第一章 検死役の娘
検死室は静かだった。
白い布に覆われた台と、石の壁。
薬草と金属が混じった匂い。
そこに、斑が立っていた。
「.....今日は、随分と賑やかですね」
淡々とした声で、私を見る。
「見学だ」
父が言う。
斑は一瞬だけ私を観察するように視線を走らせ、肩をすくめた。
「口を出すなよ」
「出しません」
そう答えると、斑は小さく鼻で笑った。
「”まだ”ならな」
意味ありげなその言葉に、胸が少しだけざわつく。
父が白布に手をかける。
「では始める」
布が捲られ、死体が現れた。
私は息を吸った。
怖くはなかった。
ただ、思っていたよりも_____静かだった。
ここが、父の仕事場。
そして、私がずっと憧れていた場所。
白布の下に横たわる身体は、驚くほど静かだった。
生きていた頃の名も、身分も、ここでは意味を持たない。
あるのは皮膚の色と、傷と、冷えた重さだけ。
「.....年の頃は二十前後」
父_____詠真の声が、淡々と検死室に響く。
「外傷は?」
斑が短く問う。
父は死体の顔を覗き込み、頬の辺りに指先を寄せた。
触れるか触れないかの距離で、皮膚の張りと色を見ている。
「目立つ外傷はなし。爪の間も_____汚れは少ない」
「争った形跡は薄い、か」
斑はそう言いながら、死体の首元に視線を落とした。
「首に痕は.....」
「.....薄い。だが、衣の擦れかもしれん」
父の言葉に、斑は頷いた。
私は、壁際で息を殺して見ていた。
布に触れない。近づかない。口を出さない。
約束した通りだ。
それでも、目は勝手に動く。
死体の口元。
耳の裏。
指先。
首筋。
______そして、私は気づいてしまった。
(.....あれ)
ほんの些細なことだった。
言葉にするには小さすぎるのに、胸の奥に針が刺さったみたいに抜けない。
父が腹部の布を少しずらす。
「腹の張りは.....強くない」
斑が記録用の木札に筆を走らせる。
「病か、急な発作か。あるいは______」
斑が言いかけたところで、父が続けた。
「毒の反応は今のところ見えん。瞳孔も異常なし。口腔内も_____」
私は思わず一歩、前に出そうになった。
(.....口の中)
唇の端。
歯の付け根。
そこに、ほんの少しだけ_____黒いものが見えた。
煤のような。でも煤にしては濡れている。
父の視線はそこを通り過ぎた。
(見落とした?)
いや、父が見落とすはずがない。
父はいつも言っていた。
_____死体は答えを持っている。
_____見るのはこちらの都合じゃない。
斑が筆を止める。
「記録は”急病”でいいですか」
急病。
その言葉が、やけに軽く聞こえた。
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
言いたい。
でも_____
(口を出さない)
父の言葉が、頭の中で繰り返される。
布に触れるな。指示なしに近づくな。そして_____分かったと言えないことは、見るな。
私は唇を噛んだ。
分かったとは言えない。
それなら、見てはいけなかったのかもしれない。
でも、見てしまった。
私は目を伏せ、拳を握りしめた。
胸の違和感を押し込めるように。
父が淡々と検死を終える。
斑が筆を走らせる。
「.....では、急病として記録」
斑の声に、父は小さく頷いた。
「.....そうだな」
その返事は、どこか硬かった。
私は、その硬さの理由が分からないふりをした。
分からないふりをすることが、この検死室では”正しい”のかもしれないと思ったからだ。
斑が白布を整えながら、ちらりと私を見る。
「見学ってのは、楽だろ」
淡々とした声。
私は反射的に頷きかけて、やめた。
楽ではない。
目の前にあるものは、ただの死体ではない。
それを、今日初めて知った。
父が器具を拭き、鞄に収める。
「帰るぞ、紗詠」
私は小さく返事をして、父の後ろを歩いた。
検死室を出ると、外の光が眩しかった。
息がしやすい。
なのに、胸の奥だけが重い。
(.....あれは、何だったんだろう)
黒いもの。
濡れた煤。
口の中。
私が口にしなかったそれは、そのまま記録にも残らない。
私は、自分が”約束を守った”ことに、少しだけ安心してしまった。
そして同時に_____その安心が、とても怖かった。




