表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

前世で私を見捨てた王太子が泣きついてきましたが、もう遅いです

作者: 小林翼
掲載日:2026/02/03

目を開けた瞬間、リディアは自分が泣いていることに気づいた。


頬を伝う涙の感触。柔らかなシーツの肌触り。窓から差し込む朝日の眩しさ。そのすべてが、あまりにも鮮明だった。


ここは——私の部屋?


リディアは勢いよく身を起こした。見慣れた天蓋付きのベッド。淡い桜色のカーテン。幼い頃から使っている白い化粧台。間違いない。ここはウィンターフェル公爵家の、リディアの私室だ。


けれど、そんなはずはなかった。


リディアの記憶が正しければ、彼女は今、この世にいないはずなのだから。


「お嬢様、お目覚めですか?」


ノックの音とともに、聞き覚えのある声が響いた。扉が開き、栗色の髪をきっちりと結い上げた中年の侍女が姿を現す。


「マーサ……?」


「はい、マーサでございますよ。どうなさいましたか、お嬢様。まるで幽霊でも見たようなお顔をして」


マーサ。十年以上リディアに仕えてくれた、誰よりも信頼できる侍女。彼女は確か、リディアが投獄された直後に、連座で処刑されたはずだった。


リディアの目から、再び涙が溢れた。


「お嬢様!? どうなさいました、どこかお加減が——」


「マーサ、今日は何年の何月何日?」


「は? えっと……王歴三百二十四年、春の月の十五日でございますが」


その言葉を聞いた瞬間、リディアの心臓が大きく跳ねた。


王歴三百二十四年。それは、リディアが処刑された王歴三百二十九年から、ちょうど五年前。そして——婚約破棄の宣告を受ける、二ヶ月前だった。



リディアは震える手で、化粧台の鏡を覗き込んだ。


そこに映っていたのは、十七歳の自分の顔。処刑台で見た、やつれ果てた二十二歳の姿ではない。艶やかな銀髪に、澄んだ紫水晶の瞳。頬にはまだ少女らしい丸みが残っている。


間違いない。私は、五年前に戻っている。


リディアは鏡の中の自分を見つめながら、前世の記憶を辿った。


王太子エドワードとの婚約。それは物心ついた頃から決まっていたことだった。


ウィンターフェル公爵家は代々、王家の外戚を務めてきた名門中の名門。リディアは幼い頃から、未来の王妃となるべく教育を受けてきた。政治、経済、外交、社交——あらゆる分野で完璧であることを求められ、そしてそれに応えてきた。


エドワードを愛していたかと問われれば、正直よくわからない。けれど、王妃としての務めを果たすことに、迷いはなかった。


すべてが変わったのは、男爵令嬢セシリア・ローズが現れてからだった。


エドワードは夜会で出会ったセシリアに一目惚れした。可憐で、無邪気で、守ってあげたくなる——そんな女性だと、エドワードは熱っぽく語った。お前のように冷たくない、とも。


そして二ヶ月後、エドワードはリディアとの婚約を一方的に破棄した。理由は「リディアがセシリアを虐めた」という、身に覚えのない罪だった。


その後の五年間は、地獄だった。


社交界から締め出され、実家は王家からの圧力で徐々に力を失い、最後にはリディア自身が「国家反逆罪」という冤罪で投獄された。そして——処刑。


断頭台の上で、リディアが最後に見たのは、勝ち誇ったように微笑むセシリアの顔だった。



けれど今、すべてをやり直す機会が与えられた。


リディアは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


復讐してやる。


最初はそう思った。エドワードを、セシリアを、私を陥れたすべての人間を——地獄に突き落としてやる。


けれど、とリディアは考えを巡らせた。


本当の敵は誰だったのか。


セシリアは確かに憎い。けれど彼女は、ただの男爵令嬢だった。あれほどの陰謀を、一人で企てられるとは思えない。


では、誰が糸を引いていたのか。


リディアは前世の記憶を丁寧に辿った。不自然な点は、いくつもあった。セシリアがいつも誰かと密談していたこと。エドワードの側近、レイモンド・クレイトン伯爵が、やけにセシリアに好意的だったこと。そして——リディアの「国家反逆罪」を告発したのが、他でもないレイモンドだったこと。


