前世で私を見捨てた王太子が泣きついてきましたが、もう遅いです
目を開けた瞬間、リディアは自分が泣いていることに気づいた。
頬を伝う涙の感触。柔らかなシーツの肌触り。窓から差し込む朝日の眩しさ。そのすべてが、あまりにも鮮明だった。
ここは——私の部屋?
リディアは勢いよく身を起こした。見慣れた天蓋付きのベッド。淡い桜色のカーテン。幼い頃から使っている白い化粧台。間違いない。ここはウィンターフェル公爵家の、リディアの私室だ。
けれど、そんなはずはなかった。
リディアの記憶が正しければ、彼女は今、この世にいないはずなのだから。
「お嬢様、お目覚めですか?」
ノックの音とともに、聞き覚えのある声が響いた。扉が開き、栗色の髪をきっちりと結い上げた中年の侍女が姿を現す。
「マーサ……?」
「はい、マーサでございますよ。どうなさいましたか、お嬢様。まるで幽霊でも見たようなお顔をして」
マーサ。十年以上リディアに仕えてくれた、誰よりも信頼できる侍女。彼女は確か、リディアが投獄された直後に、連座で処刑されたはずだった。
リディアの目から、再び涙が溢れた。
「お嬢様!? どうなさいました、どこかお加減が——」
「マーサ、今日は何年の何月何日?」
「は? えっと……王歴三百二十四年、春の月の十五日でございますが」
その言葉を聞いた瞬間、リディアの心臓が大きく跳ねた。
王歴三百二十四年。それは、リディアが処刑された王歴三百二十九年から、ちょうど五年前。そして——婚約破棄の宣告を受ける、二ヶ月前だった。
リディアは震える手で、化粧台の鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、十七歳の自分の顔。処刑台で見た、やつれ果てた二十二歳の姿ではない。艶やかな銀髪に、澄んだ紫水晶の瞳。頬にはまだ少女らしい丸みが残っている。
間違いない。私は、五年前に戻っている。
リディアは鏡の中の自分を見つめながら、前世の記憶を辿った。
王太子エドワードとの婚約。それは物心ついた頃から決まっていたことだった。
ウィンターフェル公爵家は代々、王家の外戚を務めてきた名門中の名門。リディアは幼い頃から、未来の王妃となるべく教育を受けてきた。政治、経済、外交、社交——あらゆる分野で完璧であることを求められ、そしてそれに応えてきた。
エドワードを愛していたかと問われれば、正直よくわからない。けれど、王妃としての務めを果たすことに、迷いはなかった。
すべてが変わったのは、男爵令嬢セシリア・ローズが現れてからだった。
エドワードは夜会で出会ったセシリアに一目惚れした。可憐で、無邪気で、守ってあげたくなる——そんな女性だと、エドワードは熱っぽく語った。お前のように冷たくない、とも。
そして二ヶ月後、エドワードはリディアとの婚約を一方的に破棄した。理由は「リディアがセシリアを虐めた」という、身に覚えのない罪だった。
その後の五年間は、地獄だった。
社交界から締め出され、実家は王家からの圧力で徐々に力を失い、最後にはリディア自身が「国家反逆罪」という冤罪で投獄された。そして——処刑。
断頭台の上で、リディアが最後に見たのは、勝ち誇ったように微笑むセシリアの顔だった。
けれど今、すべてをやり直す機会が与えられた。
リディアは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
復讐してやる。
最初はそう思った。エドワードを、セシリアを、私を陥れたすべての人間を——地獄に突き落としてやる。
けれど、とリディアは考えを巡らせた。
本当の敵は誰だったのか。
セシリアは確かに憎い。けれど彼女は、ただの男爵令嬢だった。あれほどの陰謀を、一人で企てられるとは思えない。
では、誰が糸を引いていたのか。
リディアは前世の記憶を丁寧に辿った。不自然な点は、いくつもあった。セシリアがいつも誰かと密談していたこと。エドワードの側近、レイモンド・クレイトン伯爵が、やけにセシリアに好意的だったこと。そして——リディアの「国家反逆罪」を告発したのが、他でもないレイモンドだったこと。
もしかしたら、とリディアは思った。セシリアもまた、利用されていただけなのかもしれない。
真実を確かめなければ。そして、本当の黒幕を——今度こそ、この手で追い詰める。
リディアはまず、情報を集めることにした。
