流行った。「プラスチックフリー」がおしゃれになった。母のことを「変わってる」と言っていた人たちが、似たようなことを始めていた。私は何も言わなかった。でも少しだけ、胸の中で何かが緩んだ気がした。
ある日、スマホを開いたら見知らぬアプリが増えていた。
「ZMonitor」。アイコンは無機質な緑色で、削除しようとしたらできなかった。クラスで話題になったのは一日だけで、すぐに誰も気にしなくなった。国が入れたらしい、というのはわかった。何を測っているのかは、よくわからなかった。自分の数値も見られなかった。ただ通知欄に「正常範囲内です」とだけ、たまに表示された。
最近帰りが遅かった父が、久しぶりに早く帰ってきた夜のことだった。
「ZMonitor、入ったか」と父は言った。私が「削除できなかった」と答えると、少し困ったような顔をした。
「マイクロプラスチックが体の中で悪いことを起こしてしまうことがある。それを測るためのものだ」
「私も?」
「結月子は平気だからな」
そう言いながら、父は何かを考えているような顔で、私の頭を撫でた。それ以上は話してくれなかった。
世の中は少し意識が変わったと思ったけど、プラスチックはどこにでもあった。給食のトレーはプラスチックのままだったし、文房具も教科書のカバーも変わらなかった。
正式には違うらしいけど、ゾンビになることがあるらしい。……もちろん人が、だ。
その頃からゾンビごっこが流行った。両腕を前に突き出して、首をがくりと傾けて、うめき声を上げる。休み時間の定番になった。先生たちは最初のうち注意していたけど、そのうち諦めた。
でも学校で避難訓練をするようになると、その遊びも見なくなった。訓練は地震のものとは違った。「Zアラートが鳴ったら」「発症者から距離を取り」「屋内に留まる」。マニュアルを渡されて、真剣な顔で説明された。
笑えなくなった、ということだと思う。日本全体が、どこかぴりぴりしていた。ニュースキャスターの顔が、心なしか硬かった。大人たちが、声を潜めて話すようになった。
Zアプリには裏技がある、なんて噂が流れた。男子たちが話しているのを聞き耳した。自分も知らないパスワードを入れる必要があるらしいけど、そのパスワードを入力する画面を出すコマンドがあるらしい。試してみたら本当に出てきた。いくつかそれらしい12桁の数字を入れたら、あっさり突破してしまった。
画面に並んでいたのはいくつかの数値だった。
発症確率 0.3%
蓄積量 2.1 Zas
暴露指数 0.08 Zas/day
%はなんとなくわかった。0.3%、低いのか高いのかもわからなかったけど。Zasという単位は見たことがなかった。調べようとして、めんどくさくなってやめた。スクリーンショットだけ撮って、アプリを閉じた。
その数値が何を意味するのか、このときの私には何もわからなかった。
もうゾンビなんてどうでもよかった。高校受験には関係ない。
父は帰らないことが多くなって、母は疲れ気味だった。深夜まで勉強していると、一階からよく母の電話の声が聞こえてきた。父からかかってくるらしかった。その夜も、夜食を食べ終えてトイレに行こうと部屋を出た。階段の途中で、母の声が聞こえた。
「春が……そんなに……」
それだけ聞き取れた。母の声が、いつもより低かった。誰と話しているのかはわかった。内容はわからなかった。トイレを済ませて、部屋に戻った。参考書を開いた。英単語を三つ覚えたところで、さっきの声のことは忘れた。
西暦2037年 春。
食卓のテレビが、天気予報を伝えていた。
「続いて本日のZ予報です。関東地方、午前中のZ発生確率は15%、午後から湿度の上昇により25%まで上昇の見込みです。蓄積量レベル2以上の方は、屋外活動を控え、ZMonitorの指示に従ってください。なお本日は都内各所で入学式が予定されており――」