もしかしたら、とリディアは思った。セシリアもまた、利用されていただけなのかもしれない。


真実を確かめなければ。そして、本当の黒幕を——今度こそ、この手で追い詰める。



リディアはまず、情報を集めることにした。


公爵令嬢という立場は、この点で非常に有利だった。社交界のあらゆる場所に出入りでき、誰とでも会話を交わすことができる。


春の園遊会。リディアは淡い藤色のドレスに身を包み、会場を見渡した。


いた。


庭園の片隅で、セシリア・ローズが一人で佇んでいる。前世の記憶では、彼女はいつも人に囲まれ、華やかに笑っていた。けれど今の彼女は、どこか怯えたような表情を浮かべている。


リディアは静かにセシリアに近づいた。


「ごきげんよう、ローズ男爵令嬢」


「ひっ——!」


セシリアが小さく悲鳴を上げた。振り返った彼女の顔は青ざめ、目には怯えの色が浮かんでいる。


「も、申し訳ございません、リディア様……! 私、私は——」


「そんなに怯えないで。私はただ、ご挨拶に来ただけよ」


リディアは穏やかに微笑んだ。前世の自分なら、こんな風に男爵令嬢に声をかけることはなかっただろう。けれど今は違う。


「少し、お話しませんか?」


セシリアは困惑した表情を浮かべた。けれど、公爵令嬢の誘いを断るわけにもいかない。おずおずと頷き、リディアの後についてきた。


人目につかないバラ園のベンチに腰を下ろす。リディアはしばらく、咲き誇るバラを眺めていた。


「あなた、何か困っていることがあるのではなくて?」


「え……」


「さっきから、とても不安そうな顔をしているわ。何かあったなら、聞くわよ」


セシリアは驚いたように目を見開いた。そして——その目に、涙が滲んだ。


「リディア様は、お優しいのですね……噂と、全然違う……」


「噂?」


「あ、いえ、その……」


セシリアは慌てて口をつぐんだ。けれど、その反応だけで十分だった。


誰かがセシリアに、リディアの悪い噂を吹き込んでいる。そしてそれは、おそらく——。


「クレイトン伯爵のことね」


リディアの言葉に、セシリアの顔がさっと強張った。図星だ。


「なぜ、その名を……」


「彼があなたに何を言っているか知らないけれど、あの人の言葉を鵜呑みにしない方がいいわ」


「で、でも、レイモンド様は私を助けてくださって——」


「助けた? どういうこと?」


セシリアは俯いた。しばらく黙っていたが、やがて、絞り出すように話し始めた。


「私の家は、借金があるのです。父が事業に失敗して……このままでは、領地を手放さなければならないと。そんな時、レイモンド様が声をかけてくださって。お金を貸してくださるとおっしゃって……」


「その代わりに、何をしろと?」


「……エドワード殿下に、近づくように、と」


リディアは静かに息を吐いた。


やはり。セシリアは駒だったのだ。レイモンドに操られ、エドワードに近づき、リディアと婚約を破棄させるための——。


「セシリア」


「は、はい……」


「あなたは、エドワード殿下のことが本当に好きなの?」


セシリアは長い沈黙の後、小さく首を横に振った。


「わかりません……最初は、ただレイモンド様に言われるがままで。でも、殿下は優しくしてくださるし、私のことを見てくださるし……好きに、なりかけているのかもしれません。でも——」