公爵令嬢という立場は、この点で非常に有利だった。社交界のあらゆる場所に出入りでき、誰とでも会話を交わすことができる。
春の園遊会。リディアは淡い藤色のドレスに身を包み、会場を見渡した。
いた。
庭園の片隅で、セシリア・ローズが一人で佇んでいる。前世の記憶では、彼女はいつも人に囲まれ、華やかに笑っていた。けれど今の彼女は、どこか怯えたような表情を浮かべている。
リディアは静かにセシリアに近づいた。
「ごきげんよう、ローズ男爵令嬢」
「ひっ——!」
セシリアが小さく悲鳴を上げた。振り返った彼女の顔は青ざめ、目には怯えの色が浮かんでいる。
「も、申し訳ございません、リディア様……! 私、私は——」
「そんなに怯えないで。私はただ、ご挨拶に来ただけよ」
リディアは穏やかに微笑んだ。前世の自分なら、こんな風に男爵令嬢に声をかけることはなかっただろう。けれど今は違う。
「少し、お話しませんか?」
セシリアは困惑した表情を浮かべた。けれど、公爵令嬢の誘いを断るわけにもいかない。おずおずと頷き、リディアの後についてきた。
人目につかないバラ園のベンチに腰を下ろす。リディアはしばらく、咲き誇るバラを眺めていた。
「あなた、何か困っていることがあるのではなくて?」
「え……」
「さっきから、とても不安そうな顔をしているわ。何かあったなら、聞くわよ」
セシリアは驚いたように目を見開いた。そして——その目に、涙が滲んだ。
「リディア様は、お優しいのですね……噂と、全然違う……」
「噂?」
「あ、いえ、その……」
セシリアは慌てて口をつぐんだ。けれど、その反応だけで十分だった。
誰かがセシリアに、リディアの悪い噂を吹き込んでいる。そしてそれは、おそらく——。
「クレイトン伯爵のことね」
リディアの言葉に、セシリアの顔がさっと強張った。図星だ。
「なぜ、その名を……」
「彼があなたに何を言っているか知らないけれど、あの人の言葉を鵜呑みにしない方がいいわ」
「で、でも、レイモンド様は私を助けてくださって——」
「助けた? どういうこと?」
セシリアは俯いた。しばらく黙っていたが、やがて、絞り出すように話し始めた。
「私の家は、借金があるのです。父が事業に失敗して……このままでは、領地を手放さなければならないと。そんな時、レイモンド様が声をかけてくださって。お金を貸してくださるとおっしゃって……」
「その代わりに、何をしろと?」
「……エドワード殿下に、近づくように、と」
リディアは静かに息を吐いた。
やはり。セシリアは駒だったのだ。レイモンドに操られ、エドワードに近づき、リディアと婚約を破棄させるための——。
「セシリア」
「は、はい……」
「あなたは、エドワード殿下のことが本当に好きなの?」
セシリアは長い沈黙の後、小さく首を横に振った。
「わかりません……最初は、ただレイモンド様に言われるがままで。でも、殿下は優しくしてくださるし、私のことを見てくださるし……好きに、なりかけているのかもしれません。でも——」
「でも?」
「怖いのです。殿下は、私を見ているようで、見ていない気がして。私という人間ではなく、自分の理想を見ているような……」
リディアは思わず苦笑した。あの浅はかな王太子の本質を、セシリアは正確に見抜いていたのだ。
「セシリア、提案があるの」
「提案……ですか?」
「私に協力してくれない? レイモンドが何を企んでいるのか、一緒に調べましょう」
それから数週間、リディアとセシリアは密かに情報を集めた。
セシリアがレイモンドから受け取った手紙。レイモンドが密会していた人物の情報。そして、レイモンドの背後にいる存在——。
すべてが繋がった時、リディアは愕然とした。
レイモンドの目的は、単にリディアを失脚させることではなかった。彼が狙っていたのは——王位そのものだった。
レイモンドは王家の遠縁にあたる。エドワードを傀儡にし、やがては排除して、自らが王座に就く。そのために、まずエドワードを孤立させる必要があった。賢く有能な婚約者リディアは、邪魔だったのだ。
「信じられない……」
セシリアは震える声で呟いた。
「レイモンド様が、そんなことを考えていただなんて……私は、知らずにその手伝いを……」
「あなたのせいじゃないわ」
リディアはセシリアの手を取った。
「利用されていたのよ。でも今なら、まだ間に合う。レイモンドの計画を阻止できる」
「でも、どうやって……?」
