第一章 検死役の娘 第二十話
朝の市場は騒がしかった。
通りには野菜の籠が並び、干し魚の匂いと香草の匂いが入り混じっている。
商人たちの声が重なり、値段の掛け合いが飛び交っていた。
検死室とは、まるで違う空気だった。
私は人の流れの中を歩きながら、耳を澄ませていた。
_____灯り。
その言葉を、初めて聞いたわけではない。
だが、はっきりとした意味を知ったことはなかった。
子どもたちが遊びの中で口にする言葉。
老人が昔話のように語る言葉。
それだけのものだと思っていた。
だが、昨夜の出来事が頭から離れられない。
暗い河。
水の底。
そして_____斑。
あの男は、何を回収していたのだろう。
私は市場の端で野菜を並べている老婆に声をかけた。
「すみません」
老婆は顔を上げ、皺の刻まれた目を細めた。
「なんだい」
「灯りって.....知っていますか」
老婆は少しだけ首を傾げた。
「灯り?」
「死んだ人が灯りになるっていう噂です」
その言葉を聞いた瞬間、老婆は小さく笑った。
「ああ」
籠の中の葉を整えながら言う。
「子どもの遊びだよ」
「遊び?」
「昔からあるんだ。死んだら灯りになるってね」
私はさらに聞いた。
「本当に見た人はいるんですか?」
老婆はしばらく考え、それから首を振った。
「さあねえ。私は見たことないよ。でも、見たって言う人はいる」
「どこで見たって言うんですか?」
老婆は肩をすくめた。
「さあ.....。夜道とか、山とか.....」
そこまで言ってから、ふと思い出したように付け加える。
「河だって言う人もいるね」
私は一瞬、言葉を止めた。
「河?」
「夜の河に灯りが浮くって」
老婆は軽く笑う。
「まあ、酔っ払いの話さ」
私は礼を言い、その場を離れた。
市場の奥から、子どもの声が聞こえる。
走り回る足音。
弾けるような笑い声。
「お前昨日見ただろ!」
「見てねえよ!」
「嘘つけ!」
「灯りだろ!」
私は足を止めた。
子どもたちは地面に石を並べ、何かの遊びをしていた。
一人の少年が言う。
「父ちゃんが言ってたんだ」
「灯りは死んだ人なんだって」
「死んだ人?」
別の子が笑う。
「じゃあいっぱい死ねば、いっぱい灯るじゃん!」
「お前馬鹿か!」
笑い声が弾けた。
私はその場を離れ、通りを抜ける。
市場の喧騒が少し遠くなった。
干し肉を吊るした店の前で、腕を組んでいる男に声をかける。
「すみません。灯りって見たことありますか?」
男は少し考え、それから答えた。
「あるな」
私は思わず聞き返した。
「本当ですか」
「ああ」
「どこで見たんですか」
男は通りの奥を指した。
「河だ」
胸の奥で、何かが静かに動いた。
「夜だった」
男は続ける。
「風もなくて、河面が静かだった」
「その時、ぽつんと光が浮いてた」
「火ですか」
男は首を振る。
「火じゃない」
「じゃあ.....」
「灯りだ。不思議なもんでな、あの光が出る夜は、決まって河から妙な匂いがするんだ。.....まあ、俺の見間違いかもしれんがな」
それ以上、男は説明しなかった。
私は礼を言い、その場を離れた。
通りの端まで歩く。
市場の音が、背後に遠ざかる。
前方には、河へ続く道がある。
私は立ち止まった。
灯り。
子どもは遊びとして語り、
老人は噂として語り、
大人は一度だけ見たと言う。
だが、共通していることが一つだけある。
_____河。
風が吹き、通りの旗が揺れた。
昨夜の光景が脳裏に浮かぶ。
暗い水面。
そして。
斑の姿。
私は静かに目を伏せた。
もし灯りが本当にあるのなら。
それは_____
どこから現れるのだろう。
私はゆっくり顔を上げる。
河へ続く道を見た。
その先にあるものを、私はまだ知らない。
だが。
確かめるしかない。
灯りが、本当に存在するのなら。