「でも?」


「怖いのです。殿下は、私を見ているようで、見ていない気がして。私という人間ではなく、自分の理想を見ているような……」


リディアは思わず苦笑した。あの浅はかな王太子の本質を、セシリアは正確に見抜いていたのだ。


「セシリア、提案があるの」


「提案……ですか?」


「私に協力してくれない? レイモンドが何を企んでいるのか、一緒に調べましょう」



それから数週間、リディアとセシリアは密かに情報を集めた。


セシリアがレイモンドから受け取った手紙。レイモンドが密会していた人物の情報。そして、レイモンドの背後にいる存在——。


すべてが繋がった時、リディアは愕然とした。


レイモンドの目的は、単にリディアを失脚させることではなかった。彼が狙っていたのは——王位そのものだった。


レイモンドは王家の遠縁にあたる。エドワードを傀儡にし、やがては排除して、自らが王座に就く。そのために、まずエドワードを孤立させる必要があった。賢く有能な婚約者リディアは、邪魔だったのだ。


「信じられない……」


セシリアは震える声で呟いた。


「レイモンド様が、そんなことを考えていただなんて……私は、知らずにその手伝いを……」


「あなたのせいじゃないわ」


リディアはセシリアの手を取った。


「利用されていたのよ。でも今なら、まだ間に合う。レイモンドの計画を阻止できる」


「でも、どうやって……?」


「証拠を集めて、王に直接訴えるわ。レイモンドの謀反の証拠を」


リディアの目には、静かな決意が宿っていた。



証拠集めは困難を極めた。


レイモンドは用心深い男だった。証拠になりそうな書類は厳重に保管され、密会も人目を避けて行われている。


けれどリディアには、前世の記憶という武器があった。


レイモンドが誰と会っていたか。どんな場所を好んで使っていたか。そして——彼の弱点が何かを、リディアは知っていた。


「マーサ、お願いがあるの」


「何でございましょう、お嬢様」


「クレイトン伯爵家の使用人に、知り合いはいないかしら」


マーサは少し考え込んだ後、頷いた。


「厨房係に、遠縁の者がおりますが」


「その人から、伯爵の行動について聞き出せない? 特に、夜中に出かけることがあるかどうか」


マーサは不思議そうな顔をしたが、リディアの真剣な表情を見て、何も聞かずに頷いた。


「承知いたしました」


数日後、マーサが報告を持ってきた。


「お嬢様、やはり伯爵様は、月に数回、夜中に屋敷を抜け出しているそうでございます。行き先は……王都の外れにある、古い教会だとか」


リディアは静かに頷いた。


その教会のことは知っている。前世で、リディアの「罪」をでっち上げるための密談が行われていた場所だ。


「ありがとう、マーサ。もう一つ、お願いしてもいいかしら」


「何なりと」


「フロスト辺境伯家に、手紙を届けてほしいの」



フロスト辺境伯家。それは、リディアの幼馴染であるアレクサンダーの家だった。


アレクは幼い頃、リディアの遊び相手としてよく公爵邸に招かれていた。無口で不器用だが、誰よりも誠実な少年だった。


前世のリディアは、アレクの存在をほとんど気に留めていなかった。彼は王太子妃教育に忙しいリディアを、いつも遠くから見守るだけだったから。


けれど今なら、わかる。


処刑が決まった時、たった一人、リディアの無実を訴えてくれた人がいた。王の前で膝をつき、「リディア嬢は無実です。私の命に代えてもお守りします」と叫んだ人。