「証拠を集めて、王に直接訴えるわ。レイモンドの謀反の証拠を」
リディアの目には、静かな決意が宿っていた。
証拠集めは困難を極めた。
レイモンドは用心深い男だった。証拠になりそうな書類は厳重に保管され、密会も人目を避けて行われている。
けれどリディアには、前世の記憶という武器があった。
レイモンドが誰と会っていたか。どんな場所を好んで使っていたか。そして——彼の弱点が何かを、リディアは知っていた。
「マーサ、お願いがあるの」
「何でございましょう、お嬢様」
「クレイトン伯爵家の使用人に、知り合いはいないかしら」
マーサは少し考え込んだ後、頷いた。
「厨房係に、遠縁の者がおりますが」
「その人から、伯爵の行動について聞き出せない? 特に、夜中に出かけることがあるかどうか」
マーサは不思議そうな顔をしたが、リディアの真剣な表情を見て、何も聞かずに頷いた。
「承知いたしました」
数日後、マーサが報告を持ってきた。
「お嬢様、やはり伯爵様は、月に数回、夜中に屋敷を抜け出しているそうでございます。行き先は……王都の外れにある、古い教会だとか」
リディアは静かに頷いた。
その教会のことは知っている。前世で、リディアの「罪」をでっち上げるための密談が行われていた場所だ。
「ありがとう、マーサ。もう一つ、お願いしてもいいかしら」
「何なりと」
「フロスト辺境伯家に、手紙を届けてほしいの」
フロスト辺境伯家。それは、リディアの幼馴染であるアレクサンダーの家だった。
アレクは幼い頃、リディアの遊び相手としてよく公爵邸に招かれていた。無口で不器用だが、誰よりも誠実な少年だった。
前世のリディアは、アレクの存在をほとんど気に留めていなかった。彼は王太子妃教育に忙しいリディアを、いつも遠くから見守るだけだったから。
けれど今なら、わかる。
処刑が決まった時、たった一人、リディアの無実を訴えてくれた人がいた。王の前で膝をつき、「リディア嬢は無実です。私の命に代えてもお守りします」と叫んだ人。
それが、アレクサンダー・フロストだった。
彼の訴えは聞き入れられず、アレク自身も投獄された。その後どうなったか、リディアは知らない。けれど——彼のことを、ずっと忘れられなかった。
最期の瞬間まで、ずっと。
手紙を送って三日後、アレクサンダーが公爵邸を訪れた。
「リディア」
応接室の扉を開けた瞬間、彼女の名を呼ぶ低い声が響いた。
リディアは振り返り、そこに立つ青年の姿に息を呑んだ。
銀灰色の髪に、深い青の瞳。精悍な顔立ちは、幼い頃の面影を残しながらも、凛々しい青年のそれになっていた。
「アレク……」
「久しぶりだな。急に手紙をもらったから、何かあったのかと思って」
アレクは相変わらず表情に乏しかったが、その瞳には確かな心配の色が浮かんでいた。
リディアは彼を見つめながら、不思議な感覚に襲われた。前世では気づかなかった。この人がこんなにも、自分のことを大切に思ってくれていたなんて。
「アレク、お願いがあるの」
「何だ?」
「あなたの力を貸してほしい。少し……危険なことかもしれないけれど」
アレクは一瞬の躊躇もなく頷いた。
「お前のためなら、何でもする」
その言葉があまりにも真っ直ぐで、リディアは思わず目を逸らした。
「……ありがとう」
リディアの計画は、こうだった。
レイモンドが密会を行う教会に忍び込み、証拠を押さえる。そしてその証拠を、国王に直接提出する。
危険な計画だった。けれど、他に方法はなかった。
密会の夜。リディアは黒いフードを被り、アレクとともに教会へ向かった。
「本当に、お前が来る必要があるのか」
アレクが低い声で問いかけた。
「私でないとダメなの。レイモンドの声を聞き分けられるのは、私だけだから」
それは嘘ではなかった。前世で何度もレイモンドと会話を交わしたリディアは、彼の声を聞き間違えることはない。
古い教会は、王都の外れにひっそりと建っていた。もう何年も使われていない様子で、窓は埃で曇り、壁は蔦に覆われている。
「中に誰かいる」
アレクが囁いた。彼の聴覚は鋭い。
リディアは頷き、教会の裏手に回った。崩れかけた壁に小さな隙間がある。そこから中を覗くと——。
いた。
レイモンド・クレイトン伯爵。そして、もう一人。見覚えのある顔だ。
「隣国の密偵……」
リディアは息を呑んだ。
レイモンドは、隣国と通じていたのだ。王位を簒奪するために、隣国の力を借りようとしている。これは謀反どころではない。国家反逆罪だ。
