第一章 検死役の娘 第二十二話
朝の検死室は静かだった。
窓から差し込む光が、石の床の上に細い帯を作っている。
私は扉を開けて中に入った。
昨夜の河のことが、まだ頭から離れない。
灯りは見えなかった。
だが、あの河には何かある。
そんな気がしていた。
机の上に帳面を置こうとした時、私は手を止めた。
部屋の奥に、人がいた。
椅子に座っている。
背筋をまっすぐに伸ばし、静かにこちらを見ていた。
「.....父さん」
この時間に検死室にいるのは珍しい。
しかも今日は、仕事の予定はない。
私は少しだけ驚いて言う。
「どうしたの」
父さんはすぐには答えなかった。
私の顔を見ている。
まるで、何かを確かめるように。
やがて静かに言った。
「昨夜、どこへ行った」
胸の奥が小さく鳴った。
私は少し眉を寄せ、父さんを見返した。
「.....父さんこそ」
父の目がわずかに動く。
「昨日、どこにいたの」
検死室の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
父さんは数秒黙っていた。
それから、視線を外さずに答える。
「宮城だ」
短い言葉だった。
それ以上は言わない。
私は一瞬だけ迷い、それから視線を逸らした。
「.....街」
父さんの目は動かない。
「河だな」
私は顔を上げた。
「どうして」
「斑から聞いた」
少しだけ驚いた。
斑は何も言わないと思っていた。
父さんは続ける。
「夜の河へ行ったそうだな」
私は黙っていた。
嘘をつく気にはなれなかった。
数秒の沈黙の後、私は言う。
「灯りの話を聞いたの」
父さんの表情は変わらない。
「市場で。.....河で光が浮かぶって。それが本当か確かめたかった」
父さんはゆっくりと息を吐いた。
そして言った。
「もう行くな」
短い言葉だった。
私は思わず聞き返す。
「どうして」
「危ない」
「危ないのはもうわかってる。でも、灯りの話は_____」
「紗詠」
父さんの声が、少し強くなった。
私は言葉を止める。
「灯りの話はするな」
私は眉を顰めた。
「どうしてよ」
父さんは答えない。
「父さんも、斑も何も答えないのね」
しばらく沈黙が続く。
私は一歩近づいた。
「父さん。私は今でも、検死役は死体の真実を書く仕事だと思ってるし、そう言いたい」
父さんの目がわずかに揺れる。
私は続ける。
「もし河で人が死んでいるなら、それを知らないふりはできない」
父さんは立ち上がった。
椅子が小さく軋む。
そして、私の前に立つ。
父さんは背が高い。
近くで見ると、その影が少しだけ大きく見えた。
「紗詠」
低い声だった。
「世の中には」
一度言葉を切る。
「知らなくていいこともある」
私は首を振る。
「私は知りたい。灯りが何なのか。どうして噂があるのか。もし、死体が関係しているなら_____」
「やめろ」
父さんの声が、はっきりと強くなった。
私は驚いて黙る。
父さんはすぐに声を落とした。
だが、その目は鋭かった。
「それ以上言うな」
検死室は静まり返っていた。
外で風が鳴る。
私は父さんを見る。
その表情は、怒っているようにも見えた。
だが。
それだけではない。
どこか_____
恐れているようにも見えた。
私は小さく言う。
「父さんは、灯りを知ってるの?」
父さんの目が止まる。
ほんの一瞬だった。
だが、静かに止まった。
次の瞬間、言った。
「知らない」
短い言葉だった。
私は何も言えなかった。
父さんは背を向ける。
扉の方へ歩く。
その背中に向かって、私は聞いた。
「もし」
父さんの足が止まる。
「もし、河で死体が見つかったら、それでも調べないの?」
数秒の沈黙。
父さんは振り返らない。
ただ低く言った。
「その時は、事故として処理する」
私は息を止めた。
それは。
検死役として、言ってはいけない言葉だった。
父さんは扉を開ける。
外の光が差し込んだ。
父さんが最後に言う。
「紗詠」
私は顔を上げる。
「河へは行くな」
その声は命令のようで、そしてどこか、懇願のようにも聞こえた。
扉が閉まる。
検死室には、静けさだけが残った。
私はその場に立ったまま動けなかった。
父さんの言葉が、頭の中で繰り返されている。
_____事故として処理する。
それは、真実を書く仕事をしてきた人間の言葉ではなかった。
私はゆっくりと机に向かう。
帳面を開く。
そして、小さく書いた。
私見:灯りの噂には何かが隠されている
墨が紙に染み込む。
私は筆を止めた。
父さんは、何かを知っている。
そして、それを隠している。
胸の奥で、静かに何かが決まった。
たとえ、父さんが止めても。
私は_____
灯りを調べる。
その先に何があっても。