それが、アレクサンダー・フロストだった。


彼の訴えは聞き入れられず、アレク自身も投獄された。その後どうなったか、リディアは知らない。けれど——彼のことを、ずっと忘れられなかった。


最期の瞬間まで、ずっと。



手紙を送って三日後、アレクサンダーが公爵邸を訪れた。


「リディア」


応接室の扉を開けた瞬間、彼女の名を呼ぶ低い声が響いた。


リディアは振り返り、そこに立つ青年の姿に息を呑んだ。


銀灰色の髪に、深い青の瞳。精悍な顔立ちは、幼い頃の面影を残しながらも、凛々しい青年のそれになっていた。


「アレク……」


「久しぶりだな。急に手紙をもらったから、何かあったのかと思って」


アレクは相変わらず表情に乏しかったが、その瞳には確かな心配の色が浮かんでいた。


リディアは彼を見つめながら、不思議な感覚に襲われた。前世では気づかなかった。この人がこんなにも、自分のことを大切に思ってくれていたなんて。


「アレク、お願いがあるの」


「何だ?」


「あなたの力を貸してほしい。少し……危険なことかもしれないけれど」


アレクは一瞬の躊躇もなく頷いた。


「お前のためなら、何でもする」


その言葉があまりにも真っ直ぐで、リディアは思わず目を逸らした。


「……ありがとう」



リディアの計画は、こうだった。


レイモンドが密会を行う教会に忍び込み、証拠を押さえる。そしてその証拠を、国王に直接提出する。


危険な計画だった。けれど、他に方法はなかった。


密会の夜。リディアは黒いフードを被り、アレクとともに教会へ向かった。


「本当に、お前が来る必要があるのか」


アレクが低い声で問いかけた。


「私でないとダメなの。レイモンドの声を聞き分けられるのは、私だけだから」


それは嘘ではなかった。前世で何度もレイモンドと会話を交わしたリディアは、彼の声を聞き間違えることはない。


古い教会は、王都の外れにひっそりと建っていた。もう何年も使われていない様子で、窓は埃で曇り、壁は蔦に覆われている。


「中に誰かいる」


アレクが囁いた。彼の聴覚は鋭い。


リディアは頷き、教会の裏手に回った。崩れかけた壁に小さな隙間がある。そこから中を覗くと——。


いた。


レイモンド・クレイトン伯爵。そして、もう一人。見覚えのある顔だ。


「隣国の密偵……」


リディアは息を呑んだ。


レイモンドは、隣国と通じていたのだ。王位を簒奪するために、隣国の力を借りようとしている。これは謀反どころではない。国家反逆罪だ。


「——エドワードはもう、私の手の中だ」


レイモンドの声が聞こえた。


「あの愚かな王太子は、セシリアという人形に夢中になっている。婚約破棄さえ済めば、リディア・ウィンターフェルは失脚する。あの女がいなくなれば、エドワードを操るのは容易い」


「では、計画通りに?」


「ああ。まずは王太子妃の座を空ける。次にセシリアを王太子妃に据え、私がその後見となる。そしてエドワードが即位した後——」


「事故に見せかけて、排除する」


「そういうことだ。すべてが済めば、私が摂政として国を動かせる。そしていずれは——」


リディアはそっと、隠し持っていた魔道具を取り出した。録音用の魔道具だ。高価なものだが、公爵家の財力をもってすれば手に入れるのは難しくなかった。


会話のすべてを、この魔道具に記録する。それが、動かぬ証拠になる。


けれど、その時——。


「誰だ!」


レイモンドが叫んだ。


リディアは凍りついた。まさか、気づかれた?