「——エドワードはもう、私の手の中だ」
レイモンドの声が聞こえた。
「あの愚かな王太子は、セシリアという人形に夢中になっている。婚約破棄さえ済めば、リディア・ウィンターフェルは失脚する。あの女がいなくなれば、エドワードを操るのは容易い」
「では、計画通りに?」
「ああ。まずは王太子妃の座を空ける。次にセシリアを王太子妃に据え、私がその後見となる。そしてエドワードが即位した後——」
「事故に見せかけて、排除する」
「そういうことだ。すべてが済めば、私が摂政として国を動かせる。そしていずれは——」
リディアはそっと、隠し持っていた魔道具を取り出した。録音用の魔道具だ。高価なものだが、公爵家の財力をもってすれば手に入れるのは難しくなかった。
会話のすべてを、この魔道具に記録する。それが、動かぬ証拠になる。
けれど、その時——。
「誰だ!」
レイモンドが叫んだ。
リディアは凍りついた。まさか、気づかれた?
「裏に誰かいる! 捕らえろ!」
「リディア、逃げろ!」
アレクがリディアの手を掴み、走り出した。
背後から追手の足音が聞こえる。暗い夜道を必死で駆け抜ける。心臓が破裂しそうだった。
「こっちだ」
アレクがリディアを路地裏に引き込んだ。二人は息を殺し、壁に身を寄せた。
追手の足音が近づき——そして、遠ざかっていく。
「……行ったか」
アレクが小さく息を吐いた。
リディアは震える手で、魔道具を確認した。録音は——されている。レイモンドの声が、はっきりと。
「証拠は、手に入った」
「良かった」
アレクはリディアを見下ろした。月明かりの下、彼の青い瞳がリディアを映している。
「怪我はないか」
「ええ、大丈夫。あなたのおかげで」
「……そうか」
アレクは安堵したように、小さく笑った。その笑顔を見た瞬間、リディアの胸が痛いほど締め付けられた。
どうして、と思った。
どうして前世の私は、この人の想いに気づかなかったのだろう。
翌日、リディアは父である公爵とともに、王宮を訪れた。
国王への謁見を願い出ると、意外にもすぐに許可が下りた。国王はリディアの父を信頼しており、その娘の訴えとあれば、聞かぬわけにはいかないのだろう。
謁見の間。リディアは国王の前に跪いた。
「ウィンターフェル公爵令嬢リディア、拝謁の栄誉を賜り、恐悦至極に存じます」
「面を上げよ、リディア嬢。して、何用かな」
国王の声は穏やかだったが、その瞳は鋭かった。この方は、愚かな君主ではない。だからこそ、証拠さえあれば——。
「陛下に、お聞きいただきたいことがございます」
リディアは録音の魔道具を取り出した。
「これは昨夜、王都外れの古い教会で録音したものでございます。クレイトン伯爵レイモンドと、隣国の密偵との会話が記録されております」
国王の表情が険しくなった。
「……聞かせてもらおう」
リディアが魔道具を起動すると、レイモンドの声が謁見の間に響いた。
エドワードを操ること。王位を簒奪すること。隣国と通じていること——すべてが、白日の下に晒された。
録音が終わった時、謁見の間は静まり返っていた。
「……これは、本物か」
国王の声は低く、怒りを押し殺しているようだった。
「はい、陛下。私が自らの目で確認し、耳で聞いたことでございます」
「なぜ、お前がこのようなことを?」
「クレイトン伯爵は、私とエドワード殿下の婚約を破棄させようと画策しておりました。殿下をセシリア嬢に惹きつけ、私を追い落とすことで、殿下を操りやすくするためでございます」
国王は深くため息をついた。
「……エドワードは、レイモンドに踊らされていたのか」
「殿下は何もご存知ないと思われます。ただ——」
「ただ?」
「殿下は、ご自身の目で人を見る力を、まだお持ちでないように思われます。陛下のご指導が、必要かと」
国王は長い沈黙の後、頷いた。
「リディア嬢、礼を言う。お前のおかげで、大事になる前に謀反を防ぐことができた」
「もったいないお言葉でございます」
「レイモンドは即刻捕らえ、裁きにかける。そして——」
国王はリディアを真っ直ぐに見つめた。
「お前とエドワードの婚約は、どうする?」
リディアは一瞬、言葉に詰まった。
前世なら、何が何でも婚約を維持しようとしただろう。王太子妃になることが、自分の使命だと信じていたから。
けれど今は——。
「陛下、恐れながら申し上げます」
