第一章 検死役の娘 第十六話
夜の検死室は、昼よりも匂いが濃い。
火は落としてある。
灯りは、卓上の油皿だけだ。
父さんは既に帰った。.....斑も。
中央に回収された溺死の記録。
机の上には、もう存在しない。
空白だけが残っている。
_____記録は一つでいい。
複数あると、解釈が生まれる。
あの声がまだ、耳に残っている。
解釈が生まれると、困るのだ。
なぜ。
解釈は、そんなに恐ろしいものだろうか。
私は引き出しを開ける。
帳簿の下に隠していた、小さな綴じ冊子。
表紙は無地。
題名はない。
まだ一文字も書かれていない。
少しだけ、迷う。
これは命令ではない。
義務でもない。
ただの、私の意思だ。
油皿の火が揺れる。
私は筆を取る。
_____案件:河川溺死
公式記録:事故
所見:肺水量と胃内容物に不整合あり
私見:他殺の可能性あり
墨が紙に沈む。
静かな音。
だが確かに、何かが刻まれる。
胸が高鳴る。
怖い。
だが、それ以上に。
静かな確信がある。
公の記録は、上へ吸い上げられる。
ならば。
ここに残るものがあってもいい。
私は続けて書く。
検体の状態。
皮膚の蒼白。
爪の間の微細な繊維。
流速と溺死時間の齟齬。
公的帳簿には記さなかった細部。
それは推測ではない。
観察だ。
私は、解釈しているのではない。
見たものを書いているだけだ。
筆が止まる。
_____コツ。
外の石床が、かすかに鳴った。
心臓が跳ねる。
誰かいる。
私は顔を上げる。
戸の向こう。
気配。
呼吸を潜める。
やがて、足音が遠ざかる。
静寂。
ゆっくりと戸を開ける。
廊下には、誰もいない。
ただ、灯りの消えた階段が続いているだけ。
戻る。
冊子はそのまま机の上にある。
奪われてはいない。
私はそれを閉じ、胸元へ入れる。
.....見られたかもしれない。
だが、止められなかった。
止められなかったということは。
許されたわけではない。
ただ、まだ判断されていないだけだ。
私は最後の行を書き足す。
_____本記録は私的保管とする。
墨が乾く。
検死室は、国家へ続く入口だ。
だが、ここはまだ私の場所でもある。
死は消えない。
管理されるだけだ。
ならば私は、管理されない死を書く。
灯りを吹き消す。
暗闇の中で、紙の感触だけが確かだった。
そして廊下の奥で、誰かが立ち止まった気配だけが、かすかに残っていた。