「裏に誰かいる! 捕らえろ!」


「リディア、逃げろ!」


アレクがリディアの手を掴み、走り出した。


背後から追手の足音が聞こえる。暗い夜道を必死で駆け抜ける。心臓が破裂しそうだった。


「こっちだ」


アレクがリディアを路地裏に引き込んだ。二人は息を殺し、壁に身を寄せた。


追手の足音が近づき——そして、遠ざかっていく。


「……行ったか」


アレクが小さく息を吐いた。


リディアは震える手で、魔道具を確認した。録音は——されている。レイモンドの声が、はっきりと。


「証拠は、手に入った」


「良かった」


アレクはリディアを見下ろした。月明かりの下、彼の青い瞳がリディアを映している。


「怪我はないか」


「ええ、大丈夫。あなたのおかげで」


「……そうか」


アレクは安堵したように、小さく笑った。その笑顔を見た瞬間、リディアの胸が痛いほど締め付けられた。


どうして、と思った。


どうして前世の私は、この人の想いに気づかなかったのだろう。



翌日、リディアは父である公爵とともに、王宮を訪れた。


国王への謁見を願い出ると、意外にもすぐに許可が下りた。国王はリディアの父を信頼しており、その娘の訴えとあれば、聞かぬわけにはいかないのだろう。


謁見の間。リディアは国王の前に跪いた。


「ウィンターフェル公爵令嬢リディア、拝謁の栄誉を賜り、恐悦至極に存じます」


「面を上げよ、リディア嬢。して、何用かな」


国王の声は穏やかだったが、その瞳は鋭かった。この方は、愚かな君主ではない。だからこそ、証拠さえあれば——。


「陛下に、お聞きいただきたいことがございます」


リディアは録音の魔道具を取り出した。


「これは昨夜、王都外れの古い教会で録音したものでございます。クレイトン伯爵レイモンドと、隣国の密偵との会話が記録されております」


国王の表情が険しくなった。


「……聞かせてもらおう」


リディアが魔道具を起動すると、レイモンドの声が謁見の間に響いた。


エドワードを操ること。王位を簒奪すること。隣国と通じていること——すべてが、白日の下に晒された。


録音が終わった時、謁見の間は静まり返っていた。


「……これは、本物か」


国王の声は低く、怒りを押し殺しているようだった。


「はい、陛下。私が自らの目で確認し、耳で聞いたことでございます」


「なぜ、お前がこのようなことを?」


「クレイトン伯爵は、私とエドワード殿下の婚約を破棄させようと画策しておりました。殿下をセシリア嬢に惹きつけ、私を追い落とすことで、殿下を操りやすくするためでございます」


国王は深くため息をついた。


「……エドワードは、レイモンドに踊らされていたのか」


「殿下は何もご存知ないと思われます。ただ——」


「ただ?」


「殿下は、ご自身の目で人を見る力を、まだお持ちでないように思われます。陛下のご指導が、必要かと」


国王は長い沈黙の後、頷いた。


「リディア嬢、礼を言う。お前のおかげで、大事になる前に謀反を防ぐことができた」


「もったいないお言葉でございます」


「レイモンドは即刻捕らえ、裁きにかける。そして——」


国王はリディアを真っ直ぐに見つめた。


「お前とエドワードの婚約は、どうする?」


リディアは一瞬、言葉に詰まった。


前世なら、何が何でも婚約を維持しようとしただろう。王太子妃になることが、自分の使命だと信じていたから。


けれど今は——。


「陛下、恐れながら申し上げます」


「何だ」


「私は、エドワード殿下の妻となる器ではないと存じます」


国王の眉が上がった。


「殿下には、殿下を心から愛し、支えてくださる方が必要です。私では——それは難しいかと」


本当は、もう一つ理由があった。


もうエドワードを愛せない。前世で味わった絶望と裏切りの記憶が、どうしても消えないのだ。


「そうか……」


国王は複雑な表情を浮かべた。


「お前の意思を尊重しよう。婚約は、正式に解消とする。ただし——これは破棄ではない。お前の申し出による、円満な解消だ。お前の名誉は守られねばならぬ」


「ありがとうございます、陛下」


リディアは深く頭を下げた。



レイモンド・クレイトン伯爵は、その日のうちに捕らえられた。


謀反と国家反逆の罪で、死刑は免れないだろう。彼に協力していた者たちも、次々と摘発されていった。


エドワードは、すべてを知った後、しばらく部屋に籠もっていたという。自分が信じていた側近に裏切られていたこと。そして、婚約者だったリディアが、その謀略を暴いて国を救ったこと。