「何だ」
「私は、エドワード殿下の妻となる器ではないと存じます」
国王の眉が上がった。
「殿下には、殿下を心から愛し、支えてくださる方が必要です。私では——それは難しいかと」
本当は、もう一つ理由があった。
もうエドワードを愛せない。前世で味わった絶望と裏切りの記憶が、どうしても消えないのだ。
「そうか……」
国王は複雑な表情を浮かべた。
「お前の意思を尊重しよう。婚約は、正式に解消とする。ただし——これは破棄ではない。お前の申し出による、円満な解消だ。お前の名誉は守られねばならぬ」
「ありがとうございます、陛下」
リディアは深く頭を下げた。
レイモンド・クレイトン伯爵は、その日のうちに捕らえられた。
謀反と国家反逆の罪で、死刑は免れないだろう。彼に協力していた者たちも、次々と摘発されていった。
エドワードは、すべてを知った後、しばらく部屋に籠もっていたという。自分が信じていた側近に裏切られていたこと。そして、婚約者だったリディアが、その謀略を暴いて国を救ったこと。
数日後、エドワードからリディアに面会の申し出があった。
王宮の庭園。噴水のそばで、リディアはエドワードと向き合った。
エドワードの顔には、疲労と後悔の色が濃く浮かんでいた。
「リディア……」
「殿下」
「俺は……お前に、謝らなければならない」
エドワードは苦しそうに顔を歪めた。
「お前のことを、冷たい女だと思っていた。俺の気持ちを理解してくれない、人形のような女だと。でも——」
「殿下」
リディアは静かに遮った。
「過去のことは、もう良いのです」
「でも——」
「殿下が私をどう思っていたか、私にはわかります。確かに私は、殿下の期待する婚約者ではなかったでしょう」
エドワードは何か言おうとして、口をつぐんだ。
「けれど殿下、一つだけお聞きしたいことがあります」
「何だ……」
「もし私が——本当にセシリア嬢を虐めていたとしたら。殿下は、私の言い分を聞いてくださいましたか」
エドワードは答えなかった。その沈黙が、答えだった。
「そういうことです」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「殿下は、私のことを信じていなかった。私たちの婚約は、最初から形だけのものだったのです」
「リディア、俺は——」
「殿下、私を恨まないでください。そして、ご自身も責めないでください。ただ——これからは、ご自身の目で人を見てください。誰かの言葉を鵜呑みにするのではなく」
リディアは静かに一礼した。
「殿下のご多幸を、お祈りしております」
そう言って、振り返ることなく立ち去った。
庭園を出たところで、見覚えのある姿が目に入った。
「アレク」
「……待っていた」
アレクは相変わらず無表情だったが、その瞳にはどこか心配そうな色が浮かんでいた。
「大丈夫だったか。王太子と、何かあったか」
「ええ、大丈夫よ。ただの——お別れをしてきただけ」
「そうか」
アレクは小さく頷いた。そして、少し躊躇った後、口を開いた。
「リディア」
「何?」
「お前は、これからどうするんだ」
「そうね……」
リディアは空を見上げた。青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
「まずは、セシリア嬢を助けないと。彼女の家の借金のこと、父に相談してみるわ。それから——」
「それから?」
「わからないわ。でも、焦る必要はないでしょう。今度こそ、自分の人生を生きたい」
アレクはしばらく黙っていた。そして、意を決したように言った。
「俺と、一緒に来ないか」
「え?」
「辺境伯領に。俺の領地は、今発展の途中なんだ。お前のような賢い人間が必要だ」
リディアは驚いてアレクを見上げた。彼の耳が、わずかに赤くなっている。
「……それは、領地経営の話?」
「それも、ある。でも——」
アレクは視線を逸らした。
「それだけじゃない」
リディアは思わず笑った。不器用で、回りくどくて——でも、誰よりも真っ直ぐな人。
「アレク」
「何だ」
「返事は、もう少し待ってくれる?」
「……ああ」
「でも、一つだけ」
リディアはアレクの手を取った。
「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に良かった」
