第一章 検死役の娘 第十七話
夜は既に静まり返っていた。
静かすぎて、音が浮く。
布が擦れる音。
自分の呼吸。
遠くの犬の遠吠え。
私的記録は布に包み、胸元へ。
検死室は闇に沈む。
扉を閉めると、木が軋んだ。
夜は深い。
帰路はいつもより長く感じた。
足裏に伝わる石の硬さがやけに鮮明だ。
あの遺体の爪。
絡んでいた微細な繊維。
偶然なわけがない。
胸の内で言葉が止まる。
_____他殺の可能性あり。
その時。
水の音がした。
立ち止まる。
風かもしれない。
だが、違う。
流れに、何かが触れている音。
河はすぐ裏手だ。
あの溺死体が引き上げられた浅瀬。
足が、自然に向く。
月は薄く、雲が流れている。
河原に下りる手前で、影が見えた。
低くしゃがむ人影。
斑。
月が雲間から顔を出した。
その光が、斑の横顔を淡く照らす。
水面から跳ね返る白い光が頬を撫で、濡れた指先がかすかに輝く。
整いすぎた輪郭。
長い睫毛の影。
伏せられた目元の線は静かで、冷たい。
一瞬だけ、現世のものではないように見えた。
河辺に降り立った天女のようだと思ってしまった自分に、すぐに息が詰まる。
美しい。
だからこそ、怖い。
声は出さない。
斑は袖をまくり、素手を水へ差し入れている。
冷たいはずだ。
夜の河は、昼とは別の顔を持つ。
指先が沈む。
石をどける。
泥を払う。
水が濁り、すぐ澄む。
まるで、そこに何かあると知っているような手つき。
胸の奥がざわつく。
私の記録。
_____爪の間に、微細な繊維付着あり。
斑の指が止まる。
ゆっくりと、水面から持ち上げるものがあった。
細い。
闇に溶ける色。
糸のように見える。
月が雲に隠れ、輪郭が揺らぐ。
斑は掌にそれを乗せ、しばらく見つめる。
捨てない。
流さない。
懐へ入れた。
呼吸が浅くなる。
なぜ、持ち帰る。
私は一歩踏みだす。
小石がかすかに鳴った。
斑の視線が、こちらを向く。
真っ直ぐ。
驚きはない。
気づいていた。
最初から。
責めない。
隠さない。
説明しない。
ただ、見る。
私の胸元へ、一瞬だけ視線が落ちる。
心臓が強く鳴る。
斑は立ち上がる。
濡れた手を河水で軽く洗う。
雫が石を打つ。
私の横を通り過ぎる。
水と、泥の匂い。
すれ違う距離は腕一つ分。
斑は、まるで私のことなんか見えてないようだった。
何も言えない。
足音が遠ざかる。
河だけが流れている。
私は河原へ下りる。
斑がいた場所。
石がいくつか動いている。
指を水に沈める。
冷たい。
皮膚が刺されるように冷たい。
泥だけが指の間を抜ける。
水は、全てを運ぶ。
けれど。
あの糸は運ばれなかった。
胸の奥が、静かに冷える。
もし、他殺なら。
証拠はまだ流れている。
そして。
斑はそれを知っている。
もしくは_____
月が雲間から覗く。
河面が揺れる。
私は立ち上がる。
帰路は先ほどより、短く感じた。
背後に足音はない。
それでも、気配だけが残る。
斑は動いている。
私を止めないまま。
それが救いか、監視か。
まだわからない。
河は、何も答えない。