数日後、エドワードからリディアに面会の申し出があった。



王宮の庭園。噴水のそばで、リディアはエドワードと向き合った。


エドワードの顔には、疲労と後悔の色が濃く浮かんでいた。


「リディア……」


「殿下」


「俺は……お前に、謝らなければならない」


エドワードは苦しそうに顔を歪めた。


「お前のことを、冷たい女だと思っていた。俺の気持ちを理解してくれない、人形のような女だと。でも——」


「殿下」


リディアは静かに遮った。


「過去のことは、もう良いのです」


「でも——」


「殿下が私をどう思っていたか、私にはわかります。確かに私は、殿下の期待する婚約者ではなかったでしょう」


エドワードは何か言おうとして、口をつぐんだ。


「けれど殿下、一つだけお聞きしたいことがあります」


「何だ……」


「もし私が——本当にセシリア嬢を虐めていたとしたら。殿下は、私の言い分を聞いてくださいましたか」


エドワードは答えなかった。その沈黙が、答えだった。


「そういうことです」


リディアは穏やかに微笑んだ。


「殿下は、私のことを信じていなかった。私たちの婚約は、最初から形だけのものだったのです」


「リディア、俺は——」


「殿下、私を恨まないでください。そして、ご自身も責めないでください。ただ——これからは、ご自身の目で人を見てください。誰かの言葉を鵜呑みにするのではなく」


リディアは静かに一礼した。


「殿下のご多幸を、お祈りしております」


そう言って、振り返ることなく立ち去った。



庭園を出たところで、見覚えのある姿が目に入った。


「アレク」


「……待っていた」


アレクは相変わらず無表情だったが、その瞳にはどこか心配そうな色が浮かんでいた。


「大丈夫だったか。王太子と、何かあったか」


「ええ、大丈夫よ。ただの——お別れをしてきただけ」


「そうか」


アレクは小さく頷いた。そして、少し躊躇った後、口を開いた。


「リディア」


「何?」


「お前は、これからどうするんだ」


「そうね……」


リディアは空を見上げた。青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れていく。


「まずは、セシリア嬢を助けないと。彼女の家の借金のこと、父に相談してみるわ。それから——」


「それから?」


「わからないわ。でも、焦る必要はないでしょう。今度こそ、自分の人生を生きたい」


アレクはしばらく黙っていた。そして、意を決したように言った。


「俺と、一緒に来ないか」


「え?」


「辺境伯領に。俺の領地は、今発展の途中なんだ。お前のような賢い人間が必要だ」


リディアは驚いてアレクを見上げた。彼の耳が、わずかに赤くなっている。


「……それは、領地経営の話?」


「それも、ある。でも——」


アレクは視線を逸らした。


「それだけじゃない」


リディアは思わず笑った。不器用で、回りくどくて——でも、誰よりも真っ直ぐな人。


「アレク」


「何だ」


「返事は、もう少し待ってくれる?」


「……ああ」


「でも、一つだけ」


リディアはアレクの手を取った。


「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」


アレクの青い瞳が、大きく見開かれた。そして——初めて見る、満開の花のような笑顔が浮かんだ。



それから一ヶ月が過ぎた。


レイモンドの裁判は終わり、彼は死刑を宣告された。彼に協力していた貴族たちも、その地位を剥奪され、領地を没収された。


セシリアの家の借金は、リディアの父が肩代わりした。見返りは求めなかったが、セシリアとその家族は、深く感謝してくれた。


「リディア様……いえ、リディア」


ある日、セシリアがリディアの屋敷を訪ねてきた。


「私、決めたの。王都を離れて、田舎で静かに暮らすことにしたわ」


「そう。それが、あなたの望みなら」


「ええ。私には、社交界は向いていなかった。でも——」


セシリアは照れくさそうに笑った。


「実は、いい人がいるの。領地の近くに住む、商人の息子。とても誠実で、優しい人よ」


「あら、そう」


リディアも微笑んだ。


「良かった。幸せになってね、セシリア」


「ありがとう。あなたも——幸せになって」



エドワードはその後、王太子としての教育をやり直すことになった。


国王は息子の甘さを厳しく戒め、政務への参加を義務付けた。最初は反発していたエドワードも、やがて自分の未熟さを認め、真剣に取り組むようになったという。


ある日、リディアのもとにエドワードからの手紙が届いた。


『リディアへ


改めて、謝罪の言葉を伝えたい。俺はお前を傷つけた。お前が国を救ってくれたのに、俺はお前を信じていなかった。


今、俺は自分の愚かさを思い知っている。お前がいなくなって初めて、お前がどれだけ多くのことを支えてくれていたか気づいた。外交も、財政も、社交界の均衡も——すべてお前が陰で調整してくれていたのだと、父に教えられた。