アレクの青い瞳が、大きく見開かれた。そして——初めて見る、満開の花のような笑顔が浮かんだ。
それから一ヶ月が過ぎた。
レイモンドの裁判は終わり、彼は死刑を宣告された。彼に協力していた貴族たちも、その地位を剥奪され、領地を没収された。
セシリアの家の借金は、リディアの父が肩代わりした。見返りは求めなかったが、セシリアとその家族は、深く感謝してくれた。
「リディア様……いえ、リディア」
ある日、セシリアがリディアの屋敷を訪ねてきた。
「私、決めたの。王都を離れて、田舎で静かに暮らすことにしたわ」
「そう。それが、あなたの望みなら」
「ええ。私には、社交界は向いていなかった。でも——」
セシリアは照れくさそうに笑った。
「実は、いい人がいるの。領地の近くに住む、商人の息子。とても誠実で、優しい人よ」
「あら、そう」
リディアも微笑んだ。
「良かった。幸せになってね、セシリア」
「ありがとう。あなたも——幸せになって」
エドワードはその後、王太子としての教育をやり直すことになった。
国王は息子の甘さを厳しく戒め、政務への参加を義務付けた。最初は反発していたエドワードも、やがて自分の未熟さを認め、真剣に取り組むようになったという。
ある日、リディアのもとにエドワードからの手紙が届いた。
『リディアへ
改めて、謝罪の言葉を伝えたい。俺はお前を傷つけた。お前が国を救ってくれたのに、俺はお前を信じていなかった。
今、俺は自分の愚かさを思い知っている。お前がいなくなって初めて、お前がどれだけ多くのことを支えてくれていたか気づいた。外交も、財政も、社交界の均衡も——すべてお前が陰で調整してくれていたのだと、父に教えられた。
今更こんなことを言っても遅いと思う。でも、知ってほしかった。俺は反省している。そして、お前の幸せを心から願っている。
いつか、お前に相応しい男が現れることを祈っている。
エドワード』
リディアは手紙を読み終え、静かに折りたたんだ。
「遅いわよ、殿下」
小さく呟く。けれど、その声に怒りはなかった。
夏の終わり、リディアは一つの決断を下した。
「アレク」
「何だ」
「私、あなたと一緒に辺境に行くわ」
アレクの動きが止まった。
「……本当か」
「ええ。でも、一つ条件があるの」
「何でも言ってくれ」
「私を、対等なパートナーとして扱って。領地経営も、何もかも——一緒に考えて、一緒に決めたい」
アレクはしばらく黙っていた。そして、静かに頷いた。
「当然だ。俺は最初から、そのつもりだった」
「そう。なら、良かった」
リディアは笑った。心から、自然に。
前世では、こんな風に笑うことはなかった。いつも緊張して、完璧であろうとして、自分を押し殺していた。
けれど今は違う。
「アレク」
「何だ」
「私、あなたのこと——好きよ」
アレクの顔が、見たこともないほど赤くなった。
「……急に、何を」
「言いたかったの。前世では——いえ、何でもないわ」
リディアはアレクの手を取った。
「これからよろしくね、アレク」
「……ああ」
アレクの大きな手が、リディアの手を優しく包み込んだ。
秋の初め、リディアは王都を発った。
見送りに来てくれたのは、両親と、マーサと、そしてセシリア。
「リディア、身体に気をつけて」
「手紙、ちゃんと書くのよ」
「お嬢様——いえ、リディア様。お幸せに」
「リディア、また会いましょうね」
馬車の窓から手を振りながら、リディアは王都の街並みを見つめた。
ここで過ごした十七年間。辛いことも、苦しいことも、たくさんあった。けれど——。
「何を考えている」
隣に座るアレクが、静かに問いかけた。
「これからのこと。あなたと一緒に、どんな未来を作っていこうかなって」
「そうか」
アレクは小さく笑った。
「俺も、同じことを考えていた」
馬車は王都の門を抜け、北へ向かって走り始めた。
窓の外には、どこまでも続く青い空。白い雲。そして、金色に輝く麦畑。
リディアは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
新しい人生が、始まる。
今度こそ、自分の足で。自分の意思で。
そして——愛する人とともに。
辺境伯領での生活は、想像以上に忙しかった。
領地経営の仕事は山積みだった。農地の開墾、水路の整備、新しい産業の育成。リディアは持ち前の知識と能力を発揮して、次々と問題を解決していった。
「リディア、すごいな」