久しぶりに、父が朝食の席にいて、「おはよう」とちょっとだけ私を見た。父は天気予報が気になるのか、お味噌汁を飲みながら画面を見ていると、「15%か」と父がつぶやいた。誰に言うでもなく。
「結月子の制服姿、やっぱり可愛いじゃないの」母が言った。卵焼きを皿に移しながら。今日は私の入学式に三人で行くことになっている。改めて父が私を見て可愛いと褒めてくれた。
父の白いEVで学校へ行くと、体育館の中は、見知らない制服を着た生徒でいっぱいだった。折り畳み椅子が整然と並んでいて、私はその一つに座った。隣に誰が来るかも、前の列の誰かの名前も、何も知らなかった。
校長の声が、体育館に反響していた。
「皆さんは今日から、この高校の生徒です。長い人生の中で、高校の三年間というものは――」
折り畳み椅子の硬さが、すでに腰に来ていた。隣の席の女子が、膝の上でこっそりスマートフォンをいじっている。前の列の男子は、すでに舟を漕いでいる。体育館特有の、埃と靴底ゴムの混ざったにおい。入学式とはつまり、退屈の儀式だ――私はそう思いながら、新しい制服の袖口をいじっていた。
この高校に決めたのは、半分は制服が可愛かったからだ。学校説明会で初めて見た紺のブレザーに白いブラウス、チェックのスカート。これを着たいと思った。ポリエステルが混じっていたけど、母はそれを知っていて、何も言わなかった。
スマホの電源は落としてあった。生徒のみんなもそのはずだった。でも鳴った。砂嵐を圧縮したような音。テレビでもラジオでも聞いたことのない周波数。避難訓練で一度だけ聞かされた、あの音だとわかった。
ピィィ……ギィ――
少し後ろから聞こえてくる。私は振り返らなかったけど、みんながざわめくのはわかった。
ピィィ……ピィィ……。
続いて耳障りな音が鳴りだし、すぐ右前の生徒からも音がした。その彼女が見ているスマホがチラっと見えると、赤い画面に何か書いてあったけどここからは小さくて読めなかった。
壇上では校長と、教頭だろうか、ふたりが顔を寄せて何か話していた。すぐに「各自、教室へ移動してください」とアナウンスが流れた。
一組から順番に体育館を出るようにと声がかかった。二組の私たちは立ち上がり、順番を待っていた。
そのときだった。
心臓がドキッと締め付けられるような悲鳴が、体育館に響いた。
でもそれはすぐ、笑っている男子のいたずらだとわかった。ゾンビの真似だった。あからさまな、小学生でもわかるような。それから、笑いが弾けた。引きつった笑いが半分、本当におかしくて笑っている声が半分。周囲から「やめろよ」「心臓止まるかと思った」「お前最悪」という声が飛んだ。誰かが丸めたプログラムを投げた。男子は「いたっ」と言って、すぐに普通の顔に戻って笑った。
空気が、ふっと軽くなった。
それからすぐ、一組が半分ほど出ていった頃だった。後方で立って見ている保護者たちのそばで、出入口で誘導をしていた先生が、いきなり腰を折った。変な声が漏れた。
先生まで冗談?そんな声が、どこかで上がった。
男性教師の首が、ゆっくりと横を向いた。人間の首が向く角度を、少しだけ超えていた。体育館が、静かになった。さっきの笑い声が嘘のように。
男性教師が床に手をついた。四つん這いになった。立ち上がろうとした。でも立ち上がり方が違った。関節の順番が、間違っていた。肘が先に伸びて、腰があとからついてくる。顔が上がった。目が、濁っていた。曇りガラスの奥に何かが膜を張るように、瞳孔が白くなっていった。
甘ったるい、石油に似た匂いが漂った。
スマートフォンが、また鳴った。今度は一斉にだ。ゾンビの真似をした男子が、列の真ん中で動けなかった。さっきまで笑っていた顔が、今は真っ白だった。隣の女子がこちらを見た。笑っていた。
私のスマートフォンは、鳴らなかった。
現在、3作品の第1話を並行して執筆中です。今後は最も反響の良かった作品の続きを優先して書いていく予定です。もしよろしければ、感想コメントをいただけると嬉しいです。