今更こんなことを言っても遅いと思う。でも、知ってほしかった。俺は反省している。そして、お前の幸せを心から願っている。


いつか、お前に相応しい男が現れることを祈っている。


エドワード』


リディアは手紙を読み終え、静かに折りたたんだ。


「遅いわよ、殿下」


小さく呟く。けれど、その声に怒りはなかった。



夏の終わり、リディアは一つの決断を下した。


「アレク」


「何だ」


「私、あなたと一緒に辺境に行くわ」


アレクの動きが止まった。


「……本当か」


「ええ。でも、一つ条件があるの」


「何でも言ってくれ」


「私を、対等なパートナーとして扱って。領地経営も、何もかも——一緒に考えて、一緒に決めたい」


アレクはしばらく黙っていた。そして、静かに頷いた。


「当然だ。俺は最初から、そのつもりだった」


「そう。なら、良かった」


リディアは笑った。心から、自然に。


前世では、こんな風に笑うことはなかった。いつも緊張して、完璧であろうとして、自分を押し殺していた。


けれど今は違う。


「アレク」


「何だ」


「私、あなたのこと——好きよ」


アレクの顔が、見たこともないほど赤くなった。


「……急に、何を」


「言いたかったの。前世では——いえ、何でもないわ」


リディアはアレクの手を取った。


「これからよろしくね、アレク」


「……ああ」


アレクの大きな手が、リディアの手を優しく包み込んだ。



秋の初め、リディアは王都を発った。


見送りに来てくれたのは、両親と、マーサと、そしてセシリア。


「リディア、身体に気をつけて」


「手紙、ちゃんと書くのよ」


「お嬢様——いえ、リディア様。お幸せに」


「リディア、また会いましょうね」


馬車の窓から手を振りながら、リディアは王都の街並みを見つめた。


ここで過ごした十七年間。辛いことも、苦しいことも、たくさんあった。けれど——。


「何を考えている」


隣に座るアレクが、静かに問いかけた。


「これからのこと。あなたと一緒に、どんな未来を作っていこうかなって」


「そうか」


アレクは小さく笑った。


「俺も、同じことを考えていた」


馬車は王都の門を抜け、北へ向かって走り始めた。


窓の外には、どこまでも続く青い空。白い雲。そして、金色に輝く麦畑。


リディアは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


新しい人生が、始まる。


今度こそ、自分の足で。自分の意思で。


そして——愛する人とともに。



辺境伯領での生活は、想像以上に忙しかった。


領地経営の仕事は山積みだった。農地の開墾、水路の整備、新しい産業の育成。リディアは持ち前の知識と能力を発揮して、次々と問題を解決していった。


「リディア、すごいな」


ある日、アレクが感心したように言った。


「何が?」


「お前が来てから、領地が見違えるように良くなった。収穫量は増えたし、民の暮らしも楽になった」


「あなたの力よ。私は、ほんの少し手伝っただけ」


「謙遜するな。お前がいなければ、俺一人では何もできなかった」


アレクはリディアの髪をそっと撫でた。


「お前と出会えて、本当に良かった」


リディアは照れくさそうに笑った。


「私もよ、アレク」



冬の終わり、一通の手紙が届いた。


差出人は——エドワード。


『リディアへ


お前が辺境で幸せに暮らしていると聞いて、安心した。


報告がある。俺は来月、隣国の王女と婚約することになった。政略結婚だが、彼女はとても聡明で、誠実な人だ。お前のように——いや、お前とは違う良さを持った人だ。


俺はこれから、この国のために全力を尽くす。お前が守ってくれた国を、俺も守りたい。


いつか機会があれば、フロスト辺境伯——いや、お前の夫に、礼を言いたい。お前を幸せにしてくれて、ありがとうと。


