第一章 検死役の娘 第十八話
なぜ。
あの時、何も言えなかったのか。
夜は深く、家の中は静まり返っている。
灯りは一つだけ。
机の上で、小さく揺れている。
河の匂いが、まだ衣に残っている気がした。
水と泥の、冷えた匂い。
袖を握る。
糸。
斑の指先から持ち上がった、あの細い影。
_____私見:他殺の可能性あり。
自分で書いた文字が、胸の奥に沈んでいる。
死体に、嘘をつかせない。
そう決めた。
どれほど圧があろうと、どれほど面倒なことになろうと、最後に口を持つのは私だと。
ならば。
あの場で問うべきだった。
「何を拾ったのですか」と。
斑が関わっている可能性が、わずかでも浮かんだのなら。
なおさら。
それなのに。
声は、喉で凍った。
机に両手をつく。
冷たい木の感触が、掌に伝わる。
弱い。
こんなにも、揺らぐのか。
思い出す。
まだ幼かった頃。
一度だけ、検死室に入らせてもらったことがある。
その頃はまだ遺体が怖くて、布の下にある”何か”を直視できなかった。
その時、低く言ったのは父だ。
「見るなら、最後まで見ろ」。
逸らしかけた視線を、父の声が止めた。
「目を逸らすな」。
あの日から死体は恐怖ではなく、”語るもの”になった。
そして。
検死室を出た後、無言で水を差し出したのが斑だった。
震えている私の手から器がこぼれないように、下からそっと支えただけ。
慰めの言葉はなかった。
「大丈夫か」も、言わない。
ただ、立っていた。
父が”向き合わせる人”なら、斑は”立ち続ける人”だった。
別の日。
河辺で転び、膝を擦りむいた。
泣くまいと歯を食いしばっていたら、斑は無言で布を差し出した。
「子どもが隠すな」。
その時、叱られた。
けれど、包帯を巻く手は丁寧だった。
また別の日。
夜更けまで医術や薬草の勉強をしていると、背後に気配があった。
振り返ると、斑が灯りの芯を整えていた。
「火が弱い」。
それだけ言って、すぐに離れる。
必要以上に近づかない。
けれど、いなくならない。
兄のようだった。
血は繋がらない。
だが、幼い頃から視界の隅に、必ずいた人。
声を荒げない。
甘やかさない。
触れすぎない。
けれど、いつも”そこ”にいた。
その人に。
疑いを向ける。
胸の奥が、じくりと痛む。
もし。
もし斑が、この件に関わっているのだとしたら。
私は。
死者の側に立つのか。
それとも。
斑の側に立ってしまうのか。
考えただけで息が浅くなる。
あの河原。
糸を懐へ入れた姿。
隠すようには見えなかった。
けれど、説明もしなかった。
私を止めなかった。
_____止めなかった。
それは、信頼か。
それとも。
私が問いただせないことを、知っていたのか。
拳を握る。
死体に、嘘をつかせない。
そのためなら、誰であろうと疑う。
父でも、斑でも。
.....本当に?
幼い頃、夜更けに雷が鳴った日。
眠れずにいた私の部屋の外で、足音が止まったことを覚えている。
戸は叩かれなかった。
けれど、そこに誰かが立っている気配だけがあった。
翌朝、何事もなかったように斑はいつも通りの顔をしていた。
あの時、私は安心して眠った。
声もなく、触れもせず、ただ”いる”ことで守る人。
その人を。
疑う。
机の上の私的記録を開く。
墨は乾いている。
_____他殺の可能性あり。
文字を指でなぞる。
揺らぐな。
もし、斑が関わっているのなら。
それでも、私は書く。
たとえ。
その先で、幼い頃から積み重ねてきた何かが、音もなく崩れたとしても。
灯りの火が、小さく揺れる。
影が壁に伸びる。
私は、死者の側に立つ。
それだけは、曲げない。
.....曲げない。
そう言い聞かせても、胸の奥の震えは、完全には消えない。
夜は深い。
河の音が、遠くで鳴っている気がした。




