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検死役の娘は、死体に嘘をつかせない。  作者: 雨音 穹
第二章 河灯

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第二章 河灯 第二十三話



朝の空気は冷たかった。

夜の湿り気がまだ街に残っている。

石床はわずかに濡れ、朝の光を鈍く反射していた。






私は検死室の扉を押し開ける。

だが、その瞬間。

外と同じようなざわめきが流れ込んできた。

人の声。

低い怒鳴り声のようなもの。

慌ただしい足音。

この場所ではあまり聞かない音だった。

検死室は、いつも静かな場所だ。

死体が運ばれてくる時ですら、人はあまり騒がない。

だが今日は違った。






私は戸口で足を止めた。

部屋の奥の方を見る。

数人の男が集まっていた。

役人が二人。

それから、粗末な着物を着た男が一人。

漁師だろう。

そして。

床の上に、布に包まれたものが横たわっていた。

濡れた布だった。

布の端から、水滴がぽたりと落ちる。






私はゆっくり近づく。

役人の一人がこちらに気づいた。






「おい」






私を見て言う。






「詠真殿はいるか」

「まだ来ていません」






私は答える。

役人は苛立ったように息を吐いた。






「くそ……」






そして顎で地面を示す。






「河だ」






それだけで十分だった。

私は視線を布へ落とす。

胸の奥が静かに沈んでいく。

河。

やはり。






私はしゃがみ込み、布を見た。

濡れた布の匂い。

水の匂い。

河の匂いだった。






「上がったのはいつですか」






私が聞くと、漁師の男が答えた。






「今朝だ」






声は低く、どこか疲れている。






「網に引っかかった」






男は腕を組んでいる。

何度も同じことを経験している顔だった。

河では、死体が流れ着くことは珍しくない。

役人が言う。






「検死を頼む」






私は首を振った。






「私では出来ません。父さんが来ないと」






役人は舌打ちした。






「呼んでこい」

「もう向かっていると思います」






私がそう言った時だった。

背後で足音が聞こえた。

振り向く。

父さんだった。

いつものように静かな足取りで歩いてくる。

慌てる様子はない。

だが。

床の布を見た瞬間。

ほんのわずかに、父さんの目が細くなった。

役人が言う。






「河で上がった」






父さんは短く頷いた。

それ以上は何も聞かない。

ただ一言言う。






「台へ」






役人と漁師が布を持ち上げる。

濡れた布が重く垂れる。

水がぽたりぽたりと床に落ちた。






私はその後ろを歩いた。

河から来た死体。

昨日、父さんは言った。






_____河へは行くな。






その声が頭の奥で静かに響く。

検死台の上に、布が置かれる。

父さんはゆっくり手袋をはめる。

革がこすれる小さな音がした。

役人が腕を組んで言う。






「どうせ溺れただけだ」






軽い口調だった。

河の死体は大抵そうだ、と。

足を滑らせる。

酒に酔う。

流される。

父さんは何も言わない。






布をめくる。

濡れた布が剥がれる音。

そして。

男の顔が現れた。

三十前後だろうか。

水を含んだ髪が額に張り付いている。

皮膚は白く、わずかに膨らんでいた。

口元には泡の跡。

河水を吸った溺死体の特徴だった。

役人が肩をすくめる。






「ほらな」

「河はこういうのが多い」






父さんは男の腕を持ち上げる。

水の滴る手。

指を一本ずつ見ていく。

そして。

その動きが、ほんの一瞬止まった。

私は気づいた。

爪の間。

そこに、何かが絡んでいた。

細いもの。

糸のような。

繊維のような。

水を含んで、指の間に張り付いている。

父さんもそれをじっと見ていた。

ほんの数秒。

だが。

確かに見ていた。

役人は気づいていない。






「どうだ」






父さんは手を離した。

男の腕が台の上に戻る。






「溺死だ」






答えは、あまりに早かった。

私は思わず父さんを見た。

父の表情は変わらない。

役人が満足そうに頷く。






「だろうな」

「河は危ない」






父さんはそれ以上、何も言わなかった。

だが。

その視線は一度だけ、窓の外へ向いた。

河の方向だった。






検死はそれで終わった。

役人たちは死体を布で包み直す。

漁師も無言で手伝う。

やがて男の体は再び運ばれていった。






検死室の戸が閉まる。

静けさが戻る。

残ったのは、私と父さんだけだった。

私はしばらく黙っていた。

だが、やがて言う。






「父さん」






父さんは道具を片付けている

金属の音が小さく響く。






「爪の間」






父さんの手が止まった。

ほんの一瞬だけ。






「糸があった」






父さんはゆっくり振り向く。

その目は静かだった。






「河には色々流れる」






それだけ言う。

私は続けた。






「でも、前回の溺死体と同じ。それに_____」






父さんの視線が少しだけ鋭くなる。






「何だ」






私は迷った。

だが、口を開く。






「あの糸みたいなもの...。斑が河で拾っていたの。_____それと似ていた」






空気が止まる。

父さんはしばらく何も言わなかった。

やがて静かに言う。






「紗詠。その話はするな」






昨日と同じ言葉だった。

私は父さんを見る。






「でも、河で死体が出て、爪に糸があって、それが偶然だとは_____」

「紗詠」






低い声だった。

それ以上言うな。

そういう声だった。

私は口を閉じた。

父さんは私をしばらく見ていた。






それから視線を外す。

窓の外を見る。

遠くに河がある。

ここからは見えない。

だが、確かにそこにある。

父さんは小さく言った。






「河には近づくなと言っている」






私は答えない。

沈黙が落ちる。

やがて父さんは道具を片付け終え、部屋を出ていった。






検死室には静けさだけが残った。

私はゆっくり検死台に近づく。

男が横たわっていた場所。

石の台にはまだ水が残っていた。






その時。

私は気づいた。

台の端に、小さなものが落ちている。

私は手を伸ばした。

指先で拾う。

細い。

白い繊維だった。

糸のような。

河で見たものと、同じような。

私はそれを指の上で見つめる。






河。






死体。






糸。






そして。






灯。






胸の奥で、静かに確信が形になり始めていた。

これは。

ただの噂ではない。

河には、確実に何かがある。






私は窓の外を見る。

見えない河の方へ。




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