元気で。


エドワード』


リディアは手紙を読み終え、窓の外を見た。


雪解けの季節。白い大地に、少しずつ緑が芽吹き始めている。


「誰からだ」


アレクが後ろから近づいてきた。


「エドワード殿下から。婚約のお知らせよ」


「そうか」


「……良かったわ。殿下も、前に進んでいるみたい」


リディアは手紙を丁寧に折りたたんだ。


「アレク」


「何だ」


「私たちも、正式に婚約しない?」


アレクの動きが止まった。


「……俺から言おうと思っていたのに」


「あら、ごめんなさい」


リディアは悪戯っぽく笑った。


「でも、返事は?」


アレクはため息をついた。けれど、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。


「愚問だ」


そう言って、リディアを抱きしめた。



春の訪れとともに、二人の婚約が正式に発表された。


辺境伯と公爵令嬢の結婚。それは、社交界でも大きな話題となった。


かつて王太子妃候補だった令嬢が、辺境の地で幸せを見つけた。その物語は、多くの人々の心を打った。


結婚式の日、リディアは純白のドレスに身を包み、教会の祭壇に立った。


「リディア・ウィンターフェル。汝はアレクサンダー・フロストを夫として迎え、生涯愛することを誓うか」


「誓います」


「アレクサンダー・フロスト。汝はリディア・ウィンターフェルを妻として迎え、生涯愛することを誓うか」


「誓う」


指輪の交換。誓いのキス。


教会に集まった人々から、祝福の拍手が沸き起こった。


リディアは涙を堪えながら、アレクを見上げた。


「アレク」


「何だ」


「幸せよ、私」


「俺もだ」


アレクは優しく微笑み、リディアの額にキスを落とした。


「これからも、ずっと一緒だ」


「ええ。ずっと、一緒に」



それから数年後。


フロスト辺境伯領は、王国でも有数の豊かな地へと発展していた。


リディアとアレクの間には、二人の子どもが生まれた。銀髪に青い瞳を持つ長男と、銀灰色の髪に紫水晶の瞳を持つ長女。


「お母様、お話聞かせて」


ある夜、長女がリディアにねだった。


「何のお話がいい?」


「お母様とお父様が出会ったお話!」


リディアは微笑んだ。


「そうね。昔々、ある所に、一人の公爵令嬢がいました——」


物語を語りながら、リディアは思った。


あの時、もう一度チャンスが与えられた。


復讐など、しなくて良かった。


憎しみに囚われず、真実を見極め、本当に大切なものを守ることを選んだ。


その選択が、今の幸せに繋がっている。


「それで、それで?」


「公爵令嬢は、辺境伯様と結婚して、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」


「わあ!」


子どもたちが歓声を上げた。


その様子を見ていたアレクが、リディアの隣に座った。


「良い話だな」


「ええ。でも、まだ続きがあるのよ」


「続き?」


「これからの話。私たちの、未来の話」


リディアはアレクに寄り添った。


「一緒に書いていきましょう、アレク」


「ああ」


アレクはリディアの手を取り、その指先に唇を落とした。


「これからも、ずっと」


窓の外には、満天の星空が広がっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

kindleで『婚約破棄? 喜んで受け入れます ~悪役令嬢に転生したけど破滅ルートはお断りです~』を販売中です! kindle unlimitedに登録している方なら無料でご覧になれますのでぜひ見てみてください!

https://www.amazon.co.jp/dp/B0GJ3LTBWS

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