第一章 検死役の娘
家に戻ると、昼の光が妙に眩しかった。
検死室の静けさは、扉の向こうに置いてきたはずなのに、胸の奥の重さだけはついてきてしまった。
台所では、湯が小さく沸く音がしている。
薬草を乾かした香りと米の匂いが混ざって、ようやく息が戻ってくる。
父_____詠真はいつも通り手を洗い、器具を布で拭いていた。
その背中は、検死室と同じくらい静かだ。
私は、言いかけた言葉を飲み込んだまま、父の隣に座った。
「.....疲れたか」
不意に父が言った。
「ううん」
反射で答えてから、少し遅れて気づく。
疲れた、と言うより_____胸の奥がざらついている。
父は拭いていた器具を一つ、箱に収めた。
その手つきが、ほんの少しだけ荒い。
「今日は、よく見ていたな」
私は顔を上げる。
父は私を見ないまま、続けた。
「.....見学は、あれで終わりだ」
「え?」
声が少しだけ裏返った。
父はようやくこちらを向く。
けれど、その目は柔らかくはない。
「お前には向かない」
胸がきゅっと縮む。
「どうして.....?」
私は聞いた。
本当は、聞きたくなかったのかもしれない。
父は少しだけ眉を寄せ、視線を逸らす。
「向かないんじゃない」
訂正するように言った。
「向かせたくない」
その言葉が思っていたよりも強かった。
私は唇を噛んだ。
「父さんが決めることじゃない」
言ってしまってから、少し後悔した。
でも、止まらなかった。
「私、ずっと父さんの背中を見てきたのに」
父は黙っている。
私はその沈黙に耐えきれず、言葉を重ねた。
「検死役はこの国に必要な仕事でしょ。誰かがやらなきゃいけない」
父はゆっくりと息を吐いた。
「.....そうだ」
肯定する声は、どこか苦い。
「だからこそ、だ」
私は首を傾げる。
「だからこそ?」
父は器具の箱を閉め、両手を膝に置いた。
まるで、何かを言う準備をするように。
「紗詠」
名前を呼ばれると、背筋が伸びた。
「お前は、”見える”」
その言い方が妙に怖かった。
「.....見えるって、何?」
父は少しだけ目を細めた。
「他の者が気づかないものに気づく。気づいてしまう」
私は息を止めた。
今日の検死室で私は何かを見た。
言わなかった。言えなかった。
父はそのことを_____知っているのだろうか。
「父さん、私.....」
口を開きかけた瞬間、父が先に言った。
「言うな」
低い声だった。
怒っているわけじゃない。
けれど、拒絶でもない。
_____止める声だ。
私は言葉を飲み込んだ。
父は、私の沈黙を確認してから、ようやく続ける。
「検死役は、真実を知る。だがこの国では_____真実を知ることが、守りになるとは限らない」
私は目を見開いた。
父は、少し笑ったように見えた。笑ってはいないのに。
「正しさはな、立場で変わる」
その言葉は淡々としていた。
だからこそ、刺さった。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「.....父さんは、怖いの?」
そう聞いた瞬間、父の目が揺れた。
ほんの一瞬だけ。
「怖い」
父はあっさりと認めた。
「お前が、変わってしまうのが」
私は言葉を失った。
変わる。
検死役になったら、何かが変わる。
父はそれを知っている。
父は、少しだけ声を落とす。
「お前は、優しい。.....母さんに似ている」
そう言って父は私の頬を撫でる。
その言葉は、私には褒め言葉に聞こえなかった。
母の顔はもう曖昧だ。
声も、匂いも、ほとんど思い出せない。
私が小さすぎたから。
けれど、父がその名を口にすると_____家の空気が少し冷える。
「.....母さんは、優しかったよね」
私が言うと、父は返事をしなかった。
代わりに目を伏せる。
「優しいまま、真実を扱うのは難しい」
私は反射的に言い返す。
「優しさって、弱さじゃない」
父は少しだけ目を見開いた。
私は続ける。
「真実を暴くことが、必ずしも救いにならないことくらい.....私だって分かってる」
言い切った瞬間、自分でも驚いた。
分かっている?本当に?
父は黙ったまま、私を見ている。
その視線が、私の何かを揺らした。
私は少しだけ声を落とした。
「でも、黙ってた方が幸せなこともあるって.....それって、誰の幸せなの?」
父の指が、わずかに動いた。
答えは返ってこない。
代わりに父は静かに言った。
「.....今日は、よく眠れ」
それは、会話を終わらせる言葉だった。
私は唇を噛んで頷いた。
「.....うん」
父は立ち上がり、戸棚から茶を出す。
湯の音が、また小さく響く。
いつも通りの家。いつも通りの匂い。
なのに、さっきから胸の奥に言葉にならないものが溜まっていく。
私は、父の背中を見つめた。
父は、私に検死役になってほしくない。
それは分かった。
でも、どうしてそんなに必死なのか。
その理由だけがまだ見えない。
そして私は、今日見た”黒いもの”を、結局口にしなかった。
口にしなかったことが、正しかったのかどうかも分からないまま。