ある日、アレクが感心したように言った。
「何が?」
「お前が来てから、領地が見違えるように良くなった。収穫量は増えたし、民の暮らしも楽になった」
「あなたの力よ。私は、ほんの少し手伝っただけ」
「謙遜するな。お前がいなければ、俺一人では何もできなかった」
アレクはリディアの髪をそっと撫でた。
「お前と出会えて、本当に良かった」
リディアは照れくさそうに笑った。
「私もよ、アレク」
冬の終わり、一通の手紙が届いた。
差出人は——エドワード。
『リディアへ
お前が辺境で幸せに暮らしていると聞いて、安心した。
報告がある。俺は来月、隣国の王女と婚約することになった。政略結婚だが、彼女はとても聡明で、誠実な人だ。お前のように——いや、お前とは違う良さを持った人だ。
俺はこれから、この国のために全力を尽くす。お前が守ってくれた国を、俺も守りたい。
いつか機会があれば、フロスト辺境伯——いや、お前の夫に、礼を言いたい。お前を幸せにしてくれて、ありがとうと。
元気で。
エドワード』
リディアは手紙を読み終え、窓の外を見た。
雪解けの季節。白い大地に、少しずつ緑が芽吹き始めている。
「誰からだ」
アレクが後ろから近づいてきた。
「エドワード殿下から。婚約のお知らせよ」
「そうか」
「……良かったわ。殿下も、前に進んでいるみたい」
リディアは手紙を丁寧に折りたたんだ。
「アレク」
「何だ」
「私たちも、正式に婚約しない?」
アレクの動きが止まった。
「……俺から言おうと思っていたのに」
「あら、ごめんなさい」
リディアは悪戯っぽく笑った。
「でも、返事は?」
アレクはため息をついた。けれど、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「愚問だ」
そう言って、リディアを抱きしめた。
春の訪れとともに、二人の婚約が正式に発表された。
辺境伯と公爵令嬢の結婚。それは、社交界でも大きな話題となった。
かつて王太子妃候補だった令嬢が、辺境の地で幸せを見つけた。その物語は、多くの人々の心を打った。
結婚式の日、リディアは純白のドレスに身を包み、教会の祭壇に立った。
「リディア・ウィンターフェル。汝はアレクサンダー・フロストを夫として迎え、生涯愛することを誓うか」
「誓います」
「アレクサンダー・フロスト。汝はリディア・ウィンターフェルを妻として迎え、生涯愛することを誓うか」
「誓う」
指輪の交換。誓いのキス。
教会に集まった人々から、祝福の拍手が沸き起こった。
リディアは涙を堪えながら、アレクを見上げた。
「アレク」
「何だ」
「幸せよ、私」
「俺もだ」
アレクは優しく微笑み、リディアの額にキスを落とした。
「これからも、ずっと一緒だ」
「ええ。ずっと、一緒に」
それから数年後。
フロスト辺境伯領は、王国でも有数の豊かな地へと発展していた。
リディアとアレクの間には、二人の子どもが生まれた。銀髪に青い瞳を持つ長男と、銀灰色の髪に紫水晶の瞳を持つ長女。
「お母様、お話聞かせて」
ある夜、長女がリディアにねだった。
「何のお話がいい?」
「お母様とお父様が出会ったお話!」
リディアは微笑んだ。
「そうね。昔々、ある所に、一人の公爵令嬢がいました——」
物語を語りながら、リディアは思った。
あの時、もう一度チャンスが与えられた。
復讐など、しなくて良かった。
憎しみに囚われず、真実を見極め、本当に大切なものを守ることを選んだ。
その選択が、今の幸せに繋がっている。
「それで、それで?」
「公爵令嬢は、辺境伯様と結婚して、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」
「わあ!」
子どもたちが歓声を上げた。
その様子を見ていたアレクが、リディアの隣に座った。
「良い話だな」
「ええ。でも、まだ続きがあるのよ」
「続き?」
「これからの話。私たちの、未来の話」
リディアはアレクに寄り添った。
「一緒に書いていきましょう、アレク」
「ああ」
アレクはリディアの手を取り、その指先に唇を落とした。
「これからも、ずっと」
窓の外には、満天の星空が広がっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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